序章 第19話 「家族」
クロは、もうすぐ十四歳になる。
この国では、十四歳で大人として扱われる。仕事を選び、家を出る者もいれば、親の仕事を継ぐ者もいる。王都へ向かう者も、兵に志願する者もいる。
クロも、その年齢に近づいていた。
背は、もう母とほとんど変わらない。まだ頬には幼さが残り、眠っている時の顔などは昔のままだと母は言う。けれど、畦道を走る足は速くなり、芋酒の樽を運ぶ背中は前よりずっと安定していた。
朝に走り、昼は働き、空いた時間に体を動かす。
そんな日々は、いつの間にか特別なことではなくなっていた。
「クロ、こっちの数も頼む」
「うん。すぐ見る」
芋酒の樽が並ぶ小屋の前で呼ばれ、クロは帳面を受け取った。
荷札に書かれた数と、帳面に記された数を見比べる。出荷先、樽の数、納める分、商人へ渡す分。間違えれば、あとで誰かが困る。
クロは指で一つずつ追った。
「こっちは十二。帳面は十一。一本多いよ」
「おっと、危ないな」
「危ないのは樽じゃなくて帳面。ここ直さないと、次も間違えるよ」
「はいはい、頼りにしてるよ」
「頼るなら、ちゃんと綺麗に書いて。ここの六、ちょっと五に見える」
そう言うと、大人たちは笑った。
昔のクロなら、きっとそこまで言わなかった。
見て、気づいて、黙っていた。
けれど今は違う。気づいたことを言葉にする。言葉にして、直す。直したあと、本当に直ったかもう一度確かめる。
クロは、そういうことが前より自然にできるようになっていた。
その日の夕方、仕事を終えたクロは、家の前で水を飲んでいた。
夕焼けが畑の端を赤く染めている。芋酒を仕込む小屋の方からは、甘く重い匂いが流れてきていた。ヨルは庭先で小枝を並べ、何かの列を作っている。
父は小屋のそばで道具を片づけ、母は家の中から夕食の支度をしていた。
いつもと同じ夕方だった。
けれど、クロは少し前から分かっていた。
いつまでも同じままではいられない。
夕食が終わったあと、母は器を片づけようとしていた。
父は火のそばで、刃物の手入れに使った布を畳んでいる。ヨルは眠そうな顔で、クロの膝に寄りかかっていた。
いつもなら、そのまま一日が終わる。
けれど、クロは終わらせなかった。
「お父さん。お母さん」
自分の声が、思っていたより硬く聞こえた。
父の手が止まった。
母も、器を持ったままクロを見た。
ヨルだけが、何も分からない顔でクロを見上げている。
クロは膝の上で手を握った。
「話したいことがあるの」
父と母は、すぐには何も言わなかった。
母は器をそっと置き、濡れた手を布で拭いた。その手つきはいつも通りだったけれど、少しだけ遅かった。
父は短く息を吐いた。
驚いた顔ではなかった。
ただ、いつか来ると思っていたものが、今ここに来たような顔だった。
父と母は、火のそばに座った。
その沈黙が、怖かった。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
ずっと言えなかった。
けれど、もう言わないままではいられなかった。
クロは顔を上げた。
「私、竜騎士団へ行きたい」
言った瞬間、胸の奥が熱くなった。
父も母も、すぐには何も言わなかった。
火が小さく鳴る。
ヨルがクロの顔を見上げる。
クロはそこで止まらなかった。
言うと決めたのだ。
なら、最後まで言わなければいけない。
「助けてもらったからだけじゃない。白い竜のことも、赤い竜のことも、ロザのことも、黒い竜のことも知りたい。竜騎士団がどこへ飛んで、何を見て、どうやって誰かを助けるのかも知りたい」
そこまでは、何度も胸の中で繰り返してきた言葉だった。
けれど、本当に言わなければいけないのは、その先だった。
クロは一度、息を吸った。
「でも、それだけじゃない」
母の指が、膝の上で少しだけ動いた。
父は黙っていた。
クロは、声が震えないようにしようとして、できなかった。
「私は、間に合える人になりたい」
言葉にした瞬間、あの日の匂いが戻ってきた。
砕けた教会。
白い粉塵。
泣く声。
動かない人。
助かった人。
助からなかった人。
白い竜は来てくれた。
けれど、すべてに間に合ったわけではなかった。
「誰かが、もうだめだと思いながら死んでいくのを、少しでも減らしたい。助けが来ないまま、怖いまま、痛いまま終わるのを……なくしたい」
声が震えた。
「全部は無理かもしれない。でも、一つでも、少しでも、間に合えるなら……私は、そこへ行ける人になりたい」
言い終えたあと、部屋の中が静かになった。
父は長い間、何も言わなかった。
母も、目を伏せていた。
火が、小さく鳴った。
あの日のことを、二人も思い出しているのだと、クロには分かった。
やがて、母が小さく息を吸った。
「危ない場所よ」
「うん」
「怪我をするかもしれない」
「うん」
「帰ってこられない日があるかもしれない」
クロの喉が詰まった。
けれど、目を逸らさなかった。
「……うん」
母の声は、少し掠れていた。
「それでも?」
クロは、握った手に力を込めた。
「それでも、行きたい」
父が、低く言った。
「俺は、止めたい」
クロは顔を上げた。
父の手は、膝の上で強く握られていた。
「止めたいに決まってる。お前は、俺たちの大事な娘だ」
クロは何も言えなかった。
父は続けた。
「けど、お前が何年もかけて、そこへ向かっていたのは分かっていた」
その言葉で、胸の奥が大きく揺れた。
やはり、分かっていたのだ。
朝に走っていたことも、仕事を早く終わらせようとしていたことも、樽を運んでいたことも、空を見上げていたことも。
それが、ただ体を鍛えたいからでも、ただ働き者になったからでもないことを。
父も母も、分かっていた。
クロの夢がどこへ向かっているのか。
いつか、この家を出る話になるのだということも。
それでも、先に言わなかった。
止めることも、問い詰めることもしなかった。
クロが自分の口で言える日まで、待っていてくれた。
それが分かった瞬間、胸の奥で何かがほどけそうになった。
母がクロの頬に手を伸ばした。
「応援はする」
その手は、少しだけ震えていた。
「でも、心配しないとは言えない。時々で良い。帰ってきて。顔を見せて」
クロは返事をしようとした。
うん、と言うつもりだった。
けれど、声が出なかった。
胸の奥でずっと固まっていたものが、急にほどけた。
涙が出た。
一度出ると、止まらなかった。
クロは自分でも驚いた。こんなふうに泣くつもりはなかった。ちゃんと話して、ちゃんと頷いて、ちゃんと大人になるつもりだった。
けれど、無理だった。
「……っ、う……」
声が漏れる。
母がクロを抱き寄せた。
クロは母の胸に顔を押しつけ、子供みたいに泣いた。父の大きな手が、不器用に背中へ置かれる。
その手が温かくて、余計に涙が出た。
ずっと言えなかった。
言いたかった。
怖かった。
でも、行きたかった。
全部が一度にあふれて、止まらなかった。
ヨルは、泣いているクロを見て、自分も泣きそうな顔になった。
「くろ、いたい?」
クロは泣きながら首を振った。
「いたく、ない」
「じゃあ、なんでないてるの?」
父が小さく息を吐いた。
母は涙を浮かべながら、少しだけ笑った。
クロも、泣きながら少し笑ってしまった。
「……わかんない」
「わかんない?」
「うん。わかんない」
ヨルはしばらく真剣に考えたあと、クロの袖をぎゅっと掴んだ。
「くろ、どっかいくの?」
その言葉に、クロの涙がまた増えた。
父がヨルの頭に手を置いた。
「まだすぐじゃない」
母が続けた。
「でも、いつか行くの」
ヨルはクロを見た。
「いつか?」
クロは涙を拭きながら、何とか頷いた。
「うん。いつか」
ヨルは少しだけ唇を尖らせた。
「よるも、はしる」
その場の空気が、少しだけ緩んだ。
父が思わず笑った。
「お前はまず、転ばずに走れ」
「ころばない」
「昨日転んだだろう」
「ころんでない。じめんが、きた」
クロは泣きながら、とうとう笑ってしまった。
母も笑った。
父も、短く笑った。
温かい火の明かりの中で、クロはまだ涙を止められなかった。けれど、さっきまで胸を締めつけていた怖さは、少しだけ形を変えていた。
夢は、もう一人だけのものではなくなっていた。
その夜、クロは父と母の間で、子供みたいに泣いた。
十四歳を目前にした、もうすぐ大人になる娘としてではなく、ずっと言えなかった夢をようやく渡せた子供として。
ヨルはその横で、よく分からないままクロの袖を握っていた。
家の外では、夜のジェミノ村が静かに眠っている。
畑も、水路も、芋酒の小屋も、見張り台も、かけしっぽのいる石も、全部そこにある。
いつか離れるかもしれない場所。
けれど、帰ってくる場所。
クロは泣き疲れた顔で、もう一度小さく言った。
「私、お父さんとお母さんの娘でよかった」
母がクロの髪を撫でた。
父は短く頷いた。
「そうか」
その一言で、また涙がこぼれた。
けれど今度は、少しだけ笑いながら泣いた。




