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序章 第18話 「目標とするもの」

クロは、朝まだ暗いうちに目を覚ました。


家の中は静かだった。父も母も、ヨルもまだ眠っている。布団から出ると、床板の冷たさが足の裏に伝わった。


けれど、もう一度眠ろうとは思わなかった。


――大変だけど。


あの日、レイナはそう言っていた。


竜騎士には、女の人でもなれる。けれど、大変だと。


その言葉は、ずっとクロの中に残っている。


竜騎士団の訓練がどんなものかは知らない。どれだけ走れればいいのかも、どれだけ重いものを持てればいいのかも分からない。


けれど、大変なら、少しずつ慣れればいい。


まずは、自分がどこまでできるのかを知りたかった。


クロは上着を羽織り、そっと家を出た。




朝のジェミノ村は、まだ薄い青色をしていた。


畑には霜が降り、芋酒を仕込む小屋の方からは昨日の残り香がかすかに漂っている。見張り台は暗い空を背にして立ち、柵の向こうでは森が黒く沈んでいた。


クロは家の前で軽く体を伸ばした。


分からないなら、まず知るしかない。


自分がどこまで走れるのか。どこで息が切れて、どこで足が動かなくなるのか。それを確かめるには、限界まで走るのが一番早い。


クロはそう考え、村の外周を走り出した。


一周目は軽かった。


霜の降りた畦道を抜け、水路沿いを回り、見張り台の下を通って、家々の裏手へ戻る。体は温まり、息も少し弾んだが、まだ苦しくはない。


二周目も走れた。


三周目で、喉の奥が熱くなった。


四周目で、足が少し重くなった。


五周目を過ぎる頃には、朝の冷たい空気を吸うたびに、胸の中が焼けるようになっていた。


それでもクロは止まらなかった。


村の外周を十周すれば、隣の村まで歩くのと同じくらいになる。前に商人がそう言っていた。


なら、十周。


そう決めていた。


六周目、七周目、八周目と進むうちに、何度か足がもつれそうになった。小石を踏んで体が傾くたび、尻尾で釣り合いを取り、転ぶ前に踏み直す。


九周目には、もう景色を見る余裕はほとんどなかった。


水路の音も、鳥の声も、遠くで鳴いた家畜の声も遠い。自分の息の音だけが、耳の奥で大きく聞こえていた。


十周目。


見張り台の下を通り過ぎたあたりで、クロの足はほとんど上がらなくなっていた。


それでも、最後まで走った。


家の前まで戻った時、クロは膝に手をついた。


息が苦しい。足が震えている。喉の奥が痛い。胸の中が熱い。少しだけ、吐きそうだった。


「……これは、だめ」


クロは小さく呟いた。


十周は走れた。


けれど、そのあと動けなくなる。


それでは意味がない。


竜騎士が任務へ向かう前に走って、そこで足が使えなくなったら、誰も助けられない。走れるかどうかだけではだめなのだ。走ったあとに、まだ動けなければいけない。


クロは震える足を見下ろした。


限界は分かった。


そして、初日から限界まで走るのは失敗だということも分かった。


とても静かに、クロは反省した。


ただし、その日の仕事を休むつもりはなかった。


ここで母に心配されれば、理由を訊かれる。父に足の震えを見られれば、何をしていたのか訊かれるかもしれない。


それは困る。


まだ言えない。


竜騎士団へ行きたいなんて、まだ言えない。


クロは井戸の水で顔を洗い、息を整えた。足はまだがくがくしている。けれど、歩けないほどではない。


なら、大丈夫。


そう判断して、いつもの朝へ戻った。




朝食の時、母はいつも通りに粥をよそった。


「クロ」


「うん」


「今日は、畑の手伝いは父さんと一緒に行きなさい」


「……うん」


それだけだった。


母は何も訊かなかった。父も、何も訊かなかった。


ただ父は、畑へ向かう途中で、クロの歩く速さに合わせるように少しだけ歩幅を緩めた。


クロは気づいた。


気づいたけれど、何も言わなかった。


その日、クロはいつも通りに働いた。水を運び、畑の石を拾い、荷札の数を確認した。


ただ、しゃがむ時に太ももが震えた。立ち上がる時に膝が少し笑った。水桶を持った時、腕より先に足が文句を言った。


クロは顔に出さないようにした。


けれど、母は昼の粥に芋を少し多く入れた。父は籠を持つ時、何も言わずにクロが持っていた重い方の籠を持ち上げた。


二人とも、何も訊かなかった。


クロも、何も言わなかった。


けれど、気づかれていないとは思わなかった。


何を目指しているのかまでは分からなくても、クロが何かを始めたことには、きっと気づいている。


それでも訊かないでいてくれる。


その距離が、少しだけありがたくて、少しだけ怖かった。


言ってしまえば、どうなるか分からない。


クロはまだ、その言葉を父と母に渡す勇気がなかった。




それから、クロは朝に走るようになった。


ただし、もう初日のような走り方はしない。


村の外周を二周。余裕があれば三周。走ったあとに、ちゃんと仕事ができるところまで。


そう決めた。


慣れてくると、今度は少しずつ負荷を足した。


水桶を二つ持つ。薪を一束多く運ぶ。石拾いでは、少し大きい石を選ぶ。見張り台へ登る時には、空の小樽を一つ抱えていく。


本人は、ただ段階を踏んでいるだけのつもりだった。


村の大人たちも、止めなかった。


獣人がほとんどを占めるジェミノ村の暮らしは、そもそも体を使う。水桶を運び、石を拾い、畑を耕し、樽を動かす。おまけに猫獣人は身軽で、足もよく動く。


だからクロが空の小樽を抱えて見張り台から下りてきても、大人たちは驚くより先に足の置き方を直した。


「膝を固めるな」


「樽を体から離すな」


「下りは慎重にな」


叱られているのか、教えられているのか、クロには分からなかった。


父も止めなかった。


ただ、クロが樽を持つ時には、いつの間にか近くにいた。


「腕だけで持つな」


「うん」


「背中で支えろ。あと、足を止めるな。止まったところから持ち上げる方がきつい」


父は樽を少し傾け、体の近くで支えながら動かしていた。力任せではなく、重さの向きを使っている。


「……そうやるんだ」


「そうやるんだ」


父は同じ言葉を返した。


それ以上は訊かなかった。




母は、相変わらず何も訊かなかった。


けれど、朝戻ってきたクロの髪が湿っていることにも、前より重い籠を選ぶようになったことにも、仕事を早く終わらせて空いた時間に別の手伝いを探していることにも気づいていた。


それでも、問い詰めなかった。


ただ次の日から、井戸のそばに小さな木の椀が置かれるようになった。朝の粥には、前より少しだけ芋が多く入るようになった。


クロは、それに気づいた。


気づいたけれど、何も言わなかった。


母も、父も、何も言わなかった。


言葉にしないまま見守られているようで、少し恥ずかしくて、少し嬉しかった。




昼間の仕事も、クロは前より早く終わらせるようになった。


ただ急ぐのではない。


荷札を見落とせば、樽の数が合わなくなる。水桶をこぼせば、もう一度汲みに行かなければならない。


だから、手順を考えた。


先に何を運ぶか。どの道を通れば早いか。どこで足元がぬかるむか。どの籠なら、無理なく長く持てるか。


同じ仕事でも、やり方を変えると少し早くなる。疲れ方も変わる。


前はただ大変だったことが、少しずつ分けて考えられるようになっていった。


「クロ、最近早いね」


年下の子に言われて、クロは薬草の束を数えながら顔を上げた。


「早い?」


「前より、仕事終わるの早い」


「間違えたらやり直しだから、早いだけじゃだめだけどね」


「じゃあ、なんで急ぐの?」


クロは少し黙った。


言えば、きっと言葉が形になる。


けれど、まだ言えない。


「……空いた時間に、やりたいことがあるから」


「遊ぶの?」


「ううん」


「じゃあ何?」


「内緒」


「えー」


「内緒は内緒」


クロはそう言って、薬草の束をもう一度数えた。




商隊が来た日、クロは少し離れた貯蔵庫から荷車のそばまで、芋酒の樽を運んでいた。


途中で止まると、持ち直す方が大変になる。腕だけで支えるとすぐにつらくなる。体に寄せて、背中と脚を使う。


父に教わった通りだった。


クロは樽を荷車のそばに置いた。


荷台の上で、商人が固まっていた。


「……今の、何を運んできたんだい?」


「芋酒の樽」


「中身は?」


「入ってるよ」


「なみなみに?」


「こぼしてない」


「いや、そこじゃなくてね……」


商人はゆっくり父の方を見た。


「この村では、子供に中身入りの樽を運ばせるのかい?」


父は少し考えた。


「近い距離ならな」


「近い距離ならな、じゃないんだよなぁ……」


商人はもう一度クロを見た。


「王都の荷運びでも、それは大人が二人で上げる重さだよ」


クロは樽を見た。


「でも、荷台に上げたわけじゃないよ。ここまで運んだだけ」


「そこまで運ぶのがもうおかしいんだが」


「そうなの?」


「そうだよ」


商人は困ったように笑った。


「この村、子供の基準がおかしくないかい?」


父は樽の位置を直しながら、いつもの調子で答えた。


「よく働く子ではあるな」


「そういう話かなぁ……」


商人はしばらく困ったように笑っていた。


クロは、なぜそこまで驚かれるのかよく分からなかった。


自分では、まだ足りないと思っている。


竜騎士団の人たちは、もっと重い装具を身につける。怪我人を運ぶこともあるかもしれない。魔物のいる森で、倒れた誰かを引きずって逃げることもあるかもしれない。


芋酒の樽ひとつで満足していたら、きっと届かない。


そう思うと、胸の奥が熱くなった。




ヨルは、クロが走るのを見るのが好きだった。


朝、眠そうな目で外へ出てきて、走っているクロをじっと見ていることがある。クロが戻ってくると、小さな手を振った。


「くぉ、はしる」


「うん。走ってる」


「とおく?」


クロは少し驚いた。


「遠く?」


「とおく、いく?」


意味が分かっているのか、いないのか、ヨルはまっすぐにクロを見ていた。


クロはしゃがみ、ヨルと目の高さを合わせた。


「うん。いつか、遠くまで行けるように」


「とおく」


「そう。すごく遠く」


「りゅ?」


ヨルは空を指した。


クロは一瞬だけ言葉に詰まった。


「……うん。竜のいるところ」


「りゅ」


「竜騎士団はね、空を飛ぶんだよ。竜に乗って、地図に名前がない場所にも行くの。誰かが困っていたら、そこまで飛んでいくの」


ヨルは分かったような、分かっていないような顔で、クロを見ていた。


クロは少しだけ笑った。


「だから、私も……」


そこまで言って、言葉を止めた。


私も、行きたい。


喉の奥まで出かかった言葉を、飲み込む。


ヨルは首をかしげた。


「くぉ?」


「ううん。なんでもない」


「なんでも?」


「なんでもない」


クロはヨルの頭をそっと撫でた。


まだ言わない。


でも、言いたくてたまらなかった。




夕方、クロは庭先の石のそばにいた。


かけしっぽがいる。


尾の欠けた小さな蜥蜴は、石の上で体を低くしていた。近づきすぎれば逃げる。けれど遠すぎれば、何をしているのか分からない。


クロは一歩だけ近づいた。


ここまでなら、大丈夫。


そう感じた。


もう一歩進めば、逃げる。


それも、なんとなく分かった。


クロは足を止めた。


かけしっぽは逃げなかった。小さな目でこちらを見て、また石の上に体を預ける。


「そっか。ここまで」


クロは小さく言った。


声ではない。


言葉でもない。


けれど、見ているだけでは届かなかったものが、少しだけ近くなっている気がした。


それが何なのかは、まだ分からない。


でも、分からないからこそ、知りたかった。




その夜、クロは眠る前に、建国記の表紙に手を置いた。


三年前、ただ眺めることしかできなかった本を、今はもう自分で読める。


読めるようになったから、分からないものが増えた。


分からないものが増えたから、知りたいことも増えた。


竜騎士団へ行きたい。


その願いはもう、胸の奥で確かな熱を持っていた。


朝になれば足が動き、昼になれば手が急ぐ。空いた時間には体を鍛える方法を探し、夜になると、何度も言葉になりかける。


――大変だけど。


レイナの声が、また胸の奥で響いた。


大変なら、少しずつ慣れればいい。

大変なら、今から自分を変えていけばいい。


明日も走ろう。


そう思うたび、胸の熱は少しずつ大きくなった。


父にも、母にも、まだ言えない。


けれど、言わないでいられる時間が、少しずつ短くなっていることも分かっていた。


父も母も、たぶん気づいている。それでも訊かない。


クロも、まだ言わない。


その沈黙の中で、夢だけが静かに育っていく。


クロは布団の中で、小さく拳を握った。


竜騎士団へ行きたい。


その夢はもう、胸の奥にしまっておけるほど小さくなかった。

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