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序章 第17話 「輪郭」

白い竜がいない空は、一日だけでは終わらなかった。


次の日も、その次の日も、王都の方角から鐘の音が聞こえるたび、クロは手を止めて空を見上げた。竜騎士団は飛んでいる。隊列は乱れていない。先頭の竜に合わせて、後ろの竜たちは高く上がり、向きを変え、森や山の方角へ飛んでいく。


けれど、そこに白い竜はいなかった。


先頭を飛ぶのは、あの赤い竜だった。鮮烈な赤い鱗は、晴れた昼の空でもよく目立つ。翼を広げるたびに光を受け、遠くからでも立派だと分かる。後ろに続く竜たちも、その動きに迷いなく合わせていた。


立派な竜だった。


それは、クロにも分かる。分かるのに、目は白い竜を探してしまう。


あの日、砕けた教会の向こうに立っていた白い竜。王都の空で、いつも堂々と隊列を率いていた白い竜。その白が、どこにもない。


「白い竜、どうしたんだろう」


クロがぽつりと言うと、隣で薪を割っていた父が手を止めた。


「分からんな」


「怪我したのかな」


「かもしれないし、別の任務かもしれない。竜騎士団にも、俺たちには分からない事情があるだろう」


「……そっか」


クロは空を見たまま頷いた。


分からない。


その言葉は、昔よりも重く感じた。前は、分からないものはただ分からないままだった。けれど今は、本を読める。字も書ける。荷札も見られる。商人や兵に訊くこともできる。


それなのに、分からない。


白い竜がいない理由は、どこにも書いていなかった。


商隊が来た日、クロは荷札の確認を終えたあと、商人に訊いてみた。


「王都で、白い竜の話って聞いた?」


商人は荷台の紐を結びながら、少しだけ眉を上げた。


「白い竜?」


「竜騎士団の先頭を飛んでた竜。最近、赤い竜が先頭になってる」


「ああ」


商人は少し考えるように顎を撫でた。


「王都じゃ、いろんな噂があるよ。竜騎士団の話ならなおさらだ」


「どんな噂?」


「怪我をしたとか、遠い任務に出たとか、騎士団の中で役目が変わったとか。まあ、噂は噂だね」


「どれが本当?」


「さあね。王都民たちの間で流行っている噂は、風より軽い。次に聞いた時には、もう形が変わってる」


商人はそう言って笑った。


クロは少し頬を膨らませた。


「むぅ……結局なにも分からない」


「分からないこともあるさ」


「それは分かるよ。でも、見えてるのに分からないのは、はがゆい」


「お前さんらしいね」


商人はまた笑ったが、今度は少し優しい笑い方だった。


巡回に来た兵にも訊いてみた。


「白い竜のことは、知ってる?」


兵は一瞬だけ困った顔をした。


「竜騎士団のことは、俺たちが軽く話せることじゃない」


「知ってるけど、言えない?」


「知らないこともある。知っていても、言えないこともある」


「……そっか」


クロはそれ以上、訊かなかった。


兵が意地悪をしているわけではないことは分かった。父や母が帳面の中身を誰にでも見せないのと同じで、言えることと言えないことがあるのだろう。


けれど、分からないものは分からないままだった。


その夜、クロは建国記を開いた。


火の明かりのそばで、竜について書かれたページを指で追う。濁りの少ない強い色を持つ竜は、古き龍の特徴を色濃く受け継ぐことがある。白、黒、赤、青、金。そうした色の名が、古い紙の上に並んでいた。


クロはその一節を何度も読んだ。


赤い竜は、その言葉に合っている。あの赤は、遠くから見てもはっきり分かるほど強かった。隊列を率いる翼にも迷いがない。たぶん、とても賢い竜なのだと思う。


でも、白い竜とは違う。


白い竜は、空を広く使う竜だった。大きく翼を広げ、後ろに続く竜たちを包むように飛んでいた。赤い竜は、空を切るように飛ぶ。隊列は少し締まり、向きを変える時も速い。後ろの竜たちは、その鋭さに合わせて動いている。


どちらが良いのか、クロには分からない。


けれど、違うことだけは分かる。同じ竜騎士団でも、先頭が変わるだけで空の形は変わるのだ。


クロは、冬のジェミノ村に来た竜たちのことも思い出した。


桜色のロザ。翼の付け根に違和感があって、それをクロが見つけた竜。あの時、レイナはちゃんと礼を言ってくれた。小さな子供の言葉を、ただの思いつきとして流さなかった。


ロザは綺麗な竜だった。淡い桜色の鱗に、少し強い赤が差していて、空を飛べばきっと春の花びらのように見えるのだろうと思った。


けれど、綺麗なだけではなかった。


痛みを隠していた。飛べているように見えても、翼の動きには小さな違いがあった。クロが気づいたのは、たまたまだったのかもしれない。それでも、あの時ロザには、ちゃんと見なければ分からないものがあった。


そして、黒い竜。


眠そうな目をした小隊長のそばに伏せていた、あの黒い竜のことを、クロは今でもよく覚えている。


あれは、ただ黒い竜ではなかった。


黒よりも黒い竜だった。


日の光を受けても、鱗の奥に沈むような黒。けれど、暗いだけではない。じっと見ていると、その黒の中から、こちらを見返す何かがあるような気がした。


建国記の一節を読むたびに、クロはあの黒い竜を思い出す。


白い竜の白。赤い竜の赤。そして、あの黒い竜の黒。


どれも強い色だった。けれど黒い竜だけは、色というより、もっと深いものを見ている気がした。


強いから見ていた。


そう答えた時、小隊長は少しだけ面倒くさそうな顔をした。けれど、怒らなかった。


あの人は、また教えてくれと言った。


クロは、そのことも覚えている。


本には、竜の色や特徴についての記述がある。けれど、ロザが翼をかばっていた理由までは書いていなかった。黒い竜がなぜあれほど静かにこちらを見ていたのかも、白い竜がなぜいなくなったのかも、赤い竜がなぜ先頭に立ったのかも書いていない。


本は、竜というものの形を教えてくれる。


でも、一頭一頭のことは教えてくれない。


ロザには、ロザの痛みがあった。黒い竜には、黒い竜の深さがあった。白い竜には、クロには計り知れない何かがある。


そう思うと、胸の奥が落ち着かなかった。


クロは本を閉じた。


「本にも、書いてないんだね」


そう呟くと、母が顔を上げた。


「何が?」


「白い竜がいない理由」


母は少しだけ手を止めた。それから、静かに言った。


「知りたいのね」


クロは頷いた。


「うん。知りたい」


その言葉は、思っていたよりはっきり出た。


白い竜のことが知りたい。赤い竜のことも知りたい。ロザの翼に何が起きていたのか、レイナが何を思ってあの竜に触れていたのかも知りたい。


そして、あの黒い竜のことも知りたい。


黒よりも黒い、太古の龍の影をそのまま宿したような竜。あの竜が何を見ていたのか。なぜ、あんなにも目を離せなかったのか。


竜騎士団がどこへ飛び、何を見て、どうやって地図にない場所を見つけるのかも知りたい。


村にいて、空を見上げているだけでは分からないことがある。本を読んでも、まだ届かない場所がある。


それが、クロの胸の中で少しずつ重なっていった。


次の日も、クロは空を見た。


赤い竜が先頭を飛んでいた。その次の日も、赤い竜だった。


ヨルは、クロの隣で空を見上げていた。小さな手を伸ばし、竜影を指す。


「あか」


「うん。赤いね」


「あか、りゅ」


「赤い竜」


「りゅ」


ヨルは嬉しそうに繰り返した。


クロは少しだけ黙った。


ヨルは、白い竜が先頭を飛んでいた空を知らない。ヨルにとっては、赤い竜がいる空が、竜騎士団の空になっていくのかもしれない。


同じ空なのに、見ているものは違う。


クロはそれが少し寂しいことのように思えた。


知りたいと思えば思うほど、クロは前よりも細かいものを見るようになった。


竜の隊列だけではない。商人の声の揺れ。父が帳面を見る時の間。母が黙って火を小さくする時の手つき。ヨルが何かを言う前に、どこを見ているのか。


見ようとすると、世界は前より騒がしかった。


音ではない。けれど、何かが動く前の気配が、胸の奥に触れることが増えた。




夕方、庭先の石のそばで、ヨルがしゃがみ込んでいた。


石の陰には、かけしっぽがいる。ヨルは小さな手を伸ばしかけていた。


「ヨル、だめだよ。追いかけたら逃げちゃう」


クロが声をかけると、ヨルは手を止めた。


「にげゆ?」


「うん、逃げちゃう。だから、そーっと見るだけ」


クロはヨルの肩に手を添え、少し後ろへ下げた。


その時だった。


――近い。こわい。逃げるーー


言葉にすればそれだけのものが、声になる前の形で、ふっと胸の奥に落ちてきた気がした。


クロは息を止めた。


石の陰で、かけしっぽはまだ動いていない。けれど、体は低くなっている。尾の欠けた先が、ほんの少しだけ止まっている。


このままだと逃げる。


クロは、ヨルをもう少しだけ後ろへ下げた。


「ここまで」


「ここ?」


「うん。ここから見るの」


ヨルは不満そうに口を尖らせたが、クロの手を振りほどこうとはしなかった。


かけしっぽは、逃げなかった。


しばらく石の陰にいたあと、ゆっくりと頭を出した。小さな目がこちらを見る。前足が石の上に乗る。けれど、逃げない。


クロはじっと見ていた。


声ではなかった。言葉でもなかった。でも、ただ見えたのとも違った。


かけしっぽの体の低さや、尾の止まり方を見るより先に、何かが届いた。


クロは自分の胸に手を当てた。


「……今の、なに……?」


ヨルが真似をして、自分の胸に手を当てた。


「なに?」


「分かんない」


「わかんない?」


「うん。分かんない」


クロはそう言って、もう一度かけしっぽを見た。


かけしっぽは石の上でじっとしている。逃げない。ただ、こちらを見ている。


クロは少しだけ息を吐いた。


見ていたものの向こう側が、ほんの少しだけ触れた。


そんな気がした。


その夜、クロはなかなか眠れなかった。


白い竜のいない空。赤い竜の隊列。ロザの翼。黒よりも黒い竜の目。建国記に書かれた、強い色の竜。地図にまだ載っていないジェミノ村。そして、かけしっぽから届いたような、声になる前の何か。


知りたいことが増えていく。


知れば知るほど、分からないものが増える。


けれど、もうそれが嫌ではなかった。


昔は、ただ憧れていた。


砕けた教会の向こうに立つ白い竜が、光の中でとても大きく見えた。あんなふうに誰かを助ける人になれたらと思った。


けれど今は、それだけではない。


胸の奥に引っかかる。だから、見たい。だから、聞きたい。だから、もっと近くへ行きたい。


クロは布団の中で目を開けたまま、暗い天井を見ていた。


竜騎士団に行きたい。


その言葉は、声には出なかった。


けれど、胸の奥ではもう、はっきり形を持っていた。


助けてくれたからだけではない。白い竜がどこへ行ったのか知りたい。赤い竜がなぜ先頭を飛ぶのか知りたい。ロザの翼に何が起きていたのか知りたい。


そして、あの黒い竜のことを知りたい。


あの黒が何を見ていたのか。なぜ、自分はあの竜から目を離せなかったのか。


竜たちが何を見て、どこへ向かうのかも知りたい。自分に届いたあの感覚が何なのかも知りたい。


村にいて、空を見上げているだけでは、きっと分からない。本を開くだけでも、きっと届かない。


空の向こうへ行かなければ分からないことがある。


クロは静かに息を吸った。


ヨルの寝息が、隣の部屋から小さく聞こえる。父と母の家。ジェミノ村。畑。水路。芋酒の樽。かけしっぽのいる石。


どれも、ここにある。


大事なものだった。


それでも、クロの目は、もうここだけを見ていなかった。


白い竜がいなくなった空の先。赤い竜が飛んでいった森の向こう。黒い竜の目の奥。地図に書かれている場所と、まだ書かれていない場所。


その全部を、見に行きたいと思った。


クロは布団の中で、小さく拳を握った。


竜騎士団へ行く。


まだ誰にも言えない。


けれど、その夜、クロの中でそれは初めて、ただの憧れではなく、はっきりとした願いになった。

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