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序章 第16話 「地図にない村」

クロがその本を、自分ひとりで読めるようになるまでには、三年かかった。


三年。


その間に、開墾地は村になった。


小屋だった家は板壁のしっかりした家になり、畑は広がり、芋酒を仕込む小屋も増えた。春には畑に芽が出て、秋には樽が並ぶ。商人たちはそれを王都へ運び、荷札にも帳面にも、同じ名前を書くようになった。


ジェミノ村。


最初にそう呼んだのは、交代で見張りに来ていた王国軍の兵だったと思う。


けれど今では、それはただの呼び名ではない。王国に認められた、この場所の正式な名前だった。


そして、この三年の間に、クロには弟ができていた。




「くぉ」


商人と話していたクロの服の裾を、小さな手が引いた。


見下ろすと、ヨルがいた。


二歳になったばかりの弟で、言葉はまだたどたどしい。けれど、金色の目でじっと人の顔を見るところは、少しクロに似ていた。


「クロ、だよ」


「くーぉ!」


「うん。惜しい」


商人が声を立てて笑った。


「弟かい?」


「うん。ヨル」


クロはヨルの手を取った。


「今はお話してるから、ちょっと待ってて」


「おはし?」


「お話。商人さんと、布の値段の話」


ヨルは商人を見た。それから、商人の手にある木札を見た。


「ふぉ?」


「布」


「ぬの」


「そう。布」


ヨルは少し満足したように頷くと、クロの横にしゃがみ込んだ。


それ以上、何をするわけでもない。ただ、木札と商人の手元をじっと見ている。


ヨルは、よく見る子だった。


庭先でかけしっぽが石の陰に入る時も、鍋から湯気が上がる時も、母が帳面に印をつける時も、声を出すより先に、まずじっと見る。


まだ何を考えているのかは分からない。


けれど、見ている。


それだけは、クロにも分かった。




「それで、布の値段だけど」


クロは商人へ向き直った。


「前より高くなってる。雨で道が悪かったから?」


商人は木札を持ったまま、目を丸くした。


「よく覚えてるね」


「覚えてるよ。前はもう少し安かった」


「雨で峠道が崩れてね。迂回するしかなかったんだ」


「じゃあ、道が直ったら、ちゃんと前の値段に戻る?」


商人は少し困った顔をして、それから笑った。


「お前さん、ひょっとして交渉のつもりかい?」


「交渉じゃないよ。気になっただけ」


横で聞いていた母が、小さく笑った。




クロはもう十二歳になっていた。


九歳の頃より背は伸びた。まだ大人には届かないけれど、水桶は前より長く運べる。籠を持つ手も、少ししっかりした。


それに、字が読めるようになった。


最初は父に本を読んでもらっていた。母に文字を教わり、商隊が来るたびに分からない言葉を訊いた。芋酒の樽に付ける荷札も、商人の帳面も、王国軍の兵が持っていた古い通達も、何度も覗き込んだ。


はじめは、ただの線だった。


けれど、母の声に合わせて指で追い、同じ形を何度も見ているうちに、その線は少しずつ言葉になった。


太陽神。

月の神。

龍神。

アウルドラニア王国。

王都アウルグラント。

竜騎士団。

ノクスヴァルト大森林。


父や母の声でしか知らなかった言葉を、クロは少しずつ、自分の目で読めるようになっていった。


もちろん、全部が分かるわけではない。


建国記の言い回しは硬いし、古い言葉も多い。欄外の小さな注などは、今でも目を細めないと読みにくかった。


それでも、読めるところは増えた。


読めるところが増えると、分からないところも前よりはっきり見えるようになった。


ここは読める。

ここは分からない。

ここは後で訊こう。


そうやって分かれていくのが、クロには少し面白かった。


読めば全部が分かるわけではない。


けれど、読まなければ分からないことがある。


クロはそのことを、肌で感じるようになっていた。




村でも、クロに頼まれることは増えていた。


芋酒の樽をいくつ出すのか。薬草の束はいくつあるのか。銅貨で受け取るのか、塩や布と替えるのか。


最初は子供の手伝いだったものが、少しずつ、読める者、書ける者としての役目に変わっていった。


「クロ、この荷札、合ってるか見てくれるか」


「うん」


父に呼ばれて、クロは樽のそばへ行った。


荷札には、出荷先と数が書かれている。クロは帳面と見比べながら、一つずつ指で追った。


「こっちは八。帳面も八。合ってる」


「こっちは?」


「……こっちは違う。荷札は五だけど、帳面は六」


「本当か」


父が覗き込む。


クロはもう一度、数字を見た。


「うん。六」


「危なかったな」


父は息を吐いた。


「お前が気づかなかったら、樽が一つ足りないまま出すところだった」


「足りなかったら困る?」


「困るな。商人も困るし、受け取る方も困る」


「じゃあ、直す」


クロは荷札を受け取り、数字を書き直した。


一つ間違えただけで、大人が困る。


たったそれだけのことが、昔よりよく分かるようになっていた。




年下の子に文字を訊かれることもある。


クロは最初、教えるのが苦手だった。自分では分かっているつもりでも、人に説明しようとすると、言葉が詰まる。


けれど、少しずつ話せるようになった。


「ここは荷の数。こっちは値段。こっちは誰に渡すかの印。全部同じじゃないから、ちゃんと見ないと間違えるよ」


そう言うと、年下の子が顔をしかめた。


「面倒くさい」


「うん。面倒くさい」


クロは素直に頷いた。


「でも、間違えると困るから」


「うーん……そういえばクロ、前よりよく喋るようになったよね」


そう言われて、クロは少し黙った。


自分では、よく分からなかった。


昔より話すことが増えたのは確かだった。見たものを、前より言葉にできる。思ったことを、少しずつ外へ出せる。


けれど、それは急に明るくなったからでも、誰かと話すのが好きになったからでもない。


分からないことが増えたからだ。


分からないことをそのままにしておくと、頭の中でいつまでも引っかかる。


だから、訊く。

だから、話す。


そうしないと、次に何を見るべきか分からなくなる。




その日の昼過ぎ、クロは庭に出た。


ヨルが石のそばにしゃがんでいる。


石の陰には、かけしっぽがいた。


「ヨル、だめだよ。追いかけたら逃げちゃう」


クロが言うと、ヨルは顔を上げた。


「にげゆ?」


「うん、逃げちゃう。だから、そーっと見るだけ」


「みゆ」


「そうそう。見るだけ。ヨル、えらい」


ヨルはもう一度、石の方を見た。


まばたきも忘れたように、じっと見ている。


その横顔が、少し昔の自分に似ている気がして、クロはなんだか変な気持ちになった。




ジェミノ村には、ヨルと同じくらいの小さな子が何人かいる。


家が増え、畑が広がり、酒造りが軌道に乗ったことで、暮らしは少しずつ落ち着いていった。大人たちの顔から、明日をどう越えるかだけを考えていた頃の険しさも、少しずつ薄れている。


だからなのか、いつの間にか村には幼い子供の声が増えていた。


泣き声。

笑い声。

転んで怒る声。


それを聞くたびに、クロは少し不思議な気持ちになる。


まだ何もなかった開墾地に来た頃、こんなふうに子供の声が聞こえる日が来るなんて、クロは想像もしていなかった。


けれど今、ここには子供たちがいる。


ヨルもいる。


かけしっぽを追いかけずに、じっと見ている。


それは、クロにとって少しだけ嬉しいことだった。




夕方になり、畑の手伝いを終えたクロは、手を洗ってから本を開いた。


建国記。


ページの角はさらに丸まり、折り目も弱くなっている。それでも夜になると、今でも家族で本を開くことがある。


母は読める字を教え、父は分かる言葉を説明した。商人が来た時には、クロは分からないところを紙に写して見せた。


本の巻末には、大陸図がある。


紙は古く、折り目は何度も開かれたせいで白くなっていた。端には擦り切れたところがあり、北の山脈のあたりは少し薄れている。


けれど、王都の印ははっきり残っていた。


王都アウルグラント。


クロはその字を、もう読める。


丸い城壁の印と、そこから伸びる街道。北へ続く線。西へ向かう線。東の草原へ抜ける線。南東へ長く伸びる、砂の国へ向かう線。


アウルドラニア王国は、思っていたよりずっと広かった。


昔のクロにとって、世界は村と、壊れた教会と、王都へ続く道と、空を飛ぶ竜騎士団くらいだった。


けれど地図の上には、山がある。海がある。草原がある。砂の国がある。魔物の多い大森林もある。


王国の外にも国がある。


そこにも人がいて、竜がいて、違う祈りがある。


本には、そう書かれていた。




クロは何度も地図を見た。


王都を見つけるのは簡単だった。大きな印があるからだ。ノクスヴァルト大森林も、濃く塗られた森の形ですぐに分かった。


それから、王都の北東あたりへ指を置く。


その場所には、何も書かれていなかった。


「……まだ無い」


クロは小さく呟いた。


火のそばで道具の手入れをしていた父が、顔を上げる。


「何がだ」


「ジェミノ村」


クロは、王都から森の縁へ向かうように指先を動かした。


「この辺りだよね。まだ載ってないけど、次の地図には名前が入るのかなって」


父は手を止め、地図を覗き込んだ。


「どうだろうな。王都の役人がちゃんと記録していれば、載るかもしれない」


「芋酒の荷札には、もうジェミノ村って書いてるよ」


「そうだな」


「商人さんもそう呼ぶし、巡回の兵もそう呼ぶ。王国に納める分の帳面にも書いたよ」


クロは、少しだけ口元を緩めた。


「見てみたいな。地図に書かれた、この村の名前」


父は笑った。


「そうだな」


クロはもう一度、地図の何も書かれていない場所を見た。


紙の上には、まだ何もない。


けれど、そこには家がある。畑がある。水路がある。父が鍬を振る畑も、母が帳面をつける机も、ヨルが昼寝をする家もある。


書かれてはいない。


でも、ちゃんとそこにある。


クロは、そう思った。




建国記には、竜騎士団は王国が建国の誓いを忘れぬための翼だと書かれていた。


最初に読んだ時は、意味が大きすぎてよく分からなかった。


けれど今なら、少しだけ分かる。


地図に名前がなくても、そこには人がいる。


魔狼も来れば、怪我人も出る。泣く子もいれば、明日の分の芋を数える大人もいる。


あの冬の夜、竜騎士団はそういう場所へ来た。


クロはそれを、本ではなく、自分の目で見て知っている。


それから、空の見方が少し変わった。


白い竜や黒い竜、桜色の竜を探すだけではなくなった。


竜たちがどこへ向かうのか。その下に、どんな土地があるのか。そこに、どんな人がいるのか。


そういうことも、見るようになった。


空を飛ぶ竜の下には、地図にない場所もある。




ある日の夕方、空が茜色に染まる空に、王都の方角から響く鐘の音が混じった。


クロは、荷札の紐を結んでいた手を止めた。


外に出て顔を上げる。


そこには、王都を飛び立つ竜騎士団の姿があった。


高い空を、いくつもの竜影が横切っていく。


先頭の竜に合わせて、後ろの竜たちが少し遅れて向きを変える。何度も見た隊列だった。


クロはいつものように、一番前を見た。


あの日、砕けた教会の向こうに立っていた白い竜。


王都から飛び立つ隊列の先で、いつも堂々と翼を広げ、後ろに続く竜たちを率いていた白い竜。


その白を探した。


「……あれ?」


声が漏れた。


いない。


白い竜がいない。


クロは目を細めた。


雲に紛れたのかもしれない。夕日の光で、色が変わって見えているのかもしれない。


そう思って、もう一度探した。


けれど、違った。


隊列の先頭を飛んでいたのは、赤い竜だった。


鮮烈な赤。


遠目にも分かるほど、強い色だった。


夕日を受けても沈まず、むしろ火のように空の中で際立っている。


翼は大きい。羽ばたきに迷いもない。首の位置も高く、後ろの竜たちはその動きに合わせて、きれいに隊列を整えていた。


立派な竜だった。


強い竜だと、クロにも分かった。


あれもきっと、古き龍に近い竜なのだろう。


建国記にあった言葉が、頭をかすめる。


白、黒、赤、青、金。


濁りの少ない強い色。


獣とは異なる知を宿す目。


けれど。


どれだけ立派でも。


そこにいたのは、白い竜ではなかった。


白い竜がいない。


クロは、それ以上は声に出さなかった。


ただ、見ていた。


隊列は王都の上空で大きく弧を描き、それから森の方角へ向かっていく。


赤い竜が先頭を切る。


後ろの竜たちが続く。


その動きは整っていて、危なげはない。


誰かが困っている場所へ向かうのだろう。


地図に名前がある場所かもしれない。


まだ名前のない場所かもしれない。


でも、クロの目は、赤い竜のさらに向こうに、いない白を探していた。


建国記には、王国は二千年以上続いていると書かれていた。


竜騎士団は、王国が誓いを忘れぬための翼だとも書かれていた。


けれど、その翼の先頭が変わる日があることまでは、どのページにも書かれていなかった。


空にも、変わるものがある。


クロはそれを、この時初めて知った。


白い竜がいた場所を、赤い竜が飛んでいた。

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