下京の民
頑丈な閂が外され、上京へと続く重い木戸が左右に割れた。
「開いた! 木戸が開いたぞ!」
押し寄せる火の手から逃れようと、我先にとその隙間へ雪崩れ込もうとした下京の民は、しかし、次の瞬間、一斉に足を止めた。
そこには、この世のものとは思えない異形が立っていた。
闇を遮るようにして佇むのは、馬よりも大きい雪のように白い獣。
下京を焼く業火の赤をその身に照り返している。
その傍らで手行灯の細い灯りに浮かび上がっていたのは、自分たちを無表情に見下ろす恐ろしく体躯の大きな男であった。
「おい、あれは何じゃ」
「今朝、町を馬より大きな獣が大きなおのことおなごを連れて暴れていたと言われとった」
「それは真か…じゃ、あれがそうか」
「わからん。じゃがあのような異形がわんさかおったら、地獄じゃ」
「儂らは火から逃げて、あの化け物に食われるんじゃ」
「織田様が助けてくれんじゃろうか」
「いくら織田様の兵が強かろうと、地獄の化け物には敵うまいよ」
「今朝の化け物は織田様のご家来衆を追い返したと誰かが言っておった」
「あれじゃいくら織田様でものう…」
最初はあの異形に聞こえないように小声で話していたが徐々に熱が入り、普通に聞こえる大きさとなっている。
その声が届いている筈だが前に立つ異形は無表情のままだった。
男が夜空を割るような大音声を響かせた。
「儂は黒峰景狼と申す。今より儂がお前たちの頭じゃ」
「くろみね…かげろう…知っておるか」
「いや、化け物ではなく人なのか」
「あのような人、見たことも聞いたこともないわ」
「そうだな。かげろうという男は人だとしても、あの横の化け物は違うんじゃろう」
「若君、黒峰の名を出されては困りまする。秘密ゆえ」
男の直ぐ近くにいるものには男の後ろから小声が聞こえてきた。
男が大きすぎて声の主は見えない。
「黒峰の名は忘れてくれ。秘密だそうだ」
男が再び大音声で言った。
「若君、今申しても、もう遅うございまする」
「遅いようじゃ」
「もうよいです…」
「もう良いようじゃ」
「何じゃ、あれは」
「あれは後ろの男が操っておるのか」
「そうじゃのう。あのような男がおるはずもない」
「そう思えば恐ろしくはないか」
「莫迦言え、横の獣は真じゃぞ」
「あれも声の男の妙な術ではないか」
「そのような術あるのか」
「儂がさる公家様から聞いた話では果心居士なる男が外法の使い手じゃと」
「そのような男がおるのか、ではあの男の後ろにおるのが、その果心居士か」
「若君、そろそろ他の木戸を開けないとお役目が…」
「そうじゃった」
「儂らは皆一つの群れじゃ。群れは纏まらねばならん。ここにおる者だけでなく、この先におるのも、同じ群れじゃ。群れは纏まらねば食われるんじゃ」
男の言葉は先ほどの言葉と違って聞こえていた。
声は小さくなっているが、言葉が染み込んでくる。
「儂はこれより先の木戸を開けて来る。この久吉の言葉に従うのじゃ、よいな」
男の前に男女が一人ずつ現れた。
二人とも自分たちとそれほど背丈は違わない。
「霞もおったのか」
「若君、遅くなりました」
「あとは任せる」
「はい」
女の方が話しだした。
「わたしどもは『牡丹屋』の者でございます。この先、皆が休めるよう、手配させていただきました。先ずは『牡丹屋』まで案内しますので、そこから各場所へ向かっていただきまする」
「おい、『牡丹屋』って、あの近衛様のお屋敷の前のか」
「『牡丹屋』はあそこしか知らんわい。あそこに行けば助かるのか」
「儂は公家様を知ってる。『牡丹屋』は近衛様のお店じゃそうだ」
「近衛様のお店なら確かじゃ」
「儂らは助かるのか!」
「近衛様が果心居士か、そうじゃったのか」
「近衛様なら何が出来ても不思議はないわ」
「そうか…果心居士は近衛様か」
「じゃが近衛様は京にはおられぬ筈だが」
「近衛様は陰陽師なのではないか、じゃから京におらずともこれほどの力があるのじゃ」
「おお、そうじゃ。そうに違いないわい」
会話の最中、女がくすくす笑っている。
なかなか可愛らしい感じだ。
女が咳払いをする。
「先ずは皆さん。若君、じゃなかった景狼様が通れるよう、木戸の前を開けてください」
「おい、開けようぞ」
「お前、もうちっと端に寄れ」
「もう無理じゃ」
「お前、少しずつ、下がらせろ」
「あの大路はまだ火が及んどらん。あそこで一旦集まらんか。そこから順番に行くにはどうじゃ」
「おお、そうじゃな。木戸はもう開いておるのじゃ」
「先ずは女、子供、年寄りを先に入らせようぞ」
「そうじゃ、後ろに回せ」
民たちが少しずつ木戸を離れ、手前の大路へ向かって行く。
男たちの前に道が出来てきた。
男は頷くと一言言った。
「白狼、参るぞ」
獣が大きく欠伸したかのように見えたのは見間違いか。
男と獣はゆっくりと歩き出した。
「おい、どうやらあの獣は幻じゃないようじゃ」
「あれは近衛様が儂らを助けるために遣わされたのじゃ」
「さすが果心居士様じゃ」
の話は下京で火打ちにより逃げ出してきた京の町民の視線です。
果心居士とは山田風太郎先生の作品「伊賀忍法帖」にも出てくる謎の術師です。




