珠洲の異常
1月だというのに寒さよりも妙な生温かさが感じられた。
景秀、珠洲、景狼、白狼は『牡丹屋』を出た。
玲はあややの頼みにより、置いて来ている。
店を出て、右(南)を向くと、遥か先に赤黒い世界が広がっているが、ここは珠洲の持つ手行灯以外は何も無い暗闇の世界だった。
白狼の白い毛並みだけがぼんやり浮かんでいる。
珠洲が懐に折り畳んだ懐紙が入っていることを確かめる。
「わたしと白狼が下までの木戸を養父様の書付で開けて行くわ。お前様と白狼丸は、後から来て。下への木戸までよ」
「白狼、お願い」
白狼が伏せると、珠洲が背に跨った。
白狼が立ち上がると、駆け出した。
木戸は辻ごとにあるので、白狼の足だと、駆け出して、直ぐ止まってしまうような長さだった。
木戸の傍にある小屋の門番に木戸の開放を頼むが、ほとんどの木戸で近衛の書付を見せることは無かった。
白狼に跨っているため、珠洲が門番より高いところから、声を掛けるので、言われるがまま木戸の閂を開けてしまっていた。
思ったより早く珠洲は下との堺の木戸に着いた。
景秀と景狼は未だ到着しない。
木戸の小屋にも人がいないのか、物音がしなかった。
静寂のなかに取り残された珠洲の耳に、まず届いたのは、地を這うような重低音だった。
「この音は何なのです……?」
無数の人間の足音と、怒号、そして獣のような悲鳴が混ざり合った、おぞましい「音の塊」が迫って来る。
ガタガタガタガタッ!
突如、目の前の頑丈な木戸が激しく震え始めた。
木戸の向こう側から、狂ったように板を叩く「ドンドンドンドン!」という凄まじい衝撃が、白狼の足元、そして珠洲の身体へと地響きとなって伝わって来た。
板の隙間から吹き込んでくる風が、恐ろしく熱く感じられた。
「開けてくれ! 火が、火がすぐそこまで来てるんだ!」
「黒い服を着た奴らが、そこら中に火を放ってる!」
「公方様の御所だけじゃない、京中が焼き殺されるぞ!」
「ああ…あああ!」
珠洲が叫んだ。
それは声がただ大きいものではなく、悲鳴だった。
目には大粒の涙を浮かべ、頭を押さえている。
「助けて…誰か助けて…」
消え入るような声で言い続ける。
白狼が伏せた。
珠洲の身体がふらりと揺れた。
景秀が珠洲を抱き上げた。
「もう大丈夫じゃ、儂を見よ!」
景秀が揺らしながら叫ぶ。
「父上、母上はどうしたのじゃ」
景狼がいつもと違う珠洲の様子に戸惑っている。
「今は黙っておれ、儂に任せよ!」
それは景狼が一度も聞いたことのない父親の怒号だった。
「ち、父上…」
「儂はここじゃ!こちらを見よ!」
珠洲が漸く景秀を見上げた。
「狼のおさむらいさま!?」
「そうじゃ、儂じゃ。もう大丈夫じゃ」
「狼さんは!?」
「狼さんは…こいつじゃ」
白狼が見えるように珠洲の向きを変えた。
白狼がビクッとする。
「狼さん、きれいね」
珠洲が白狼を撫でる。
珠洲が握っていた書付をそっと取ると、景秀は景狼に差し出す。
「儂らは店に戻る。景狼、白狼を連れて木戸を開けて来るのじゃ」
景狼が景秀の勢いに頷いた。
「その前に」
景秀が腰にぶら下げていた笛を引きちぎり、吹いた。
音は鳴らないが、周りの木々が鳴った。
「お館様、『天狼』久吉参りました」
景秀の背後から男が現れた。
「久吉、霞が来たら、この木戸から来た人々を店へと案内せよ。何人使っても構わん」
「御意」
「景狼、よいか。ここから先の木戸を開けて行く間に人々が暴れないようにせよ。さもなくば皆死ぬと思え。今は彼らの頭だと思え」
景秀が景狼に向き直った。
景狼が景秀の顔を見る。
浅黒い精悍な顔つきに疲れが見えている。
先ほどの怒号といい、こんな父を見るのは初めてだった。
「ではな、任せたぞ」
景秀は珠洲を背負うと離れて行った。
「若君、今はあなたがお頭です。何なりと」
久吉が跪く。
「父上の命じた通りじゃ、ここと民を任す。霞はまだか」
「もう間もなくかと」
「待てぬ」
景狼は木戸の閂に手を掛けた。
「ぬっ」
力を込めるが、動かない。
もう一度、両手で引いた。
木戸がガタガタと揺れる。
「……開かぬ」
景狼は少し考えると、腰から小太刀を抜いた。
「ならば、壊す」
「若君!?」
久吉の声も構わず、景狼は閂を支えている木の部分に小太刀を叩きつけた。
何度も叩きつけると、木が割れ、閂が傾いた。
景狼は小太刀を収め、閂を両手で掴んだ。
「ぬうっ!」
一気に引く。
バキッ!
木片と共に閂が外れた。
景狼の顔に熱い風が吹き付けてきた。
「開いたぞ、急げ!」
木戸が開き、真っ赤な空を背に人々がなだれ込もうとする。
「おい、早く行け!」
木戸の後ろの方から叫び声がする。
しかし一向に前に進まなかった。
壊れた木戸の前に馬より大きい白い獣と大きな男が立ち塞がっていた。




