十兵衛の来訪
汐が竹箒を浮かせるようにして前庭を掃いていく。
正月が終わったものの、『牡丹屋』を訪れる客は今日は一人もいなかった。
中天の頃、前庭の掃除を終え、店の中に戻ろうとすると、声が掛かった。
「黒峰殿に会いたいのだが」
声の主は身なりのよい男。
腰に刀を下げている。
「何方様でございますか」
汐が頭を下げながら思案した。
(お方様の話では黒峰がいることは知られてはならぬこと)
「某は明智十兵衛(明智十兵衛光秀)と申す。先日黒峰殿とここに参った。黒峰殿に尋ねたき儀がありまする」
「暫しお待ち下さいます様」
汐が店の中から中庭に面した部屋に向かった。
部屋には少輔太郎、景秀、近衛前久の三人がいた。
「今、店の方に明智十兵衛様が参っております」
汐が頭を下げて言う。
「丁度良い。通せ」
近衛が少輔太郎を見る。
「はっ。汐、外からお通ししろ」
少輔太郎の指示で汐が無言で戻って行く。
「さて、十兵衛の驚きようが楽しみじゃわい」
近衛がクククと笑った。
少輔太郎と景秀が互いの顔を見合わせ、溜息をついた。
店に戻った汐は十兵衛を連れて前庭の左にある竹扉を開き中庭に案内した。
十兵衛が無言でついて来ると、戸の開かれた部屋の前まで行く。
振り返り、頭を下げると言った。
「ここからお上がり下さい」
「案内忝ない」
十兵衛は汐に一礼すると、草履を脱ぎ、屋敷へと上がった。
廊下を横切り、部屋の入り口で一度頭を下げる。
「明智十兵衛と申す。お邪魔致す」
十兵衛が部屋の中に入ろうとすると声が掛かった。
「久しいのう、十兵衛よ」
近衛が笑いながら言った。
十兵衛が声の方を見ると、いるはずの無い男の姿があった。
「近衛様…」
十兵衛が近衛の顔を見ると絶句した。
「十兵衛よ、儂の顔を忘れたか」
「近衛様は出奔されたのでは」
「本願寺に用があってのう。その後は丹波の息子に会い、有馬の湯に浸かってきたわ」
「何と!」
「それにのう。儂は別に京を追い出された訳ではあるまい?」
「いや、ですが弾左衛門尉殿(三淵弾左衛門尉藤英)が釈明せずに逃げたと申しておりましたが」
「言わせとけばよい。現に儂はこうしておるわ」
「十兵衛殿、近衛様との問答は無駄かと。それよりも某に用があるとのこと」
景秀が十兵衛に言った。
「おお、そうじゃった。先ほど馬より大きい白い獣が大きなおのことおなごを従えて暴れていたと。黒峰殿の狼に相違ないか」
「いかにも某の家の白狼でござるが、暴れてなど滅相も無い」
「じゃが蜂須賀殿が襲われたと申しておったが」
「息子と娘が白狼を連れて散歩していただけのこと。それを蜂須賀殿が無理矢理とめようとした由」
「それに、先日、白狼を町に出すことは十兵衛殿にお許しをいただいた筈ですが」
十兵衛が悔しそうな表情を浮かべた。
「もうよいではないか。害は無かったのじゃ。それよりもじゃ、織田方の十兵衛に聞きたいことがあるのじゃが」
「某に聞きたいこととは何でございましょうか」
「うむ、少輔太郎。お主から話すがよい」
「御意」
少輔太郎は十兵衛に向き直った。
「拙者はこの『牡丹屋』を預かる少輔太郎と申しまする。お見知りおきを」
「今朝、黒峰の若君が内野で足軽と会った由。その時にここから先は織田の陣ゆえ入ること、まかりならんと、追い返されたとのこと」
「十兵衛よ、織田はこの京でそのような横暴な振る舞いをしておるのか」
「滅相もござらん。織田の陣は今は上総介もお戻りになり、本国寺だけでござる」
「では内野に陣は無いと申すか」
「御意」
「相わかった。京を預かる織田方の十兵衛の言葉信じるとしよう」
「何ゆえ、内野でそのような事を」
「それは儂らの知る由もないこと。己で確かめよ」
「御意」
十兵衛が立ち上がる。
「待て、十兵衛。ついでもう一つ伝えたき事がある」
「何でございましょうか」
「景秀、そちから伝えよ」
「はっ。しからば某からお伝えさせていただく」
「先ほど三好勢が八幡におるとの連絡があり申した」
「三好勢ですと!」
「左様。三好勢は八幡に来る前は若江に寄っておられた」
「若江から戻らず、八幡でござるか」
「左様。帰る事なく、八幡へ移動したとの由」
「三好勢は何処へ向かっておると?」
「それも儂らの知る由もないことじゃ。じゃが八幡の先の川を渡れば京よ」
「公方様を狙われてると」
「それは三好に聞かねばわからんことじゃ」
「ただ万が一もあるということじゃ」
十兵衛が暫く黙った。
「某、これより公方様にお伝えしますので、失礼致しまする」
十兵衛が慌てて草履の紐も締めず駆け去って行った。
「近衛様、よいのでございまするか」
少輔太郎が心配そうに近衛の顔を見る。
「何がじゃ」
「十兵衛殿は近衛様のことをお話になるのでは」
「十兵衛はそのような面倒なことはせんよ。今はそれより備える方が先じゃて」




