新婦姫
柳生新次郎(柳生新次郎厳勝)は京にいた。
昨年末、木津より松永家の瓦林左馬亮(瓦林左馬亮秀重)と同道し、そのまま妙顕寺に入り、年を越した。
ここは京で松永家が世話になっている日蓮宗の寺院であるが、当主の松永弾正(松永弾正少弼久秀)はいない。
昨年末より美濃に滞在しているとのことだった。
板張りの床から伝わる京の朝の空気は、大和の山奥よりもどこか鋭く、ひんやりと肌を刺した。
だが、その冷気の中には、清々しい新春の気配が満ちている。
京まで一緒に旅した黒峰景狼と玲とは二人が滞在する『牡丹屋』の前で別れた。
(たった三日だけなのだが、拙者が今まで生きていた中で驚いた時間じゃった)
(それに日頃鍛えておるつもりであったが、柳生から京まで来ただけで、これほど身体に堪えるとは思わなんだ)
新次郎は地獄谷を下りたとき、奈良坂の上り下りを思い出した。
新次郎は自分に掛けられていた厚手の小袖を手に取った。
小袖から、大和の緑の匂いとは異なる、嗅いだことの無い京都の洗練された微かな香の匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
初春を告げる梅の香にも似た、清らかな匂いである。
「…お目覚めにございまするか」
部屋の隅、淡い光が差し込む障子の傍らから、鈴を転がすような、驚くほどおっとりとした声が響いた。
驚いて新次郎が視線を向けると、そこには、膝をついてこちらを見つめる一人の少女、新婦が佇んでいた。
新婦が新次郎のところまで進み出て来ると、小袖と同じ薫香が新次郎に届いてきた。
目の前に佇む彼女は、正月の晴れ着に包まれ、背が高く大人びた雰囲気をまとっている。
それでいて、顔立ちは少女のようである。
(御年、10歳とお聞きしたが…これはとても見えないわ)
「これは、新婦姫様…!」
新次郎は跳ね起きるようにしてその場に平伏した。
焦りと恥ずかしさで、顔が一気に真っ赤に染まっていく。
新婦はふふっ、と柔らかく微笑んだ。
頭を下げながらも、新次郎は内心で激しく動揺していた。
「昨夜、左馬亮殿のご家来と夜半まで起きておられたご様子で、寒かろうと」
「それは忝ない」
新次郎が頭を下げる。
「そう肩を怒らせますな、新次郎様…しかし新次郎様はお綺麗な顔立ちをなさっておりますね…」
新婦の言葉に新次郎の表情が曇った。
新婦は、その身体を少しだけ屈め、新次郎の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「お目だけは、おじい様と同じ武士のお目をしておられます」
新次郎が改めて新婦を見上げる。
新婦の目は優しく新次郎を見つめ、微笑んでいる。
「新次郎様…今日はどのようにお過ごしを」
新次郎は昨夜、左馬亮の家来衆との話を思い出した。
「新婦様が幼き頃、母上様が亡くなり、今は父上様とも離れ離れ」
「周りは歳いった武骨者ばかりでお相手は出来ん」
「新次郎殿、お主は歳もそう離れておらん。新婦様のお相手お頼み申す」
「おお、そうじゃ新次郎殿なら安心よ」
「拙者に務まろうか」
「新次郎殿は柳生新左衛門殿の御嫡男、間違いござらん」
「新婦姫様。京まで共に来た知り合いに新年の挨拶をしに行くつもりです…共に参られますか」
「え、よいのでしょうか。そんなこと…」
「はい。気持ちのよい二人なのできっと喜ぶかと」
「本当によいのでしょうか」
「ええ。拙者も新婦姫様と参りたいと」
「ではご一緒させて下さいませ」
「はい。身なりを整えましたら、参りましょう」
「新次郎様。どこまで参るのでしょうか」
「『牡丹屋』です」
「『牡丹屋』ですか…え、『牡丹屋』?あ、失礼いたしました」
新婦の頬が紅く染まる。
「新次郎様、『牡丹屋』は公家様相手のお店です。先の関白様の縁者とも言われております」
「新次郎様、ご一緒された方はいと尊き方でございまするか」
「いや、なんだろう…あれは尊いんだろうか…」
「『牡丹屋』に参るなら恥ずかしい真似は出来ませぬ」
新婦が小声で言うが、新次郎には届いていない。
「新次郎様、あとはわたしにお任せ下さいませ」
「あ、はい」
「それでは後ほど」
新婦が部屋から出て行った。
あくまでも優雅に。
「左馬亮、おりますか」
新婦は左馬亮が詰める部屋の戸を開けた。
左馬亮が何やら書面を渋い表情で読んでいる。
「これは姫様。何やら御用向きでございまするか」
左馬亮が書面をしまうと微笑んだ。
「左馬亮、これより『牡丹屋』へ新次郎様と参ります」
「おお。新次郎殿と、それは何よりでございます」
「松永として恥ずかしくないものを持って行かねばなりませぬ」
「では卜部の御隠居様から、昨日お館様へ届いた菓子はどうでしょう」
「お祖父様が悲しみますわ」
「姫様が召し上がったと申せば笑ってお喜びなるでしょう」
「そうでしょうか」
「相違ございませぬ」
「ではそれを持って行きますわ。手配をお頼みします」
「畏まりました」
「わたしは仕度して参ります」
新婦が左馬亮の部屋を出て行った。
優美ではあるが、心なしか動きが軽く見えた。




