近衛との対面
日が中天に差し掛かった頃、近衛が『牡丹屋』へやって来た。
前日と同じ座敷である。
前日と違うのは近衛が後からではなく、先に部屋にいることである。
景秀・珠洲夫婦、少輔太郎・あやや夫婦、景狼・玲、そして白狼までも景狼と玲の隣に座っている。
「景狼、玲…こちらが近衛前久様じゃ。挨拶せい」
景秀が景狼と玲に中央に上座に座る近衛を紹介する。
「黒峰景狼じゃ」
「玲と申します。お初にお目にかかります」
白狼が近衛に頭を下げる。
「おお。その方が景狼か、立派な体躯じゃのう。玲は久しぶりじゃが覚えておるかのう」
「お初ではなかったのですか…申し訳ございませぬ」
「よいよい。幼き頃の事よ。覚えておらんじゃろう」
玲が頭を下げようとするのを近衛が手で止めた。
「玲はここに五つの歳までいたのよ。その間にお会いしたので仕方ないわ」
珠洲が玲の肩を優しく叩く。
「では、この時より忘れませぬ」
「ほほほ。嬉しいことを申してくれるものじゃ」
近衛が嬉しそうに頷く。
「白狼丸、玲…この方がお祖父様です」
「この方が母の親代わりです。お前たちはお祖父様とお呼びしてよいのですよ」
「え、お祖父様ですか」
玲が近衛の顔を見ると、微笑んでいた。
「儂に栄厳ができるのか…じゃが栄厳は頭が白いぞ」
景狼が嬉しそうに叫んだ。
「栄厳…とは」
近衛の表情が困惑を浮かべた。
「栄厳様は新次郎様(柳生新次郎厳勝)のお祖父様です」
玲がすかさず、言葉を挟む。
「新次郎とは誰じゃ」
「近衛様、柳生新左衛門(柳生新左衛門宗厳)の子にござりまする」
景秀が応えた。
「なぜ儂が新左衛門の父になるのじゃ。それに儂は景秀より歳下ぞ」
近衛の表情が更に困惑を深める。
「白狼丸はお館様の父を知りませぬ。ゆえにお祖父様という存在を知っておらぬやも」
珠洲が今思いついたかのように言った。
「おお。なるほど。景狼は知らなんだか」
「儂、栄厳とは会った。よき爺様じゃった。渋柿旨かったわ」
「景秀よ。もう少し教えよ。これでは儂の立場がないわ」
「はあ。面目次第もございませぬ」
「お主が儂を義父と呼ばぬからじゃ」
「それはお赦しを」
「養父上、戯れはそのへんで」
「ま、いつか呼べるようにのう」
「はあ」
「ところで景狼よ、先ほどから隣におるその巨大な狼は何ゆえそこにおるのじゃ」
近衛がじっと自分を見ている巨大な白い狼を見る。
「白狼か、それは儂とは一身だからじゃ」
「狼と一身とはまた変わっておるのう」
「人の話すことはまるでわからん。白狼の方がわかるわ」
「人より狼の言葉がわかるというのか」
「お祖父様、そんな訳なかろう。白狼は話さん」
「話さないのにわかるのか」
「当たり前じゃ」
「何ゆえじゃ。何ゆえなのじゃ」
「白狼のことを考えれば、わかるのじゃ。何が言いたいのか」
景狼の言葉に景秀が何度も頷く。
「若君、拙者も知りたいのだが、人の事は何ゆえわからないのじゃ」
今までずっとやり取りを聞いていた少輔太郎が口を開いた。
「人は気味の悪いものが多いのじゃ。言ってることが見えないのじゃ」
少輔太郎が呆然とした。
いや、全員が呆然としている。
ただ一人、玲だけが微笑んでいる。
「玲、お前にはわかるのですか」
珠洲がニコニコ微笑んでいる玲を見る。
「はい。なんとなくわかりまする」
「おお、玲ならわかるやもしれん。どういう意味なのじゃ」
「若君は見えてしまうのです」
「何をじゃ」
「人が持っているものを、です」
「持っているもの?」
「はい。若君はそのまま見ます。見るとその人が思うことと申すことが違うとそこが歪に見えてしまうのだと思います」
「そうすると若君の中でわからなくなってしまうのだと…」
「それが気味が悪い、と」
「はい。若君にもよくわかっておられない様子です」
「玲は何ゆえ、それがわかったのじゃ」
「それはいつの間にかですかね…ずっと若君と一緒のことが多かったのと、周りに人がいないからでしょうか」
「わたしには狼のことはわかりませんが…この白狼のことはなんとなくわかるのです」
玲が白狼の方を見ると、白狼はふんと反対方向を見た。
「つまり若君は人が申していることが考えていることと相容れないと、それが変に見えてしまうということ…」
「はい。少輔太郎様。左様かと」
「景秀、お主もそうなのか」
近衛が景秀の方を見る。
「某も幼き頃はそんな時もござり申した。岩倉に行く時分までかと」
「岩倉までとは…岩倉ではいろいろ学んだのじゃろう」
「はい。岩倉で文字の書き方、読み方をはじめいろいろ学び申した」
「景狼は岩倉には行ってないと昨夜言ってたのう」
「はい」
「うむ。ということは岩倉に行ったから景秀から消えたのかのう」
「いえ、近衛様。先ほどの玲殿の話を聞く限り、若君は霧生から出ていなかったのでそのようになったのでは。周りに景秀様と珠洲様、玲様しかおらぬので」
「少輔太郎、どういう意味じゃ」
「若君は他人と暮らしていないから、偽りを申す者もおらず、話さない狼と一緒にいたゆえ、見るだけでよかった。相手がどういう意味で申しているのか考える必要がなかったのかと」
「なるほどのう。ということはじゃ」
近衛は言葉を整理するかのように一度黙った。
「景狼のこれは失われていくということかのう」
「それはあるやもしれませぬ。ただ人は世間に出ればいろいろ知っていくもの、ずっと霧生にいる訳ではないゆえ、仕方なきことかと」
「確かにのう。そういう意味では京など魑魅魍魎よのう」
「はい。若君が南都で倒れられたのもそのせいもあるかと」
「景狼よ、お主はこれからどうするのじゃ…霧生へ戻るのか。ずっと山から出ないつもりか」
「養父上、白狼丸に今それを申されても応えられませぬ」
「近衛様。儂らは景狼も玲も己のやりたいことをさせたいと思っておりまする。何卒」
景秀が床に頭がつくくらいに下げた。
近衛が景秀を睨んでいる。
突然近衛が大きな声で笑った。
「善哉かな。善哉かな」
景秀の父は既に亡くなっており、珠洲も会ったことはありません。
景狼が生まれてから祖父と呼ばれる存在も無く、会話にも上がらないので、お祖父様という言葉も知りません。
柳生で栄厳が新次郎のお祖父様と知ったことから、お祖父様と栄厳が景狼の中でイコールになっています。




