『牡丹屋』の朝
昨夜より寒さが増した永禄十二年二日目の朝は若い娘の絶叫で迎えられた。
昨夜到着早々長く緊張を強いられた景秀は珠洲と共に一番奥の部屋で休んでいた。
先ず駆けつけたのは、既に起きていたあややだった。
「何事でござりましょうか。お開けします」
あややが部屋の板戸を開けると、玲が座り込んで指差している。
「玲様、どうされたのですか」
あややが優しく玲の肩を叩くと、はっとした表情であややの顔を見上げる。
「あやや様、わたし、どうやらどこかの病のようです…」
「病でございますか…どこにお痛みが」
玲が違うと首を振る。
「痛みではないとすると…なんでしょうか」
あややが優しく声を掛ける。
「いない筈の白狼が見えるのです…わたし…」
あややが、玲の指出す先を見る。
白狼が景狼の隣で眠っている。
「玲様、白狼はわたしにも見えまするが…」
「え!?」
玲があややの顔を見る。
困ったような表情をしていた。
「確か…若君の隣で寝た筈なのです。それが起きたら何ゆえ目の前が壁なのでしょう…わかりませぬ」
困惑の表情をして自分の言葉を聞いていないような玲に、あややは溜息をついた。
「玲、朝から何事ですか」
玲の耳に聞き慣れた、そしていない筈の母親の声が届いた。
「母上!?」
玲がはっと顔を上げる。
「そうです。母です。玲、いつも申しておりますね。落ち着きなさい」
いつの間にか母、珠洲が部屋を覗いていた。
「母上、何かが変なのです」
「何がですか」
「わたしは起きたら壁の前にいたんです。変ですよね」
「変なのはあなたです。玲」
「って何ゆえ、母上がここに。わたしはいつの間に霧生に帰ってきたのでしょう」
あややが珠洲に向かって首を振った。
珠洲が頷くと溜息をついて、口を開いた。
「ここは京で、わたしたちは昨夜ここに着いたのですよ」
「わたしたち…?」
玲が首を傾げる。
「そうです。わたしとお館様と白狼です」
「えー!?」
「だから玲、落ち着きなさい」
玲が部屋を見回す。
部屋の真ん中に若君、景狼が眠っており、直ぐ隣の白い巨大な狼、白狼に抱きついている。
白狼も景狼の顔の方を向いて眠っている。
「あらあら…よほど白狼丸に会いたかったのですね」
珠洲が景狼たちを見て微笑んだ。
珠洲の表情を見て、玲は漸く何が起きたのか悟った。
玲は突然立ち上がった。
と同時に景狼が目を覚まし、上半身を起こす。
景狼の目に珠洲の姿が入った。
「母上、御機嫌よう」
「白狼丸、ごきげんよう。よく休まれましたか」
「うむ。大丈夫じゃ」
「おお、白狼、御機嫌よう」
景狼が傍らの白狼の頭を撫でる。
白狼が目を開けた。
白狼が大きく欠伸をすると伏せた状態で景狼の方に顔だけ向ける。
「なんとも睦まじいお姿ですね」
あややが見惚れて呟く。
「いつものことでございます」
珠洲が笑った。
「ああ!また白狼、若君と一緒に」
玲が叫んだ。
「玲、静かにせよ。迷惑じゃ」
景狼が不機嫌そうに言う。
白狼は一度玲の方を向くと直ぐに顔を戻した。
「母上!」
「いつものことでございます」
「白狼丸、玲。今日はお祖父様にお会いしますが、くれぐれも身構えぬよう、いいですね」
「無論じゃ」
景狼が任せろ、と胸を叩いた。
「母上、わたしにお祖父様がおられるのですか」
「わたしの養父なので、二人からはお祖父様にあたるのでしょう」
「お祖父様はどんなお方なのですか」
「とても偉くて、とても優しくて、そしてとても怖い人です」
「偉くて…優しくて…怖い…何だか会うのが恐ろしく思えます」
玲が若干震えている。
「大丈夫です。ただし身構えてはなりませぬ。お祖父様には見えてしまいます」
「何が見えてしまうのですか」
「取り繕おうとすること」
「お祖父様は何より家族に距離をとられるのを嫌われます」
玲と珠洲の会話を聞いていてあややは思い出した。
初めて京の近衛邸で、夫の少輔太郎とご挨拶をした時のこと。
夫が言葉を飾り、懸命に無礼の無いように返答するほど、近衛様が妙に笑顔が多くなっていった。
(あれは近衛様も、わたしたちに合わせてお顔を飾られたということなのですね)
「白狼丸には何も心配しておりませぬ。相手によって変えられないでしょうから」
「玲、いつも申していますね。落ち着きなさい。一々驚かないように」
「これからお祖父様をはじめ、驚くような方とお会いすることが多くなるのですから」
玲が珠洲の言葉に項垂れる。
白狼が立ち上がると、玲の肩を叩いた。
意外に力が入っていたのか、玲が白狼を見る。
白狼は玲の目を暫く見つめ、ふんと首を返すと、また景狼の傍へ戻って行った。
「珠洲様、あれは?」
あややが小声で聞いた。
「あれは玲に喝を入れたのですよ」
「白狼にとって張り合いが無いので」
「そんな…人みたいに…」
「人と変わりませんよ…そのうちわかります、あやや様にも」
「人だと思うと結構わかってくるものです」
今ひとつ納得しきれていないのか中途半端な頷きになった。
「珠洲、珠洲がいなくなった!」
今度は野太い男の声が響いてきた。
「景秀殿、御機嫌よう。よくお休みになられましたか」
「おお、少輔太郎、御機嫌よう…そんなことより珠洲がいなくなったのじゃ」
「珠洲殿が?」
「そうじゃ…また拐かされたのかも知れん。早う近衛様に。それとも天狼を」
「はぁ。拙者も探しまする」
景秀と少輔太郎のやり取りが珠洲やあややのいる部屋にも聞こえてくる。
「珠洲様。睦まじく何よりでございます」
あややが紅くなった珠洲の顔を見ながら微笑んだ。
「母上、お顔紅いですよ。どこからお悪いのですか!」
玲があややの言葉で珠洲の顔を見ると顔を紅潮させて俯き、震えている。
「若君、あやや様。早う母上に医者を!」
玲が叫んで部屋を出て行く。
「何、珠洲が病じゃと!」
景秀が遠くで叫んでいる。
「玲、待つのです。白狼、玲を」
白狼がのろのろと玲の後を追って行く。
「白狼…わかってますね」
白狼が一度珠洲を振り返ると慌てて駆け出した。
直ぐ様、玲の叫び声が上がる。
「白狼、やめるのです!母上が!」
その声が聞こえて直ぐに白狼が現れた。
玲の襟を咥えながら引きずって来る。
「景狼!珠洲が病でいないのじゃ!」
景秀が白狼について駆け込んで来る。
その後ろには少輔太郎の姿もあった。
「お前さん。御機嫌よう」
珠洲が笑顔で景秀の肩を叩いた。
景秀の顔が強張っていった。
少輔太郎があややの傍に来る。
「あなた様。御機嫌よう」
「ああ、御機嫌よう。あややもそこにおったのか」
「わたしは病でも拐かされもしておりませぬよ」
「…それは何よりじゃ」
「わたしが拐かされたら、どうしますか」
「…困るのじゃ」
「困るだけでござりまするか」
「探す。近衛様の全てのお力をお借りしてでも」
「それは安心でございますね」




