白狼丸の過去
白狼丸は主人公である黒峰景狼の幼名です。
今回は景狼の幼い頃と、黒峰の家についての話です。
景秀、珠洲、少輔太郎(毛利少輔太郎隆元)、あややの四人は奥の座敷に移動した。
白狼は中に入るや否や、何処かへ行って戻ってこない。
「珠洲様。近衛様へのお知らせは」
あややが皆に茶を注ぎながら尋ねる。
「高来が帰って行ったので、そのうち来ると思いますわ」
珠洲が注がれた茶を一口飲み、ほうと息を吐いた。
と同時に霞の声が部屋の外から聞こえてきた。
「近衛様、参りました」
「ほらね」
珠洲の隣の景秀が苦笑する。
部屋の障子が開き、二人の男が入って来た。
一人は濃紺の狩衣姿の近衛前久。
もう一人は高来清房である。
「おお、珠洲や。何年ぶりじゃろうか。何故京へ帰って来んのじゃ」
近衛が珠洲の姿を見つけると、嬉しそうに言った。
実際は近衛の方が珠洲より歳下ではあるが、珠洲の小さい身体と、若いのに老練な感じの近衛のせいで、親子のように見えた。
「霧生の地は遥か遠くで京に来るのも一苦労でございます」
「だから京に住まれと申したではないか」
「わたしは黒峰に嫁いだ身ですぞ。黒峰の家に住むことは当たり前のことでございます」
「景秀ともども、ここに住めばよかろうが」
「それでは黒峰の役目が果たせませぬ」
「京でも果たせるじゃろうが」
先の関白と真っ向から言い合う珠洲を見て、少輔太郎とあややは唖然とし、景秀だけが苦笑していた。
「お二人のやり取りは懐かしゅうございますな 」
「あの頃は義姉と義弟じゃったがな」
近衛が苦笑する。
「ただ近衛様。珠洲の申す通り、京では役目は果たせませぬ。京では黒峰は目立ち過ぎまする」
「景秀、わかっておるわ…」
近衛が不貞腐れたように言う。
「さあ、こちらへどうぞ」
あややが近衛を上座へと誘い、お茶を出す。
「うむ」
近衛は座ると茶を口に含んだ。
「温まるわ。で、景秀。息子はどうしたのじゃ」
「それが京の町を一人で歩いていて帰って来てから倒れたとの由…。少輔太郎殿、そうだったな」
「いかにも。若は夕刻、部屋へ戻るなり倒れ申した 。玲の話では、奈良でも同じようなことがあったとのこと 」
「何かの病か…」
近衛が景秀と珠洲の顔を見る。
「おそらくはただの気疲れかと。景狼は今まで霧生を出たことがなく、町というものをこの旅で知ったばかり。慣れぬのでありましょう」
景秀が珠洲の手を取りながら応えた。
「玲が申すには、奈良で倒れた折、玄庵という老僧に診てもらった時にも、疲れと言われたとのことでございます」
「疲れのう…景狼は身体は強くないのか」
「いえ、若は、拙者よりも頑強でございます。猛々しく我が弟、少輔次郎(毛利少輔次郎元春)のようでござる」
「若様は少輔次郎殿より遥かに身体が大きく」
少輔太郎の言葉をあややが継ぐ。
「なんと、あの少輔次郎よりも大きいか。それは豪傑よのう」
近衛が何度も頷く。
「拙者よりも身体が大きく立派ですぞ」
この場にいる誰よりも身体が大きい景秀の言葉に高来は思わず首を振った 。
「ですが、白狼丸はまだ子供にございます。力は強くとも、世のことは何も知りませぬ 」
珠洲がぽつりと言った。
「景秀、珠洲よ。何故そのように育てたのじゃ」
「母のわたしから言うのも…」
困惑した珠洲の手を握ると、景秀が意を決したかのように話し出した。
「よい。儂が申す」
「あれは産まれた時は泣くことも、笑うこともない子であった」
「産まれた時にあの白狼が現れての。まだ子犬のような大きさじゃったが」
「その白狼といる時ぐらいしか笑わない。儂らにも笑うことは無かったのじゃ」
「ある日、白狼丸、幼き頃は白狼とずっと一緒だったから白狼丸と名付けたのじゃが」
「屋敷を勝手に抜け出しおっての…方方を探し回ったのじゃが、山の中におった」
「山で白狼と一緒に眠っておった」
景秀が忘れられないその光景を思い出しながら、一度茶で口を湿らせた。
「それからじゃ何度も屋敷に帰らぬことが続くようになった」
「儂らは、白狼丸に人の中で暮らすことを無理強いしてよいものかと思うようになった。…無論、天狼に見張らせておるので危険は無かったのじゃが」
「白狼丸が七つの頃、京から玲を迎えた。玲は素直で感情豊かで頭もよく、そしてよく人を見ておった」
「その玲が慕うようになって、少しは白狼丸も笑ったり、怒るようになった」
景秀が一度黙ると、隣の珠洲の顔を見た。
珠洲が無言で頷く。
「ただ、今のままでは景狼は一人になってしまう。白狼も決して長くはない…近いうちに別れが来る」
「玲も嫁に行くやもしれん。となれば、あれは一人になってしまう…それが心配で」
「こたび近衛様の文を見て、珠洲と相談し、町へ出してみることにしたのでございまする」
景秀がそこまで言って口を閉じた。
珠洲の目に涙が浮かんでいる。
向かい側に座るあややが珠洲の震える手を取った。
「であるか。ではこたびの役目は無理であろう、景狼には」
近衛が溜息をつく。
「近衛様、何ゆえでございますか」
少輔太郎が朝、近衛邸で話したばかりの内容を思い出しながら言った。
「考えてみよ、町の中を歩くだけで倒れる者が、あの織田上総介(織田上総介信長)に相対できるものか」
「それは…」
景秀が言いよどんだ。
「それに景狼は岩倉から学んでおらぬのだろう」
「御意にござりまする」
景秀が俯きながら応える。
「近衛様、不束ながら…岩倉とは?」
少輔太郎が尋ねる。
「よいな、景秀よ」
「はい。忌憚なく」
「うむ。黒峰は元は京の岩倉の出でのう。そこで我が近衛の文書を守っておった一族よ」
「ゆえに岩倉の者は、文字の読み書きを幼き頃より学ぶ 」
「景秀もそうじゃ、じゃが景秀の話では景狼は山を出ておらん。つまり文字を知らぬのじゃ」
「そのような者が織田の傍にはおれるわけが無かろう」
景秀も珠洲も一言も挟めなかった。
「織田上総介は相対する者によって見方がまるで違う。公方様から見ると優しき兄じゃと」
「じゃが、弾正からの話では、周りに心を見せぬ者じゃという」
「また織田の家臣からは気が短く、少しの油断も出来ない相手と様々な言い様じゃ」
「これを相手にするなら胆力が必要ぞ。儂でも面倒じゃ」
近衛が首を振る。
「近衛様。昼間話した時に、若には何ものにも心動かされない強さのようなものを感じられました」
「それはどういう意味じゃ」
「若は他人の言葉ではなく、自分で見たことしか信じられないようです。たとえ景秀殿や珠洲殿の言葉であっても、それだけで物事をお決めはしないでしょう 」
「恐れ多くも、大木戸の外の民のことで、帝と織田殿にいたく憤っておられたとのことです」
「大木戸の外の民とは?」
「近衛様。京から追い出された人々のことにございます」
高来が今日船から見た行き場を失った無数の民の姿を思い出しながら少輔太郎を補った。
「おお。あれは気の毒じゃが…そこに何故帝が?」
「若が言うには群れを食べさせるのが頭の役目。食べさせられないものは頭失格じゃ、と」
景狼と話した時の激しさが、少輔太郎の脳裏に蘇った。
「なんと」
景秀の顔が青褪めてきている。
「人を獣の群れと同じに見ていると?」
近衛の顔が朱に染まっていく。
「白狼丸はそういう子です。あの子は見たものが全てです。そこに何もありません」
「ただ養父上の目指すは皆が食べられる世のはずです」
珠洲が必死に弁明する。
さすがに帝を蔑ろにされては先の関白としての面目が無い。
今まで聞いていた高来が静かに口を挟んだ。
「近衛様。こう考えてはどうでしょう。何も知らないゆえ、織田殿の心が見えるやもしれません」
「どういうことじゃ、高来」
「景狼殿は武家のしきたりも、習わしも知りませぬ。他を気にすることもございませぬ。少輔太郎様のお言葉を借りれば誰かに言われたから見方が変わることはないように思えまする」
「それゆえ、織田様の真の姿を見ることが出来るのではないかと 」
「高来の申すことはわかったが…景狼は文字がわからんのだろう。文が読めぬではないか」
「文に記されたことが、真であるとは限りませぬ 。本人を見られるに越したことはございませぬ」
「なるほどのう。そうとも考えられるか…よし、景秀。明日儂に会わせよ。儂がお主の子をみてやろうぞ」
「御意…」
景秀が頷いた。




