大木戸
景狼と玲との話が終わった少輔太郎は立ち上がった。
「拙者はそろそろ奥で仕事して来ます」
少輔太郎は二人に頭を下げると踵を返した。
景狼も後をついて行く。
「若君、何処へ参られるのですか」
玲が聞いた。
「少し外へ参る」
景狼が短く応えた。
「景狼様、京は洛外に出るには手形が必要です」
「あややが用意してるので受け取って下さい」
景狼と玲が無言で頷き、帳場の方へ向かった。
少輔太郎は二人を暫く見送ると、奥へと向かった。
「あやや様、手形をいただけますか」
今も帳場で帳簿のチェックをしているあややに玲は声を掛けた。
「あら、景狼様に玲様。手形ですね」
あややはニコリと笑うと引き出しから二つの手形を取り出し、玲に渡した。
手形を見ると生成りの板に鮮やかな牡丹の装飾と金色で『牡丹屋』の文字があった。
「夜は大木戸が閉じるのでその前までにお帰りを」
「わかりました」
玲があややに頭を下げると、玲は景狼に手形を渡した。
景狼は受け取った手形を懐にしまうと、土間からそのまま表へと足を向けた。
「若君、お気をつけて」
玲が声を掛ける、景狼は振り返らずに軽く手を上げて応え、牡丹屋の暖簾を潜って行った。
一人残された玲は、小さく息をつく。
帳場の方では、あややが相変わらず静かに帳簿を繰る音がしている。
玲は自分の部屋、あるいは日の当たる縁側の隅へと移動し、そっと一冊の書物を開いた。
外はまだ明るく、文字を読むには十分な光が差し込んでいる。
牡丹屋の暖簾をくぐり表へ出ると、刺すような元旦の寒風が景狼の頬を叩いた。
灰色の冬空からは時折、ちぎれ雲から千切れ出た細雪が舞い落ちてくる。
すぐ近くに見える近衛邸の築地塀は、かつての戦火の傷跡を残したまま凍りついていた。
しかし、公家町の一角からは、時折かすかに雅な調べや、新春の「歳旦連歌」を詠み合う声が漏れ聞こえてくる。
戦乱の世であっても、いや、いつ命が途絶えるか分からない世だからこそ、彼らは例年通りの正月を厳かに迎えていた。
景狼は懐の手形を軽く叩き、雪の残る白砂を踏みしめて南へと歩き出した。
公家町を抜けて室町通を南下して行くと、京の町が「上京」から、荒涼とした境界地帯へと移り変わる。
かつて応仁の乱で焼け野原となり、いまだ復興せぬまま畑地や空き地となった寒々しい空間。
そこに元旦の寒風が吹き付け、景狼の着物の裾を激しく揺らした。
やがて荒れ地を抜けると、人の気配が少しずつ戻り始めた。
焼け跡の向こうには町家が並び、そこが「下京」の入口であった。
正月を迎えた町衆の家々の前には小さな松飾りが飾られているものの、格子窓は固く閉ざされ、通りを行き交う人々の顔には祝いの気配よりも、近づく戦火を予期するような不穏な緊張感が漂っていた。
それでも通りには、元旦の晴れ着をまとった町衆の姿が絶えることは無かった。
小袖の重ね着に身を包んだ裕福な商人の一家や、新年の挨拶回りに向かう公家の従者たちが、寒風に身を縮めながら歩いている。
子供たちは真新しい手拭いを首に巻き、正月だけの特別な賑わいに目を輝かせていた。
元旦の書き入れ時を逃すまいと、ひしめき合うように店が軒を連ねていた。
戦火への恐怖と同じくらい、都の人間たちの逞しい商魂がそこには満ちていた。
特に盛況なのは、旅人や参拝客を当て込んだ一膳飯屋や餅屋だった。
「さあさあ、新春の初物だよ! 温まっていっておくれ!」
店主たちの威勢のいい声が響き、軒先からは白味噌の雑煮や、小豆を甘く煮た汁物の濃厚な湯気が白く立ち上っている。
床には、これから洛外へ向かう者や、逆に都へ入ってきたばかりの通行人たちが肩を寄せ合うように腰掛け、ふうふうと息を吹きかけながら貪るように箸を動かしていた。
「織田様が年末にさっさと帰られたのは、少し心細いですな。織田様がいなくなり、あそこ(本圀寺)の守りはいささか手薄に見えますが……」
「まあ、さすがの三好の残党どもも、織田様の威光があるうちは、この元旦から滅多な動きは起こせまいよ。松永様、細川様もおられますし」
その隣の炭屋や薪屋の前には、底冷えする京の冬を乗り切るための買い出し人で長蛇の列ができていた。
「これだけじゃ元旦も持たん。もっと上等な木炭をくれ」
「すまねえ、新年の初荷はこれでしまいだ!」
厚い綿入れを着込んだ主人が、息を白くしながら小気味よくそろばんを弾く。
台の上でジャラジャラと小気味いい金属音を立てて選別され、悪銭が撥ねられるたびに冷たい音が凍てつく空気に響いていた。
「悪銭を撥ねるのも正月早々骨が折れますが、こうして買い出しの客が来てくれるだけマシですな。去年までの戦続きを思えば、随分と静かな元旦だ」
「全くだ。今のうちに木炭を余分に仕込んでおこう」
さらに、正月飾りの縁起物を売る露店や、道中での安全を祈るための小間物屋も人だかりができている。
魔除けの塗りが施された手拭いや、新年の御守りを求めて、町衆が我先にと手を伸ばしていた。
いつ戦が始まるか分からない不安の裏返しだからこそ、人々は縁起を担ぎ、美味いものを食い、元旦の賑わいに縋るように金を落としていく。
周りを眺め見ながら歩いている景狼の視界に、巨大な城が現れた。
六条堀川にある「本国寺」である。
歩みを進めるにつれ、それが到底「寺院」とは思えない異様な威容を誇っているのがよく分かる。
寺を囲む広大な外壁は、白壁の優美なものではなく、戦に備えて急造された分厚い土塁と、びっしりと並べられた強固な木柵によって覆われていた。
四方の角には、いつでも弓や鉄砲を放てるような物見矢倉が突き出し、凍てつく空を遮るように高く聳え立っている。
寺の周囲を流れる堀川の水面が、うっすらと氷を張らせて寒そうに光っていた。
門前には、足利左衛門中将(足利左衛門中将義昭)を守る奉公衆の足軽たちが、新年の緩みなど微塵も見せず、長い手槍を握りしめて鋭い目で街道を睨みつけている。
その城郭さながらの物々しい見た目とは裏腹に、門の内側から人の声一つ聞こえてこなかった。
本国寺の巨大な要塞を横目に歩く景狼の耳に、すれ違う町衆や店の軒先から、元旦ならではの会話が漏れ聞こえてくる。
「おめでとうさんでございます。いやあ、底冷えがしますな」
「本当ですな。しかし、公方様が京に入られてから初めての正月だ。こうして下京の初商いも賑わって、まずは一安心というところですな」
景狼は本国寺を通り過ぎると、そのまま南へ歩を進めた。
人通りは次第に少なくなり、店々の喧騒も背後へ遠ざかっていく。
やがて道の先に、高く聳える木戸が姿を現した。
京を囲む大木戸の一つ、鳥羽口である。
景狼は何も言わず、大木戸を見上げた。
丸太を割ってそのまま繋ぎ合わせたかのような厚く頑丈な観音開きの扉が道いっぱいに広がっている。
そのまま竹矢来で固く京を囲んでいる。
開かれた木戸の左右には、織田木瓜の紋を付けた足軽たちが、槍を手に街道を固めていた。
昨日、景狼は玲、柳生新次郎とともに舟で鳥羽へ下り、この木戸をくぐって京へ入った。
あの時は舟着場に、寒さに身を寄せ合う流民たちが幾重にも座り込み、施しを待っていた。
痩せ細った子を抱く母親。 家財を背負ったまま行き場を失った老人。 炊き出しの煙を、ただ黙って見つめる者たち。
だが今日は元旦だった。
京の町は祝いの声と商いで満ちている。 同じ京でありながら、木戸を境にまるで別の国のようだった。
景狼の目には、木戸ではなく、昨日見た流民たちの姿が映っていた。
あの者たちは、この木戸の中にはいない。
景狼は木戸を睨むと、踵を返した。




