牡丹屋
永禄十二年、元旦の京。
先関白、近衛前久の邸のほど近くに、公家相手の御用を調達する『牡丹屋』はあった。
黒い一文字瓦と白壁は、ちょっとした公家屋敷のような佇まいである。
店の間からは、数ヶ月前に織田上総介(織田上総介信長)が残していった軍勢が、近衛邸の門前に立ち塞がっているのが見えた。
『牡丹屋』が近衛家が始めた公家相手の商いをやっているのは周知の事実で、公家から各地方への文や贈り物を送り届けていた。
敵対する織田家も、かつて京を蹂躙した三好も全ての公家が商いの相手である『牡丹屋』には容易に手を出すことができずいた。
「若君は?」
少輔太郎が、帳場で文を仕分けている妻のあややに声を掛けた。
「先ほど、玲と一緒に中庭においででしたが」
あややが少輔太郎の顔を見ず、手元を動かしたまま応える。
「……新年早々、亭主の顔は見ぬものか」
少輔太郎が小さく溜息をついた。
先ほど近衛邸の奥で、前久に冷静な天下の見立てを語っていた男とは、とても思えぬ情けない声である。
「新年だからこそ、忙しいのです。貴方様のお顔を眺めている暇など、今の私にはございませんよ」
「織田様がお公家の方々を厚遇なさるものですから、ただでさえ目まぐるしい元旦が、盆正月が一度に押し寄せたような大わらわです」
少輔太郎が密かに安芸を離れる際、共に上京した妻のあややが、少し刺のある調子で言い捨てた。
「おい、あやや。声が大きい。表の兵どもに聞かれれば、近衛様にもご迷惑がかかる」
少輔太郎は眉をひそめ、至極真面目な顔で窘めた。
その生真面目な横顔を、あややは呆れたように、しかしどこか愛おしそうに見つめる。
「分かっておりますよ。織田方は、近衛様が京からお逃げになったと思い込んでいるのでしょうけれど……まさか、まだこの京の目と鼻の先に潜んでおられるとは、夢にも思わないでしょうね」
あややは手際よく文を仕分けながら、声をひそめて隆元に顔を寄せた。
「『牡丹屋』と近衛邸が、地下の隠れ道で繋がっておることだけは、他所者に露見してはならん」
少輔太郎は額の汗を拭った。
そんな彼に、あややは小さく溜息をつき、温かい白湯の入った器をそっと差し出す。
「本当に、相変わらず危なっかしい実直さですね。貴方様が召し捕られでもしたら、私だって路頭に迷うのです。少しは残される私のことも案じてくださいな」
口元を尖らせながらも、あややの目は少輔太郎隆元の身を心底気遣っている。
「……ほら、冷めぬうちにお飲みなされ」
「すまない、あやや。いつも苦労をかける」
「そうじゃ。毎年欠かさず贈っている、安芸の父上と、お前の父上のところへの新年の進物の差配はできているか?」
少輔太郎が思い出したように背筋を正して尋ねると、あややは「ふふっ」と悪戯っぽく笑った。
「そのことならご心配なく。父上様方への京土産と新年の文は、私が一昨日のうちにすべて改め、手配を済ませておきましたわ。貴方様が必ずや心配なさると思って、何よりも一番に片付けました。抜かりはございません」
「そうか、やってくれたか。さすがはあややじゃ。これで行き違いにならずに済む、恩に着る」
張り詰めていた少輔太郎の表情が、心底安心したようにふっと緩んだ。
少々耳を赤くして器を受け取る少輔太郎を見て、あややは満足そうに微笑んだ。
「あ、それから。先ほど天狼が立ち寄り、『珠洲様が淀に入られた』と報告がありました」
あややが思い出したように告げた。
「では、今日明日中には京へ着きそうじゃな。近衛様もお慶びになるじゃろう」
「ただ……」
あややが少し声を曇らせる。
「どうしたのじゃ」
「何故か、織田方の明智十兵衛(明智十兵衛光秀)様と道連れとのことです」
「明智十兵衛……近衛様のお話では、なかなかの切れ者のようじゃ。これは、一段と用心が必要だな」隆元が鋭い武士の表情に戻ると、あややも無言で深く頷いた。
少輔太郎が帳場を辞し、薄暗い通路を抜けて中庭へと向かうと、そこには表通りの喧騒が嘘のような静寂が広がっていた。
『牡丹屋』の中庭は、近衛家の意向が反映された、いかにも公家好みの造りになっている。
白砂が敷き詰められた小ぶりな庭には、冬枯れの木々と、薄く雪を戴いた石灯籠がひっそりと佇んでいた。
冷え切った空気が肌を刺すが、不思議と心地よい張り詰めた静けさがある。
その庭に面した濡れ縁に、玲は腰掛けていた。
膝の上に厚みのある古い書物を広げ、白い指先で静かに頁をめくっている。
時折、吐き出す息が白く揺れるが、その視線は書物から微動だにしない。
凛とした佇まいは、まるで庭の景色の一部として溶け込んでいるようだった。
一方、そのすぐ傍らの縁側には、黒峰景狼が長々と寝転がっていた。
片膝を立て、腕を枕にして、退屈そうに寒空を仰いでいる。
一見すると正月早々うたた寝をしているだけのようだが、その身体は決して弛緩していない。
風の音や鳥の羽ばたき、そして隆元が近づいてくる微かな足音に、その都度、耳や視線がわずかに反応する。
寝そべりながらも、周囲を警戒する獣のような鋭さを隠しきれていなかった。
「若君、玲殿」
少輔太郎が声を掛けると、玲が静かに顔を上げ、景狼は寝転がったまま、薄く目を開けて視線だけを少輔太郎に向けた。
「昨夜はお会いできなんだゆえ、新年のご挨拶も未だでございました」
「拙者は少輔太郎と申す者。近衛様より預かり、今はこの『牡丹屋』の主を任されておりまする」
少輔太郎が二人の前に進み出て、座って一礼した。
「玲です。少輔太郎様は、京のお生まれでございますか」
「いえ。拙者は安芸の出になります」
「あき? 聞いたことがございません」
玲が興味を惹かれたのか、少し瞳を輝かせて言う。
「そうでしょう。ここから遥か西の果てにある国です」
「わたしたちは霧生から四日ほどかけて京まで参りましたが、安芸からだとどれほどかかりますか」
「さて……安芸からだと、陸を歩いて十二日ほど。瀬戸の海を船で往けば、その半分ほどになりましょうか」
少輔太郎が言葉を選ぶように、ゆっくりと応えた。
「それは大層な道のりでございますね。およそ霧生から京までの二倍を超えております」
「じゃが、儂らも船を使えば四日ぞ。大して変わらぬではないか」
いつの間にか景狼が上半身を起こしていた。
「それは、波風次第にございます」
少輔太郎は景狼に向き直った。
「瀬戸の海は波も風も荒く、日によって勝手が違いまする。それこそ、十日以上足止めを食らうこともございますれば」
「船は風任せ、ということでございますね」
玲が、うんうんと頷きながら呟いた。
「ところで若君。京の様子はいかがですか。南都(奈良)とはまた違って見えましょうか」
少輔太郎が尋ねた。
「若君というのはよせ。景狼でよい」
景狼は鼻を鳴らし、吐き捨てるように言った。
「昨日着いたばかりで何も知らぬわ。じゃが、京の頭は頭ではないな」
「景狼様、それはどういう……?」
怪訝な顔をする少輔太郎に、玲がそっと言葉を添えた。
「若君は、昨日船からご覧になった可哀想な人々のことが、忘れられないのです」
「可哀想な人、ですか?」
「……汚れた、いえ、違いますね。食べる物もなく、住む所もなく、どこへ行くこともできず、ただそこに蹲っている人々です」
玲が記憶を辿るように、静かに、ゆっくりと言った。船から見た荒れ果てた洛中に溢れる流民のことだった。
「そうじゃ。あの者らも京の民なのであろう。頭たる者は、民を守るべきではないのか」
景狼が強い光を宿した目で隆元を睨む。
その真っ直ぐな言葉に、少輔太郎は思わず息を呑んだが、すぐに表情を引き締めた。
「そういうことでございましたか。じゃが、今の京の頭は織田様ですぞ。滅多なところでそのようなお言葉を漏らせば、即座に召し捕られまする」
少輔太郎が、庭の先にある白壁の向こうへ鋭い視線を向けた。門外には織田の兵が立っているのだ。
「何ゆえ捕まらねばならん。民を守れぬようなら、頭など辞めるべきじゃ」
「『牡丹屋』の者がそのような事を口にされたら、拙者とてお二人の身を守れなくなりまする。拙者もこの店の頭を辞めねばならなくなりますまい」
「景狼様の言葉で言うなら、拙者もこの店の頭を辞めねばならなくなりますまい」
少輔太郎が生真面目な顔のまま、困ったように言うと、景狼はちっと舌を鳴らして再び濡れ縁に寝転がった。
「知らぬわ。お主が頭を辞めようが知ったことか。守れぬなら、より強い者が頭になればよいだけじゃ」
「…景狼様、ここは狼の山ではございません」
人間の理屈が一切通じない景狼に、少輔太郎は額を押さえて深いため息をついた。
その横で、玲が「ふふっ」と小さく袖で口元を隠して笑う。
少輔太郎はそこまで言うと、ふっと視線を落とし、寂しげに唇の端を上げた。
「ですが…民を守れぬからと、頭の座を降りたのは、拙者も同じことにございます」
自嘲めいた少輔太郎の呟きに、景狼が片眉を上げた。
「少輔太郎、お主もどこかの頭であったのか」
「いえ。拙者は頭の子でございました。景狼様と同じに」
「…お話しくださいますか」
玲が、ふいに色を変えた少輔太郎の瞳をじっと見つめる。
書物を閉じるその手つきは、どこか優しかった。
少輔太郎は少し躊躇うように間を置き、静かに語り始めた。
「拙者は、安芸の毛利陸奥守(毛利陸奥守元就)という男の子でございました。…ご存知でございますか」
「いえ。聞いたこともございません」
玲がすまなそうに首を振る。
「そうですか…毛利は西国ではいささか大きな家にございます。安芸をはじめ、六つほどの国を預かっておりまする」
「六つもの国を、ですか!?」
玲が息を呑んで驚いた。
国が六つという規模は想像すらつかない。
「六つの群れの頭か。それは、どれほどの規模なのだ」
景狼が尋ねる。
少輔太郎は、二人に伝わる言葉を慎重に選んだ。
「およそ、百万の人間が一年を飢えずに食べていけるだけの力、にございます」
「百万の、人間!?」
玲がまたも目を丸くする。
「実際には、それほどの民が毛利におるわけではございませぬが、それだけの人を食わせる力がある、ということでございます」
「それは凄い力だ。立派な力ではないか」
景狼が寝そべるのをやめ、目を輝かせて頷いた。
純粋に「食わせる力がある長」を称える野生の目だった。
「左様、凄まじい力にございます。…じゃが、群れが大きくなれば、それだけ様々な人間が集まりまする。長の座を横取りせんと牙を研ぐ者。自分が良き暮らしをするために、都合のよい頭を求める者」
少輔太郎は膝の上で拳を固く握りしめた。
「人間の群れは狼とは違い、従わぬ者をただ力だけで屈服させることはできませぬ。父のように、牙を剥く者すべてを従わせることは、拙者にはできませなんだ。拙者が残れば、拙者を担ぐ者と退けようとする者とで、毛利が割れる。ゆえに、拙者は死んだ者となって群れを離れ申した」
語るうちに感情が込み上げてきたのか、少輔太郎の端正な顔に、じりじりと滲むような悔しさが浮き上がってくる。
己の不甲斐なさ、父への申し訳なさ、国元への未練――生真面目な男がずっと胸の奥に閉じ込めていた熱い澱だった。
「立派じゃ!」
突然、景狼が立ち上がって叫んだ。
少輔太郎がはっと顔を上げると、そこには満面の笑みを浮かべた景狼が立っていた。
「お主が残れば群れが割れた。だから離れたのであろう。それは逃げたのではない。守ったのじゃ。それもまた頭というものよ。隆元、お主は立派な頭じゃ!」
屈託のない、それでいて絶対的な確信に満ちた景狼の言葉が、中庭の冷気をもぎ取るように響いた。
国元を離れて以来、己の決断を正しかったと言ってくれる者はいた。
だが、それを「頭の生き方」と呼んだ者は一人もいなかった。
喉の奥が熱くなり、視界がわずかに滲む。
「……景狼様」
少輔太郎は深く頭を垂れた。
「過分なお言葉、この少輔太郎、生涯忘れませぬ。……救われました」
絞り出すような声で礼を言うと、少輔太郎は深く息を吐き出し、張り詰めていた肩の力をそっと抜いた。
しかし、滲んだ視界が戻るにつれ、少輔太郎の理性がふと我に返った。
(……いや、待て。それにしても、だ)
少輔太郎は涙を引っ込め、改めて目の前の二人を凝視した。
毛利の名も、百万石の重みも知らぬ。
大国の嫡男であったと聞いても、畏れも媚びもない。
それなのに、自分が何年も言葉にできなかった決断の意味だけは、あまりにも容易く見抜いてしまった。
(世間を何一つ知らぬというのに、人の心の芯だけは見誤らぬのか)
少輔太郎には、そのことの方が、百万石という力よりも遥かに恐ろしく思えた。
少輔太郎は底知れぬものを感じながらも、この危うくも愛おしい「狼たち」を自分が人間の毒から何としても守らねばならないと、新たな覚悟を胸に宿していた。
「……ふふ、少輔太郎様は、とても真面目なお方なのですね」
「若君は、見た通りにしか申せない方なのです」
呆然とする少輔太郎の顔を見て、玲がまた嬉しそうに微笑んだ。




