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狼の時代  作者: 閃紅
永禄十二年
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43/70

毛利少輔太郎

第二章の開始です。

先の関白と死んだ筈の男との密談です。

尾張・美濃の織田上総介が足利義昭公を奉じ、京へ上洛した永禄十一年は、日ノ本が根底から覆る激動の年であった。


明けて永禄十二年、元旦。

新年の祝いに沸く洛中の喧騒から切り離されたかのように、近衛室町(このえむろまち)にある近衛邸は静まり返っていた。

応仁の乱以降の戦火に晒され、修理もままならぬ壁や柱が、時代の荒廃を物語っている。

その薄暗い奥の書院で、二人の男が火鉢を挟んで面と向かい、密やかに語り合っていた。

一人は、この邸の主であり、若くして公家社会の頂点に立ちながらも時代の変革を愉しむような鋭い眼光を持つ、先の関白・近衛前久(このえさきひさ)。

そしてもう一人は、五年前の永禄六年に「急死」したはずの男―毛利元就の長男、毛利少輔太郎隆元(もうりしょうたろうたかもと)であった。


「関白様……新年の御吉慶(ごきっけい)、目出度(めでたく)申し納め候」

少輔太郎が、畳に両手をついて深く頭を垂れる。

世間的には「墓の下にいる死人」である彼が、こうして生きて前久の前に平伏していることは天下の最高機密であった。

「待て、少輔太郎。儂は今は関白ではないぞ」

前久が、悪戯が成功した子供のように口元を緩めて笑った。

「これは失念しており申しました。我ら西国の者にとっては、いかなる時も関白さまとしか思えず……」

「ま、よいわ。織田や公方の目が光る今の京では、関白の肩書きなど動きを縛る邪魔な重荷にすぎん」

「ふっ、いかにも近衛様らしい」

少輔太郎の生真面目な顔にも、漸く微かな笑みが浮かんだ。張り詰めた書院の空気が、一瞬だけ和らぐ。

「で、昨年は大変じゃったのう。織田が京を呑み込んだわ」

「どんな報せが引っかかった?」

前久が身を乗り出す。

少輔太郎は、近衛預りになってから近衛家が持つ複数の情報網を束ねていた。


「御意。織田殿の上洛を合図にしたかのように、各地で火の手が上がっておりまする」

「九州、越後、東海、関東、無論我が故郷の安芸からももたらされておりまする」

少輔太郎は、手元の書状に目を落とすことすらなく、脳内の地図を広げるように、一気に全国の情勢を語り始めた。


「ご存知の通り、近江を差配していた六角は織田に敗れ、甲賀の山中へと落ち延びておりまする。京を追われた三好も、淀城には辛うじて残っているものの、摂津・河内、さらには阿波へと押し返され申し、……畿内の勢力図は一変しております」

前久は黙って頷き、先を促す。

「大和では、松永がいち早く織田に臣従し、筒井から実権を強引に奪い取りました」

「更に東へ目を向けますれば、武田は甲駿相の三国同盟を乱暴に破棄し」

「信玄入道もついに忍耐の緒が切れたか…」

「御意。今川の駿河へ侵攻を開始。これに呼応し、織田との婚姻で足場を固めた徳川が、同じく今川領へ牙を剥いておりまする」

息もつかせぬ少輔太郎の報告は、さらに遠国へと及ぶ。

「今川を見捨てぬ北条は、武田を抑えるために、宿敵であった上杉との同盟を模索中との由。その上杉は、武田が駿河へ注力している隙を突き、越中の地盤を固めたい構えにございます」

「ふむ…東国も一歩も引かぬ泥沼じゃな。では、西は?」

「九州の大友は、家臣の謀反と国衆の蜂起の鎮圧に追われ、身動きが取れませぬ」

「…そして、我が毛利にございまする」

少輔太郎の目が、一瞬だけ鋭く光った。

「我が家は大友に呼び戻された不忠の家臣、立花鑑年らへの救援を大義名分とし、念願である九州への大規模な侵攻を、今まさに裏で準備しておりまする」

何も見ずに、日ノ本全体の動く兵たちの息遣いまでをも言い当てた少輔太郎。

前久は、火鉢の灰を火箸でいじりながら、深く、感嘆の息を漏らした。


「さすがは『謀将』元就よのう、大友を揺さぶるその見事な手管も、すべてはあの『謀将』が仕掛けたのであろう」

「…して、死んだはずの『謀将』の嫡男は、織田上総介はどう見る?」

前久がいたずらっぽく笑うと、少輔太郎は表情を崩さぬまま、静かに己の手のひらを見つめた。

五年前、安芸国で盛られた毒。

あの時、喉を焼いた激痛と、身内であるはずの国衆たちの冷ややかな視線は、今も肉体と記憶に深く刻み込まれている。


「織田殿、にございますか…」

「いかにも。お主の目から見て、戦を終わらせられるに足る器か。それとも…」

「…測りかねておりまするが、織田殿は拙者と同い年にございまする。同じ年に生まれながら、到底できぬことを、あの男は成し遂げておりまする」

「ほう、お主がそこまで言うか」

少輔太郎は、かつて己を死の淵に追いやった毛利の国衆たちの顔を思い浮かべながら、慎重に言葉を紡いだ。

「我が毛利は、国衆たちの力が強すぎました。父であっても彼らには気を使い、八箇条の起請文を出してようやく繋ぎ止めているのが実情」

「…だからこそ、私は一度彼らに毒を盛られ、表舞台から消えるほかございませんでした。身内の刃ほど、防ぎ難きものはありませぬ」

少輔太郎の言葉に、前久は深く頷いた。

元就が涙を呑んで「嫡男は急死した」と世間に偽り、前久に隆元を託したあの夜のことを、前久も忘れてはいない。


「されど、織田殿は違いまする。背後にいる柴田や佐久間、美濃の三人衆ら、一国を差配してきた誇り高き国衆どもを、見事な手腕で率いておられる」

「現状は、勝ち戦の勢いと利害の一致で動いている連合体とはいえ、あれだけの猛者どもを一つの軍勢として京へ連れてくるなど、並大抵の器ではございませぬ。私など、あの男の足元にも及びませぬよ」


前久は火箸を置き、少輔太郎の生真面目な横顔をじっと見つめた。

少輔太郎は、どれほど知略に長けていても、決して驕ることがない。

だからこそ、その言葉には絶対の信頼が置けた。


「…されど近衛様、その織田殿が上洛後、わずか二月足らずで大軍を引き連れて美濃へ帰ってしまったこと。これこそが、織田の危うさを物語っておりまする」

少輔太郎の言葉に、前久が目を細めた。

「これまでの三好であれば、京を奪えばそのまま居座り、天下に覇を唱えたもの。上総介が慌ただしく兵を引いたのは、公方を軽んじているからか? それとも…」

「御意。家臣どもの限界にござりましょう」

少輔太郎は、かつて己が直面した『領国経営の現実』を重ね合わせるように、静かに言った。

「織田の軍勢は、柴田や佐久間、美濃の三人衆といった国衆の寄合世帯」

「彼らにとって最も大事なのは、京の都ではなく、己の領地にございまする。他国の遠征に長く引き回され、故郷の領国が疎かになれば、国衆どもは必ず不満を募らせ、足元から崩壊いたしまする」

「織田殿とて、彼らの我が儘を無視して京に留まる力は、未だ持ち合わせてはおられぬのです」


前久は深く頷いた。

武士という生き物の本質を、これほど冷徹に見抜ける男は京の都にはいない。

「なるほどな。織田上総介の意志一つで軍を動かしているように見えて、その実は、国衆どもの『帰りたい』という声に押されて引き揚げたに過ぎん、ということか」

「御意。織田殿の意志と、未だ強い力を持つ家臣団の利害が、今は辛うじて噛み合っているに過ぎませぬ」

「もし、この先、国衆の帰国願望すらも力でねじ伏せ、己の意志一つで軍をどこへでも留め置くような『化け物』に化けるのであれば…それこそ朝廷をも脅かす存在になりましょう」

「逆に、これからも国衆の利害に振り回されるのであれば、ここで消え去る神輿に過ぎませぬ」

少輔太郎は、前久の目を真っ直ぐに見据えた。

「近衛様。あの織田殿が、我らの描く『秩序』の盾として仲間に引き入れられる器か、それともただの儚き神輿か」

「今はまだ、どちらとも言えませぬ。あの男の真の姿、どうか関白殿下のその御眼で、冷徹に見極めていただきとうございます」


前久の口元が、今度は不敵に歪んだ。

「お主がそこまで慎重に見る織田上総介という男、この前久がじっくりと値踏みしてやろうではないか」

「…霧生の狼が着いたとの連絡は来ておるか」

「御意。昨日から『牡丹屋』の方におりまする」

「よい。なら織田上総介、狼に任せようぞ」

前久が頷いた。


「…近衛様。織田殿の器を測る上で、拙者がどうしても捨て置けぬ『歪み』が、東国にございます。いや…拙者だからこそ、胸が締め付けられる歪みにございまする」

少輔太郎の声音が、初めて熱を帯びた。

前久は火箸を止め、じっと少輔太郎の目を見つめる。

「お主がそこまで言う歪みとは、何じゃ」

「今川でござりまする」

「今川じゃと」

「御意。相模の獅子・北条氏康殿は、武田の駿河侵攻に激怒しておりまする。妻の実家であり、娘の嫁ぎ先でもある今川を踏みにじった武田を、氏康殿は決して許さぬ構えと、長年の宿敵であった上杉殿に、今まさに同盟の秋波を送り、手を結ぼうと模索を始めた由」

「氏康の正室は、今川氏親の娘であったな。身内の危機に、なりふり構っておられん訳か」

「また徳川殿の室も今川の血」

「このような戦…更なる戦を呼ぶだけにござりまする」

「で、どうするのじゃ」

「北条と上杉が同盟の道を模索し始めた、まさに『今』だからこそ、打てる手がございます」

「北条殿も徳川殿も、共に今川とは血を分けた間柄にございまする。されど一度領国の利が動けば、当主一人の情だけでは家中を止められませぬ」

「この交渉が完全にまとまる前に、近衛様の情報網を使って北条と徳川、あるいは上杉の間を裏で繋ぎ、今川を救う道を探ることはできぬものでしょうか」

生真面目な少輔太郎が、まだ水面下にある東国の動きを捉え、これほど熱を帯びた相談をしてきたのは初めてだった。

前久は天井を見上げ、深く息を吐き出した。

少輔太郎の優しさと、それが生み出す恐るべき外交の「火種」に、政治家としての血が騒いだのだ。


「…少輔太郎よ。お主のその『情』、公家どもには狂気に見えるだろうが、儂は嫌いではないぞ」

前久の目が、ギラリと妖しく光った。

「面白い。まだ誰も全貌を知らぬこの東国の交渉、お主の持ち込んだその火種で、儂が裏から糸を引いてやろうではないか」

「近衛様…」

「まずは上総介の器を測る。その先はそれから考えようではないか」

「狼には、上総介が家臣どもの利を越えて動けるか見極めて貰おうぞ」

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