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狼の時代  作者: 閃紅
永禄十一年
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三人の旅路12(第一部完)

景狼、玲、新次郎の三人は、吹き下ろす冷たい風を遮るように身を縮めながら、坂の長い下りを歩み進めていた。

霧生、阿保、比自岐。

生まれ育った伊賀の、あのどこまでも深い杉の山並み。

そこから、剣の気配が張り詰めた柳生の谷を抜け、奈良を過ぎてきた。

これまで彼らが歩んできたのは、静寂と山の匂い、そして身内の顔しか知らない濃密で閉ざされた世界だった。

だが、この坂の途中で視界が開けた瞬間、三人の歩みが自然と止まった。

遥か先には、京を抱く薄青い山並みが、世界の果てのように連なっている。

そのすぐ向こうを流れる木津川は、冬の澄んだ陽光を浴びて鉄色に鈍く光り、水面には驚くほどたくさんの川舟が、まるですくい上げた砂の粒のようにいくつも浮かんでいた。

冷え切った空気の向こうから、かすかに、しかし確実に「音」が這い上がってくる。

それは、笠置の渓谷で聞いたような岩を噛む激流の轟音ではない。

ゆったりと、しかし圧倒的な質量を持った木津川の深い水の音。

そして眼下。そこには、これまで見たこともない広大な平野の底に、黒い屋根をびっしりと並べた木津の町が横たわっていた。

そして、何百人もの人間がひしめき合って生み出す、ざわざわとした地響きのような町の喧騒だった。

「あれを見よ」

新次郎が呆気にとられた声を出す。

町の入り口へと続く街道には、小さな点のようになった人々や馬が、まるで蟻の行列のように絶え間なく出たり、入ったりしている。

町を出た人々は東に向かうか、この坂に上って来る。

「これから何処へ向かうんだい」

上って来た商人らしき男に声を掛けられる。

「京へ」

玲が短く応えた。

「そうですか。京への移動もだいぶ安心できるようになったので、助かります」

「今は織田様と松永様が仕切ってくださってるので整っておりますが、それまでは川の途中でも川銭を求められたりと大変でした」

「そうですか」

「このまま続くと商いも捗ります」

「それでは」

商人は荷を担ぎ直すと、坂を上って行った。

玲も商人に頭を下げると、改めて町を見下ろした。

真冬の凍てつく寒さの中、町からは何本もの白い暖の煙が、まっすぐ空へと立ち上っている。

玲はその白煙の数を見つめていた。

あの煙の数だけ、誰かが、温かい火を囲んで暮らしているのだ。


奈良坂の急な石礫の坂を下り切ると、冷え切った冬の空気の向こうに木津の大きな門が見えてきた。 

門の前には受付を待つ長蛇の列ができており、三人ものその最後尾に並ぶ。

だが、列の進みは驚くほど早かった。

これまで通ってきた月ヶ瀬や笠置の渡船場、あるいは大和の国境にある関では、役人がいちいち品定めをするように旅人を睨み、遅々と進まなかったのとは大違いだ。

木津の門は、拍子木を叩くような小気味よい速さで、人々がリズミカルに町の中へと吸い込まれていく。

すぐに三人の番が巡ってきた。

いつも通り、新次郎が先頭に立って懐から手形を取り出し、無造作に差し出す。

手形を受け取った門番の目が、一瞬で鋭くなった。

すぐさま姿勢を正し、深く頭を下げる。

「…柳生様のご一行でございますか。これは失礼いたしました、どうぞ中へ」

門番の一人が列を離れ、恭しく三人の先導を買って出た。

一歩門をくぐれば、そこは音の渦だった。

ぬかるんだ土道を荷車の木輪がゴトゴトと軋んで進み、商い人たちの野太い売り買いの声が飛び交う。

川が近づくにつれ、湿った木材の匂いと川泥の匂いが混ざり合った濃密な空気が鼻腔を突き、波に揺れる無数の船腹が擦れ合う「ギィ、ギィ」という鈍い音が地鳴りのように響いていた。

三人が案内されたのは、川縁にせり出すように建てられた板張りの詰所だった。

「暫しこちらでお待ちくだされ。すぐに案内の者が参りますゆえ」

門番は一礼して足早に小屋を出て行った。

張り詰めていた緊張が少し緩み、三人は何ともなしに冷え切った板床へ腰を下ろす。

ふと、壁に穿たれた四角い窓から、冬の淡い光が差し込んでいるのに玲が気づいた。

覗き込むと、すぐ目の前が川港だった。

川底の浅い冬の木津川に対応するため、底が平らに造られた巨大な高瀬舟が、何十隻もひしめき合うように係留されている。

間近で見る舟の木肌は水を吸って黒々と光り、圧倒的な質量感で迫ってきた。

その巨躯へ向かって、大人四人がかりで巨大な庭石を綱で引き上げる者、箱に詰まった冬野菜を威勢よく担ぎ降ろす者。

動いているもの全てに、弾けるような活気が満ち満ちている。

ドゴンッ!

突如、川の上流側から地響きのような重い轟音が響き、詰所の板床が微かに震えた。

「ひゃっ」

玲は思わず身をすくめ、すぐに必死になって窓から身を乗り出した。

見れば、右手の方から白波を立てて剥き出しの巨木が何本もどんぶらこと流されてきて止まる。

よく見ると水面に渡された太い引き綱に次々と音を立てて激突し、堰き止められているのだ。

腰まで冷たい川水につかった男たちが、白い息を吐きながら、その丸太を一本ずつ手際よく岸へと引き揚げていく。

「あれは、伊賀や北山城、大和の深い山々で伐り出された木を、そのまま川に流してよこすのです。冬の生木はよく浮きますからな」

不意に、左側から絹を擦り合わせるような、穏やかで心地よい声がした。

玲が弾かれたように首を巡らせる。

開け放たれた窓のすぐ外に、一人の男が立っていた。

いつからそこにいたのか、春の海のように穏やかな眼差しで玲の横顔を見つめている。

身に纏う羽織の仕立ては一級品で、武骨な木津の港にあって、そこだけが京の公家のような洗練された空気を放っていた。

「これは失礼をいたしました。拙者は瓦林左馬亮秀重、松永家に仕える者にございます」

「瓦林、様……」

玲が必死に記憶の手帳をめくったが、その名に心当たりはなかった。

「…瓦林秀重殿、とおっしゃいましたか」

それまで黙って板床に腰掛けていた新次郎が、音もなく立ち上がった。

新次郎の脳裏にその名が閃いた。

松永弾正久秀様を支える家宰。

一国を動かす巨頭がなぜこのような場所にいるのか。

新次郎は即座に居住まいを正した。

腰の刀が鳴らぬよう左手でしっかりと押さえ、窓外の男に向かって深く、淀みのない一礼を返す。

同じ陣営に属する武士として、非の打ち所がない礼節に満ちた挨拶だった。

「これは柳生家が嫡男、新次郎にございます。瓦林殿が、自らこのような場でお出迎えくださるとは夢にも思わず、不調法な挨拶にて失礼仕った」

「して、瓦林殿。我らの不意の旅路、いかにして御耳に届いたのでございますか」

新次郎の声は丁重ながらも、その奥にはまだ油断ない鋭さが残っていた。

自分たちが奈良坂を越え、この木津の町に入ることは、父・新左エ門も知らないはずだ。

それなのに門番の動きも、この詰所への案内も、まるで全てを見越していたかのようだった。

新次郎は改めて、松永家の底知れなさを思い知る。窓の外の男、左馬亮は、新次郎の完璧な礼節に満足げに目を細めると、柔和な笑みを浮かべたまま、貴人のごとく優雅に一礼を返した。

「さすがは柳生の嫡男。抜かずとも、その刃の冴えが見えております」

「新次郎殿、久秀公より『柳生の客人が通るゆえ、万事滞りなきよう迎えよ』との厳命を受け、これより先はお味方としてお世話いたしまする」

「御屋形様の目に留まらぬ羽虫など、この山城大和にはおりませぬよ。ましてや、大和随一の兵法者のご一統とあればな」

左馬亮はそう言って、物腰柔らかに、しかし有無を言わせぬ確信を込めて微笑んだ。


左馬亮が案内したのは、詰所の更に奥に設けられた、松永家専用の特設桟橋だった。

そこには、先ほど窓から見ていたものよりも一回り大きく、船首に松永家の家紋の幕を掲げた美しい高瀬舟が、静かに波に揺れていた。

「これよりこの瓦林が京まで案内させていただく」

まるで京の茶会へ客人を招くかのように、優雅な手つきで舟へと促す。

「左馬亮様手ずから、舟の手配まで…恐悦至極にございます」

新次郎は慇懃に頭を下げた。

三人が舟に乗り込むと、船頭たちが長い竹棹を操り、手際よく木津の港を離れた。

港を埋め尽くしていた巨木の網場をすり抜け、舟が本流へと出ると、冬の冴え渡る風が川面を吹き抜けて行く。

船室には火鉢が用意されており、細やかな気配りが伺えた。

「先ほど、興味深げに木材の運びを見ておられましたな」

左馬亮が玲の方を見た。

「はい、瓦林様。石切場を見たのです。その時にこの石でお寺とお城が造られると」

「その石の切り出し、運びが命懸けだったと教えていただきました」

「お寺やお城は石だけでは造れません。木が必要です」

「その木は何処からと思っていたのですが、先ほどの川を見てわかりました」

「川を使って木を運んでいたのですね」

「しかも冷たい川に入って岸に引っ張るのも命懸けだと」

左馬亮が意表をつかれたような表情になった。

「これは驚きました…一つのことから繋がって考えられるのは並大抵のことはございませぬ」

「左馬亮、感服いたしました」

「ご客人の申す通り、この木津という町は木材を集める港ということで、木津と呼ばれています」

「この木津川を遡れば伊賀、下れば巨椋池を経て淀川、大坂へ至ります。ここから畿内へ運ばれるのです」

「この木津を押さえる者は、畿内へ運ばれる物の流れを握ることになるのです」

「お分かりですか。この木津を通らないと南都に物を運べないということです」

冬の水量が少ない木津川だったが、底の平らな高瀬舟は滑るように浅瀬を越えて行く。

時折、川岸に見える枯れ葦の向こうに、松永家の息がかかった物見の砦や関所が通り過ぎて行く。

舟は木津川を下り、やがて幾筋もの流れが入り交じる淀の水域へ入った。


玲が窓から身を乗り出すと、確かに前方で、色の違う水流が渦を巻いて交じり合い、川幅が一気に海のように広がっていくのが見えた。

それと同時に、行き交う舟の数が木津の比ではないほど膨れ上がっていく。

高瀬舟が、巨椋池と幾筋もの川が入り交じる淀の水域へ差しかかった時、その城は薄暗い冬の曇天の下に姿を現した。

幾筋もの川と湿地に守られた微高地。

三方を水に囲まれ、陸から近づける道が限られた城。

「ご覧なされ。あれはただの陸の城ではございませぬ。三方を川と湿地に囲まれ、陸から攻め寄せられる道も限られております」

「城の縄張りそのものが、この淀の水の流れと結びついておるのです」

「少し前まで、あれを三好方が押さえ、この水路を行き交う舟に睨みを利かせておりました」

「城を落としたからとて、流れた血も、止まった荷も、すぐ元には戻りませぬ」


船頭たちは帆と棹を巧みに操り、伏見へ通じる水路へ舟首を向けていく。

「間もなく伏見でございます。…ですが、ここから先は、この都の真の有様が目に飛び込んでまいりましょう。とくと、ご覧になっておくが良い」

左馬亮の柔和な笑みの奥に、ふっと冷徹な大人の影が差す。

左馬亮の言葉に誘われるように、玲が窓の外の岸辺に目を凝らした。

その瞬間、玲の身体が小さく強張った。

先ほどまでのきらびやかな商船の活気とは、完全に断絶された地獄のような光景だった。

水際が泥濘に変わるあたり、冬の冷たい枯れ蘆の向こうに、ボロ切れのような筵を竹竿で支えただけの粗末な小屋が、無数に犇めき合っていた。

「これはどういうことですか…」

玲は岸の光景から目が離せなかった。

新次郎だけではなく、玲の尋常ではない声で景狼までもが窓の外の光景を見る。

「戦で村を失った者、洛中に居場所を得られなかった者、寺社の門前から追われた者…事情はそれぞれにございます」

「ここは誰の土地だ」

景狼が無表情に言った。

「恐れ多くも帝の都。その新たな差配を任されたのが、織田上総介様にございまする」

左馬亮がお道化た感じで言う。

まるで冗談を言ってるかのように。

「織田上総介というのか、ここの頭は…失格だな」

景狼が吐き捨てるように言う。

「何と申しましたかな」

左馬亮が驚く。

「頭とは群れを食べさせられる者のことを言うのじゃ。ここにいるのは食べれないのであろう」

「確かにそうですが」

「だから失格と言ったのじゃ」

凍てつく冬の寒さの中、骨が浮き出るほどに痩せ細った大人や子供たちが、泥にまみれて身を寄せ合っている。

冷たい川水で何かを洗う者、力なく横たわったまま動かない者。

彼らは、松永家の美しい家紋を掲げた高瀬舟が目の前を通り過ぎても、物乞いの声を上げる気力すらないのか、ただ泥のようなうつろな目で、じっと舟の窓を見つめ返してくるだけだった。

鼻を突くのは、湿った泥の匂いと、そして微かに混ざり合う死臭。

きらびやかに蘇りつつある京の都のすぐ足元には、このようにして踏み潰され、捨て去られた人間の泥沼が、どこまでも広がっていた。

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