永禄十一年 奇妙丸(後篇)
甲斐国。躑躅ヶ崎の館。
美濃からの婚約の品々が運び込まれた。
艶やかな絹が陽を受けて輝き、金銀をあしらった家具が次々と運び込まれていく。
まるで今一番勢いのある織田家がその力を誇示するかのような品々だった。
信玄をはじめ家臣たちもその織田の力に目を細める中、当事者である松は一人自分の部屋で小さく縮こまっていた。
あの日の三条の方の言葉が今も松の耳に響いている。
わたしは父上様から織田への生贄。
わたしは鬼のような旦那様に差し出される。
わたしは父上様の道具。
冷えた指先は、膝の上で震えていた。
「暗いところでどうしたのですか、松」
そのとき、実母の油川夫人が、大人たちの検分から外された小さな木箱をそっと松の前に差し出した。
「織田の奇妙丸様から松へと、河尻肥前守殿が別にお持ちになったようです」
松が驚いたように母、そして木の小箱を見た。
松は怯えながら、小さな手で木箱の紐を解いた。
箱の中に収まっていたのは、金銀の飾りなど一切ない、素朴な木組みの小さな紙張りの行灯であった。
張られている和紙は雪のように白く、柔らかく光を通していた。
戦の道具でも、家格を誇る宝飾でもない。
木箱の中に一通の小さな紙切れが入っていた。
震える手でそれを広げた。
書かれていたのは、大人たちの形式ばった口上ではなく、十一歳の少年が必死に墨を滲ませた、あまりにも短い言葉であった。
『淋しい時もこの灯りで温かくなるように願う』
松の大きな瞳が、その文字をじっと見つめた。
何度も、何度も読んだ。
わたしは、わたしは…。
松が母の顔を見る。
油川夫人が無言で頷く。
松の目から涙が溢れて来た。
奇妙丸様はわたしの淋しさを知っている。
会ったこともないわたしのために、この冷え切った暗闇を温めようとしてくれている。
「暗いから灯を点けましょうね」
油川夫人が行灯の中にそっと火を灯した。
和紙を通して広がった薄黄色の光は、驚くほど柔らかく、松の小さな手と、涙に濡れた顔を優しく包み込んだ。
灯を見つめていると、胸を締めつけていた冷たさが少しずつほどけていく気がした。
「…あたたかい」
ぽつりと言った松の言葉は、もう消え入りそうな声ではなかった。
「母上、わたしも奇妙丸様に文が…書きたいです」
松が少し頬を染める。
油川夫人が棚から半紙と硯と筆を用意した。
「今日のうちに書ければ肥前守から渡してもらえるでしょう」
「母上、奇妙丸様に何をお返しすれば…」
「あなたが考えることよ。奇妙丸様のことを考えればわかるでしょう」
「奇妙丸様と同じようにね」
そう言い残すと、油川夫人は部屋を出て行った。
行灯の灯の中、松は筆を持って目を閉じた。
「うーん…」
筆を口元に当てて考える。
書こうと思えば思うほど、何を書けばよいのかわからない。
「ありがとう」だけでは足りない気がした。
暫し首を傾げていた松だったが、不意に小さく微笑んだ。
「そうですね…」
筆先を硯に浸し、半紙へと向ける。
墨の香りに包まれながら、一文字、また一文字と、ゆっくりと書き綴っていく。
書き終えると、少し離して眺めた。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
その夜。
冷え切った躑躅ヶ崎の館の片隅、松の部屋の障子から、見たこともないほどに穏やかで、仄かな光が漏れていた。
衣擦れの音をさせて、闇の中から現れたのは三条の方であった。
昼間、松に呪詛の言葉を吐き散らした彼女は、廊下でふと足を止めてその光を見つめた。
障子の隙間から覗いた部屋の中では、松が美濃から届いた小さな和紙の行灯を枕元に置き、愛おしそうに、安らかな寝息を立てて眠っていた。
その小さな手には、十一歳の少年が紡いだ一言だけの文が、大切に握りしめられている。
大人の醜い野心も、家格を誇る金銀財宝も、そこにはない。
ただ孤独な少女のために灯した、純粋な祈りだけがそこにあった。
三条の方は静かに呟いた。
「……頑張りなさいな」
昼間の酷薄な表情は、もうそこにはなかった。
暫く行灯の明かりを見つめると、小さく微笑み、音もなく闇へと消えていった。
美濃国。岐阜城。
城内は相変わらず、父・信長の上洛の戦果を称える声と、更なる領土拡大を目論む大人たちの熱気で騒がしかった。
その狂騒から逃れるように、奇妙丸は自室の文机の前に座っていた。
「若、ただいま甲斐より戻りましてございまする」
部屋に入ってきたのは、美濃からの婚約の品を届ける使者として躑躅ヶ崎の館へ赴いていた、河尻肥前守であった。
長旅の埃を払った肥前守の顔には、相変わらず織田の威勢を示してきたという武将の満足感が浮かんでいる。
しかし、奇妙丸の前に進み出ると、その厳めしい表情に、どこか奇妙な感心の気配が混ざった。
「お館様より仰せつかった品々、然と届けてまいりました。武田の者ども、我が織田の富と権勢に、一様に目を見張っておりましたぞ」
「…そうか。大役、大過なく終えて何よりだ」
奇妙丸が淡々と応じると、肥前守は懐から丁寧に包まれた一通の書状を取り出した。
「そうそう、これは滞在の御礼の折、松姫様よりお預かりした返書にございまする」
「何っ!?松からだと」
奇妙丸が河尻の手から文字通り奪った。
「しかし、さすが信玄入道のお子だけありますな」
「母である油川殿がいなくても、我ら織田に堂々と言葉を下された」
「義信殿の件もあり、館の中はひどく冷え切っておる感じでございましたが、松姫様は我が織田の居並ぶ武者たちの前でも、一歩も引かずに凛と佇んでおいででした」
「まるで我らの主かと驚きましたわ」
「松姫様なら織田の先行きは安泰ですぞ」
「そうか…下がってよい」
肥前守が退室し、再び部屋に静寂が戻る。
奇妙丸は、急に愛おしさと緊張が込み上げてくるのを感じながら、肥前守から渡された書状を丁寧に開いた。
中から滑り落ちたのは、一輪の小さな押し花であった。
肥前守が口にした、甲斐の館に咲き誇るという「ツツジの花」である。
険しい山を越え、遥か甲斐の国から届いたその花は、水分を失って薄く透き通り、すっかり茶色く変色してしまっている。
美濃の豊かな庭に咲くきらびやかな花に比べれば、ひどく地味で、儚いものだった。
奇妙丸は、その押し花に添えられた、まだ幼さの残るつたない文字で書かれた文に目を落とした。
『この花をご覧になるころには、もう枯れてしまっているでしょう。でも、わたしの心は温かく、枯れることはありませぬ』
奇妙丸は小さく息を呑み、その文を凝視した。
胸の奥が、熱いもので満たされていく。
確かにツツジの花は枯れていた。
大人が大好きな金銀財宝のような、永遠の輝きなどそこには無かった。
甲斐と美濃という距離、時間の前に花は生命を保てなかった。
だが、松姫は「心はもう枯れない」と言ったのだ。
大人たちはこの婚姻を、背後を固めるための道具だと言う。
だが、違う。
この枯れたツツジの花と短い文こそが、大人の都合に心まで殺されまいと足掻く、松の魂そのものだと感じられた。
奇妙丸は、自分のまだ小さな手のひらに押し花を乗せ、壊さないようにそっと包み込んだ。
母を亡くし、血生臭い世界に絶望して凍りついていた奇妙丸の胸の奥で、何かが確かに融けていく。
「松…」
初めて、その名を口に呼んだ。
この狂った時代の中で、共に手を携えて生き抜く、ただ一人の大切な少女の名前であった。
「私はもう、流されるだけの人形にはならぬ」
「松…お前の心を枯らせたりはしない」
奇妙丸は文を胸に強く押し当て、静かに誓った。
その決意に満ちた少年の横顔を、開け放たれた襖の陰から、じっと見つめている影があった。
帰蝶は、奇妙丸が文を愛おしそうに抱きしめる姿を、そして机の上に置かれた、水分を失ってなお美しく凛と佇む甲斐のツツジの押し花を、静かにその瞳に映していた。
「心はもう、枯れませぬ、か…」
帰蝶の口元に、ふっと、柔らかく切ない笑みが浮かんだ。
大人たちの血生臭い謀略の渦に放り込まれながらも、十一歳の少年と七つの少女は、自分たちの心だけは化け物に売り渡さなかった。
それどころか、お互いの傷に寄り添い、暗闇の中で小さな火を灯し合っている。
身内同士で殺し合うことすら当たり前となったこの世で、目の前の若き嫡男は、誰よりも純粋に、その少女の心だけを守りたいと願っている。
「…まことに、愚かで、愛おしい子供たちですね」
帰蝶は小さく呟いた。
その瞳には、先日の奇妙丸を厳しく突き放した冷徹さはもうなかった。
あるのは、抗おうとする二人への、深い慈愛と、どこか羨むような切なさであった。
「然と生きなさい、奇妙。その火を、絶やしてはなりませぬよ」
帰蝶は声には出さず、心の中でそう語りかけた。
そして、自分の役目は終わったとばかりに、静かに衣擦れの音を響かせながら、夕闇が迫る岐阜城の廊下の奥へと、美しく、静かに去って行った。




