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狼の時代  作者: 閃紅
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永禄十一年 奇妙丸(前篇)

永禄十一年、尾張の織田上総介信長が京へ上洛を果たした。

それは戦国時代の登場人物にとっては否応なしに変化が求められる事になった。


甲斐国躑躅ヶ崎の館。

当主である武田信玄は娘の松を呼び出していた。

父と娘の二人きりである。

「少しは元気になったか」

父である信玄の声はどこまでも淡々としていた。

信玄が声を発する度に幼い松はビクリとする。

「はい…」

松が消え入るような声で返事すると、信玄は不機嫌そうな顔をした。

「ま、よいわ」

「此度尾張の織田と縁を結ぶことになった」

「これによって念願の海が手に入れられるようになる」

「ついてはお主を美濃にやることになった」

「心しておけ」

松は何を言ってるのかわからなかった。

わたしが美濃?。

「父上様…どういうことです…」

「わからんか?お主は織田の嫁になるのじゃ」

「盟など風向き一つで変わる」

「されど夫婦の縁は簡単には切れぬ」

信玄は薄く口元を緩めた。

「父上様…義信兄様だけでなく、わたしまでも…」

松の大きな瞳に涙が浮かんでくる。

俯いて耐えないと父上にまた怒られる。

「聞こえんぞ。大きい声で申せ」

「いえ。なにも…」

松が精一杯の声で返事をした。

「まあよいわ。然と告げたからにはいつでも行けるよう準備せい」

信玄はそう言い残すと部屋を出て行った。


信玄が去った後、張り詰めていた糸が切れたように松は畳に伏して泣き崩れた。

小さな肩を震わせる娘のもとへ、音もなく滑り込んできたのは実母の油川夫人であった。

「松、可哀想に…」

油川夫人は我が子を愛おしそうに抱き寄せ、その背を優しく擦る。

「お館様のお言葉は絶対でございます」

「されど、織田の若君はきっと、あなたを温かく迎えてくださいます」

「泣いてはなりませぬ、武田の娘として誇りをお持ちなさい」

我が身もかつて武田の本家に臣従し、側室として生き抜いてきた。

その慈愛に満ちた慰めの言葉は、しかし、開け放たれた襖の向こうから響いた冷徹な声にかき消された。


そこには、豪奢な小袖を纏った正室・三条の方が佇んでいた。

その冷ややかな眼差しは、泣きじゃくる松と、それを庇う油川夫人を値判るように見下ろしている。

前年に嫡男・義信を幽閉の末に自害へと追い込まれた三条の方の瞳には、かつての京の気品はなく、深い絶望と、夫への昏い憎悪が渦巻いていた。

「お館様にとって、我が子は家を広げるための道具、あるいは邪魔になれば切り捨てる石ころに過ぎませぬ」

「それは織田とて同じこと」

「松、お前は武田の家が栄えるための生贄となるのです」

三条の方は一歩近づくと、松を凍りつくような目で見つめた。

「精々、向こうで役に立つとよい。あの男の身勝手な野心のせいで、義信のように無惨に殺されぬようにな…」

その声は怒りに震え、まるで呪詛のようであった。

三条の方は酷薄な歪んだ笑みを一瞬浮かべると、衣擦れの音を残して去っていった。

信玄への恨み、そして我が子を救えなかった悲痛な狂気が、静まり返った部屋に重く澱む。

母の腕の中で、松は実の兄の悲惨な最期と、美濃という見知らぬ異郷の恐ろしさに、ただただ身震いするばかりであった。



美濃国岐阜城。

織田が上洛を果たしたことで城内、城下は熱気に包まれていた。

父上総介不在により城主代行となった奇妙丸にはその熱気は伝わらなかった。

亡き母である生駒の死から立ち直れずにいた。

そこに父上総介からの文が届く。

「元気にしておるか、儂の子として立たねばならん」

「奇妙、お前が立てるよう、儂が嫁をやる」

「甲斐の信玄入道の娘じゃ、問題あるまい」

「輿入れは先じゃが心しておけ」

父の文を読んだ奇妙丸は呆然とした。

このわたしに嫁?

奇妙丸はもう一度文を読んだ。

何度読んでも嫁とあった。


「若、お館様からの文、何と書かれておいでですか」

声をかけてきたのは、教育係であり近習をまとめる河尻肥前守秀隆であった。

奇妙丸が力なく文を差し出すと、肥前守はそれを恭しく受け取り、一読するなりその厳めしい顔を歓喜に歪めた。

「おお…これは大層な慶事にございます!」

「あの甲斐の武田と縁を結ぶとは、さすがはお館様」これで我が織田の背後は盤石。京の都でさらに大きく動けましょう!」

手放しで喜ぶ肥前守の姿に、奇妙丸は冷や水を浴びせられたような心地がした。

城下の熱気も、目の前の肥前守の喜びも、全ては「織田の勝利」という大人の都合で動いている。

「…肥前守、わたしはまだ、母上のことも…」

「若」

言いかけた奇妙丸の言葉を肥前守の鋭い声が遮った。肥前守の目は、もはや教育係の優しいものではなく、織田家に仕える冷徹な武将のそれに変わっていた。

「生駒様の喪に服すお気持ちは分かります」

「されど、若はただの子供ではございませぬ。天下に手をかけんとする織田上総介の嫡男にございます」

「この縁組は、お館様が甲斐の虎を御するための大謀。若の婚姻もまた、織田の戦の一部にございます」

戦。

まだ見ぬ甲斐の幼き姫を娶ることが、刀を交えることと同じだというのか。

「お相手は松姫様。齢は七つとか」

「お館様からは、近々甲斐へ形ばかりの贈り物を届けるよう仰せが出ております」

「若、織田の嫡男として、堂々たる文を添えなされ」

「それがお館様への、そして織田の家臣一同への、何よりのお答えとなり申す」

肥前守はそう言うと、すでに用意していたであろう硯と筆を奇妙丸の前に滑らせた。

断る余地など最初から無いのだ。

父の言葉は絶対であり、周囲の大人はそれを冷酷なまでに推し進めていく。


奇妙丸は、重い筆を手に取った。

母を失った心の穴はまだ塞がらないまま、自分という存在が巨大な渦に巻き込まれたことを知った。

墨の香りが満ちる部屋で、奇妙丸は会ったこともない松という名の少女へ、最初の手紙を書き始めるしかなかった。

奇妙丸が白紙に向かい、ようやく書き上げた文は、驚くほど短く、冷ややかなものであった。

『此度、父上総介の命により、お主と夫婦の約束を交わすこととなった。輿入れの日は追って沙汰がある。恙無く過ごされよ』

感情の起伏が一切ない、まるで検分を終えた役人が出す報告書のような文面。

肥前守に言われた通り、家の事情に逆らうこともせず、さりとて見知らぬ異郷の姫にくれてやる情など一滴も持ち合わせていない少年の精一杯の「諦念」の形であった。


「…随分と、素っ気ない文ですこと」

不意に背後から、衣擦れの音と共に涼やかな声が響いた。

驚いて奇妙丸が振り返ると、そこには美しい小袖をまとった麗人が佇んでいた。

上総介の正室、帰蝶である。

「帰蝶様…。いつの間に」

「今しがた。肥前守が若君のご様子を心配しておりましたゆえ、覗きに参りました」

帰蝶は畳に座すと、奇妙丸の手からすっとその文を取り上げ、目を落とした。

彼女の端正な顔立ちから、すっと笑みが消える。

「これは文ではありませぬ。ただの指図書です」

「奇妙、お前は本当に、これを送るつもりですか」

「…はい。父上の命には従いました。肥前守も、堂々たる文を、と」

「肥前守は武将です。男の理屈しか分かりませぬ」

「わたくしが問い質しているのは、お館様の命でも、肥前守の言葉でもありません。お前自身の心です」

帰蝶は文を文机の上に叩きつけるように置いた。

その冷徹な瞳が、奇妙丸を真っ直ぐに射抜く。

「母上を亡くし、城の熱気にも馴染めず、心を閉ざしたくなるのは分かります」

「ですが、奇妙。身内を亡くして傷ついているのは、お前一人だとでも思っているのですか」

奇妙丸が驚いたように顔を上げる。

「お前が娶るその松姫とて同じ、いや、お前以上の辛い気持ちの中にいるのですよ」

「お前は、織田上総介の嫡男でしょう」

「その理不尽な渦をただ黙って受け入れ、傷ついた相手の姫にこの冷たい紙切れ一枚を突きつけ、大人の都合に流されるままの人形として生きるのですか」

帰蝶は奇妙丸の目を覗き込んだ。

「…母上。わたしは、ただ……」


「奇妙。あちらの家では、つい先年、松姫の兄である義信殿が、実の父である信玄入道によって自害に追い込まれました。それを聞いて、お前は恐ろしい国だと、他所事のように震えているのですか」

帰蝶の口元が、自嘲気味に、そして酷薄に歪んだ。

彼女の美しい瞳の奥に、かつてこの美濃の地を真っ赤に染めた、果てしない業の記憶がよみがえる。

「他国のことではありませぬ。忘れたわけではありますまい」

「このわたくしが生まれ育った斎藤の家も、実の兄が、実の父を討ち果たした、呪われた家なのです」

「戦国の大名とは、身内の血を啜り、親や兄弟の骸を踏み越えて大きくなる…。わたくしには、そういう化け物にしか見えませぬ」

「この美濃も、甲斐の武田も、何一つ変わりはしませぬ」

帰蝶はそこで一度言葉を失った。

長い沈黙の末、静かに息を吐く。

奇妙丸は息を呑んだ。

目の前にいる優しい帰蝶もまた、兄に父親を殺されたという、筆舌に尽くしがたい地獄を生き抜いてきた女性だったのだ。

自分が閉じこもっていた「母を亡くした悲しみ」など、この戦国の世の理不尽という巨大な渦の前では、あまりにも生ぬるい独りよがりに過ぎなかったのだと思い知らされる。

「昨日まで共に笑っていた兄が、実の親に殺された館の、冷え切った空気がお前に分かりますか」

「その絶望の中で、今度は身内を殺し合う化け物たちの暮らす尾張や美濃へ、道具として差し出される七つの幼き姫の恐怖が」

「お前がその大名たちの血を引く息子だからこそ、彼女は誰よりもお前を恐れているのですよ」

それは、奇妙丸の胸の奥底に硬く閉ざされていた、小さ矜持を激しく揺さぶった。

悲しみに逃げ、大人の言いなりになって冷たい文を出す。

そんな自分の姿が、ひどく無様で、情けなく思えてくる。

帰蝶は何も言わず、新しい白紙を奇妙丸の目の前に静かに置いた。

奇妙丸は、自分の書いた冷たい文を見つめ、それから新しい白紙を見つめた。

自分と同じように、いや、自分以上に血生臭い理不尽に怯え、身内の死に涙しているかもしれない少女。

ここでただ大人に流される人形にはなりたくない。

松という少女の痛みに、織田の男として真っ直ぐに向き合いたい。

そんな確かな反骨の心と覚悟が、奇妙丸の内に芽生えていた。

奇妙丸はもう一度、筆を墨に浸した。

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