永禄十一年 徳川信康(後篇)
「なりませぬ。五徳様」
「そればかりは、この弥四郎、首を縦に振るわけにはまいりませぬ」
奥御殿の裏手にある書物蔵の影。
大岡弥四郎は、眼前に立つ十歳の五徳を前に、困り果てた顔で頭を振っていた。
五徳はいつもなら若君の側に仕えているはずの弥四郎を、誰にも見つからぬよう、一人きりでこの場所に呼び出したのである。
「何が『なりませぬ』よ」
「わたくしは岡崎の美味い餅を食べに町へ降りたいと言っているの」
「お前はわたくしの願いを無視するのですか」
五徳が弥四郎を見つめる。
「番兵に見つかれば、わたくしはお役目御免、最悪の場合は手打ちでございまする」
「五徳様、何卒、ご容赦を」
弥四郎が深く頭を垂れて一歩も引かないのを見て、五徳は小さく唇を噛んだ。
強がりだけでこの誠実な大人を動かせないことを知ると、彼女はふっと肩の力を抜き、そっぽを向いた。
「…弥四郎。お願いよ、今日一日だけでよいの」
「竹千代を、この城から連れ出してあげて」
五徳の瞳には、いつものツンとした険しさは消え、一人の少年を深く案じる、切ないほどの真心が溢れている。
「五徳様… 若君を、でございまするか」
弥四郎が驚いて目を見開くと、五徳は不器用な優しさを隠すように、ぶっきらぼうに言葉を紡いだ。
「竹千代はね、毎日毎日、大人たちから『徳川の跡継ぎらしくあれ』と、朝から晩まで息の詰まるような手習いや武芸ばかり押し付けられているわ」
「わたくしの前では格好つけて笑っているけれど…本当は、今にも押し潰されそうなのよ」
「わたくしにはわかるの」
「このままだと、竹千代の心が壊れてしまうわ」
「それを止めるのは妻であるわたくしの務めよ」
「だから、竹千代を外へ連れ出して、気分転換をさせてあげたいのよ」
「竹千代を大切に思うなら、お前にも分かるはずよ」
「…お願い、わたくしに力を貸して」
五徳が膝を折ろうとする。
「五徳様…」
弥四郎は絶句した。
嫁いできたばかりの幼き妻が、若君には一切の負担をかけぬよう、自らの手で城抜けの罪を被る覚悟で、頭を下げている。
弥四郎の胸を熱いものが込み上げた。
「お待ち下され」
今にも膝をつきそうな五徳を弥四郎は慌てて止める。
弥四郎はふっと、諦めたように、しかしこれ以上ないほど温かい苦笑を漏らした。
「…やれやれ」
「五徳様にそこまで若君を想うお姿を見せられては、この弥四郎、負ける訳には参りませぬ」
「お忍びの道筋、この弥四郎が完璧に整えてご覧にいれましょう」
「ただし、弥四郎に一つ、策を講じるお時間をお与えくだされ」
「わかったわ。弥四郎にお願いするわ」
五徳が去って行った。
弥四郎はすぐさま城内の兵糧蔵の奥へと走り、一人の屈強な武将を呼び出す。
やってきたのは服部半蔵正成であった。
半蔵は岡崎城の警備責任者である。
「…弥四郎、正気か」
「もし若君と五徳様に何かあれば何とする!」
事情を聞いた半蔵は、烈火の如き威圧感で弥四郎を睨みつけた。
しかし、弥四郎は一歩も引かず、床に平伏したまま言葉を返した。
「手打ちは覚悟の上でござる」
「されど半蔵様、若君の張り詰めたお心をお救いしたいという、五徳様のあの真心を、弥四郎は無下にすることはできませぬ」
「それに若君と五徳様のお心を守るのも我らのお役目のはず」
半蔵は暫く弥四郎を睨むと、大きくため息をついた。
「弥四郎の言う事、尤もじゃ」
「若君のお心を安らかにするのも我ら家臣の務めよ」
「じゃが何ゆえ、儂に言うたのじゃ」
「黙っておれば、わからんじゃろう」
半蔵が立つように身振りする。
「万が一にも若君と五徳様に何かあれば一大事」
「死んでも死にきれませぬ」
「半蔵殿たち服部党が城下で見守れば全て安泰でございまする」
半蔵がニヤリと笑うと満足そうに言った。
「なるほどのう。儂の手先で囲めば安全じゃな」
「承知した」
「半蔵様、忝ない」
半蔵が構わんと手を振った。
「手筈はこうじゃ」
「弥四郎は若君と五徳様を埋門から連れ出すのじゃ」
「門番は儂の配下なので言うておく」
「直ぐに若君の部屋に戻り、いつものように振る舞え」
「ゆめゆめ若君が居るように芝居をせい」
「儂は配下の者を城下に伏せておく」
「何から何まで忝ない」
「若君は儂らが守ってみせようぞ」
半蔵が弥四郎の肩を叩いた。
早速半蔵は茶屋をはじめとした城下に配下を潜ませると、弥四郎に合図する。
「五徳様、こちらへ。手筈通りにございます」
「弥四郎、見事だわ」
「…ほら、竹千代、早くわたくしに引っ張られなさいよ」
町娘が身につける素朴な小袖を纏った五徳は、不格好な麻のかづきの隙間からツンと顎を突き出し、訳も分からず連れてこられた信康の手首をぐいと掴んだ。町人の子供の衣服を無理やり着せられた信康は呆然としながらも、彼女の力強い手つきに引っ張られている。
「戻ったら、父上からのお菓子を少し分けてあげるから」
五徳はそう言い残すと、信康の手をしっかりと引いて、埋門の狭い木戸をすり抜け、城外の堀へと続く険しい土手へと真っ先に足を踏み出した。
弥四郎はその小さな二人の後ろ姿を見送ると、音を立てずに門を閉め、閂をかけた。
いつもの通りに信康の部屋の前に立った。
二人は埋門を抜けてはじめて岡崎の城下町へ足を入れた。
信康は小袖の袖をまくり、五徳の手首をぎゅっと掴んで人混みをかき分けていく。
周囲は、遠江への出陣を控えて物々しい活気に満ちている。
「ほら、五徳、はぐれるなよ」
「あそこに美味い麦代餅を商う茶屋があるんだ」
「ちょっと、竹千代、歩くのが早すぎるわよ」
「誰が餅など食べたいと言ったのよ」
「岡崎に来たばかりのころ、話したら行きたいって言ってたじゃないか」
「え…竹千代が好きなんじゃないの」
「五徳が食べたそうだったから、だけど」
信康の言葉に五徳は頬を染めて俯いてしまった。
「そうだったのね…」
五徳の呟きは信康の耳には届かなかった。
「あっちの道の方が近そうだ」
「行こう、五徳」
人が多く五徳が疲れることを心配した信康は賑やかな大通りを外れ、古い土塀が続く、人通りの絶えた薄暗い路地裏へと五徳を引っ張り込んだ。
大通りの喧騒が遠ざかり、にわかに辺りが静まり返る。
ひんやりとした秋の風が、狭い路地を吹き抜けていった。
「…竹千代」
信康は五徳の手に力が入ったことがわかった。
五徳が足を止めた。
振り返った五徳の目に、静まり返った路地の奥から、凄まじい速さで突進してくる三人の凶刃が映った。
「五徳!」
咄嗟に信康が五徳と身体を入れ替える。
五徳の華奢な体を自身の胸のなかに強く抱きすくめて、己の背中を敵の刃へと晒した。
「若君、五徳様、伏せられよ!」
刃が竹千代の背を切り裂く寸前、すぐ近くの茶屋から、そして土塀の屋根から鋭い叫びが響いた。
餅を運ぶ手を止め、客のフリをかなぐり捨てて躍り出たのは、先回りしていた半蔵の配下たちであった。
彼らは身を挺して男たちの刃を刀の鞘で弾き飛ばし、一瞬にして狭い路地裏は血生臭い乱闘の場へと変じる。
「若君、五徳様!ご無事でござるか!」
路地の入り口から地面を蹴り、息を切らせて駆け込んできた半蔵は逃げ出そうとした間者の刃を握った腕を斬り飛ばした。
「すまない、半蔵…助かった」
「五徳、もう大丈夫だ。帰ろう」
信康は腕の中で怯える五徳の頭を、優しく庇うように抱きしめ続けていた。
五徳は竹千代の胸に顔を埋めたまま、その小さな肩を震わせている。
五徳は信康の胸からゆっくりと顔を上げると、涙の痕が残る目で信康をじっと見つめ、それからいつもの強がりを絞り出すように、ツンと鼻を鳴らした。
「…竹千代。私を庇うなんて、生意気よ」
「その…手を離したら承知しないんだから」
五徳はぎゅっと、竹千代の手を今度は自分から強く握りしめた。
松平信康の物語になります。
歴史を知ってる方には有名な築山事件と呼ばれる悲劇の登場人物が揃ってます。
どうかこの話を覚えておいて欲しいです。




