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狼の時代  作者: 閃紅
永禄十一年
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永禄十一年 北条三郎(後篇)

夜も更けた小田原城の一角、人通りの絶えた薄暗い廊下で、源三は歩みを緩めた。

前を行く大叔父・北条幻庵の背中に、静かに声をかける。

「幻庵様。…少々、お耳に入れたきことがございまする」

「源三殿、改まってどうなされた」

幻庵は足を止め、白髪の頭を少し傾けた。

老練な政治家としての鋭い目が、源三を見つめる。

二人は人目を忍ぶように、小さな控えの間へと入った。

「源三殿、どうした。評定の席では妙に静かであったが」

幻庵が探るように源三の顔を見る。

「…父上や兄上は、上杉謙信への働きかけを『一時的な停戦交渉』と楽観視されておられます」

「幻庵様がよく存じておる通り、上杉謙信という男は、義を何より重んじる男なれば、今川救出のための停戦に応じるだろう、と」

「源三殿の言うとおりよ。不識庵なら見過ごさぬだろう」

「であればこそ、謙信は我ら北条に絶対的な『義』を求めてくるやもしれませぬ」

「あれほど刃を交えた北条と、何の見返りもなく停戦しては、関東の諸将に示しがつきませぬ」

「源三、では不識庵は何を求める」

源三の額には、微かに汗がにじんでいた。

「北条本家の血筋を人質として差し出せ、と」

「なるほどのう。それは三郎殿か」

幻庵が静かに言う。

源三が黙る。

「いや、国増丸であろう。当主である新九郎の子。最高の人質じゃて」

「ですが、兄上は断るでしょう。そうなれば残るは…」

「なるほどのう。源三殿の悩みはわかった」

「わかったが、御屋形様に言われたら断れんぞ」

「そこで幻庵様にお頼み申す」

源三が幻庵に頭を下げる。

「早急に三郎と波殿との祝言を許していただきたく」

「三郎と波殿が幼き頃から想い合ってるのは北条家皆の知るところ、反対はありますまい」

「幻庵様の子としてしまえば免れぬやもしれませぬ」

深々と頭を下げる源三を見つめ、幻庵はゆっくりと髭を撫でた。

その脳裏には、先日、庭で楽しげに笑い合っていた三郎と波の姿が浮かんでいた。

長老としての冷徹な計算ではない。

一人の父親として、そして一族の老人として、子供たちのささやかな幸せを守りたいという強い情が胸を満たしていく。

「…顔を上げられよ、源三殿。お主の弟想いの深さ、そして先を見通す眼力、恐れ入った」

幻庵は優しく氏照の肩を叩いた。

「越後へ使者が参るには、まだ数日の時がある」

「わしも、娘の幸せは望んどる」

「その間に、儂からお館様へ願い出よう」

「幻庵さま、忝ない」

源三の顔にようやく安堵の色彩が戻った。


大評定の翌日。

小田原城の一角にある幻庵の屋敷の広間に、三郎と波は呼び出されていた。

上座には、渋い笑みを浮かべた幻庵、そしてその隣には、どこか誇らしげな顔をした源三が座っている。

ただならぬ空気を感じ、三郎と波は少し緊張した面持ちで正座した。

「三郎殿、波。急に呼び出してすまぬな」

幻庵が静かに口を開く。

その声は、いつもの厳しい講義の時とは違い、父親の慈愛に満ちていた。

「実はな…お前たち二人の祝言を、今すぐ執り行うことに決めた」

「え…」

三郎は思わず声を失い、隣の波と顔を見合わせた。

波もまた、大きな目をさらに丸くして驚いている。

「叔父上、急にどういうことにございますか。今は武田に備える時では…」

「戦が迫っているからこそ、家を固めるのだ」

「お前たちが子供の頃から想い合っていたのは、この兄が一番よく知っておる」

「幻庵様にお願いして、一刻も早く夫婦にしてくれと父上にねだったのは、この儂じゃぞ」

「兄上が…」

三郎が自分の頭に手を置いてる源三を見上げた。

「波殿三郎はおなごのような綺麗な顔をしておるが芯は強く熱い男よ」

「どうか三郎のこと、よろしく頼む」

源三が快活に笑いかけると、波の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ落ちた。

それは不安の涙ではなく、ずっと胸に秘めていた夢が、この激動の最中に叶えられた喜びの涙だった。

「はい。義兄上様。ありがとうございます」

「波は三郎様をいつまでも支えて参ります」

波は何度も頷き、畳に深く頭を下げた。


その夜。

小田原城は戦支度の喧騒とは別の、華やいだ活気に包まれていた。

三郎と波の祝言が公に執り行われることとなったのだ。

武田の裏切りという暗雲を吹き飛ばすかのように、小田原城の大広間には、絢爛豪華な御引出物と、眩いばかりの灯火が並べられた。

北条一門も皆、この祝言に列席していた。

広間の上座には、厳かな烏帽子姿の三郎と、白無垢に身を包んだ美しい波が並んで座っている。

「三郎、波殿。実によく似合っておるぞ」

並み居る一門の先頭で、源三が嬉しそうに声をかけた。

家督からは遠い末っ子だった自分たちのために、北条の総力が集まり、祝福してくれている。

三郎の胸の奥に、言葉にできない熱いものが込み上げてきた。

宴は夜更けまで続き、北条の誇る「黄備え」の将兵たちからも盛大な歓声が上がった。


宴が引き、二人きりになった幻庵の屋敷の一室で、三郎は波の華奢な肩を引き寄せた。

「波、驚かせてすまなんだ」

「じゃが、兄上や一門の皆のおかげで、ようやくお前を妻に迎えることができた」

波は三郎の胸にそっと顔を埋め、その温もりを確かめるように小さく息を吐いた。

「夢のようでございます、旦那様」

「これからどのようなことがあろうと、波はこの手を離しません」

「ああ、わたしもだ」

「小田原の海にかけて、お前を必ず幸せにする」

三郎は波の手を強く握り締めた。

波は何も言わず、その手を強く握り返した。

北条三郎の物語、一旦終わりです。

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