永禄十一年 北条三郎(前篇)
北条三郎。後の上杉景虎の話です。
彼も狼の時代の重要人物です。
幻庵の娘は実在したそうですが、名前などは創作です。
小田原城の東、海を臨む高台にある北条幻庵の屋敷の庭には、冬の柔らかな陽光が注いでいた。
潮騒の音が微かにここまで届く。
平穏そのもの、長閑けさを具現化したような小田原の午後であった。
「三郎様、また和歌の講義をさぼられましたね。父が呆れておりましたよ」
呆れたような、鈴を転がすような愛らしい声に、北条三郎は梅の木の下で寝転がっていた身体を起こした。
そこに立っていたのは、幻庵の最愛の娘、波だった。白の小袖に艶やかな髪を靡かせ、悪戯っぽく微笑んでいる十代半ばの、蕾が開きかけたような瑞々しい少女である。
「仕方がなかろう、波。幻庵叔父上の講義は長くてかなわん」
「それに、わたしは歌を詠むより、こうして波と海を眺めている方がよほど性分に合うておる」
三郎が苦笑しながら立ち上がると、波はふふ、と袖で口元を隠して笑った。
二人は幼い頃から、この小田原の地で実の兄妹のように、いや、それ以上に睦まじく育ってきた。
三郎が北条氏康の七男という、家督からは遠い気楽な身分であったことも、二人の距離を近づけている。
いつしか二人は、将来もこうして隣にいるものだと疑わなくなっていた。
「本にずるいお方。そうやって私を言いくるめるのですから」
波が遠く広がる相模の海を見つめながら、ぽつりと言った。
三郎もその視線を追う。
北条家は今、関東の覇権を確固たるものにしつつある。
戦国という乱世にあって、奇跡のように訪れている平穏であった。
「ああ、信玄入道は今、北信濃に気を取られておる」
「信玄入道と謙信が互いに噛み合っている限り、我が北条の領国が脅かされることはないさ」
「安心するがいい、波」
三郎は優しく微笑み、波の小さな手をそっと握りしめた。
波の頬が、冬の寒さとは違う理由でほんのりと赤く染まる。
「はい、三郎様。わたくし、ずっと小田原で、三郎様のお傍におりまする」
二人が握り合う手の温もりは、どこまでも温かく、永遠に続くかのように思われた。
小田原城の門へと続く街道を一騎の馬が、泥を撥ね飛ばしながら猛烈な勢いで駆けてくる。
その背に乗る男の胸当てには、風魔であることを示す、微かな刻印が刻まれていた。
翌朝北条一族が本丸奥深くの重厚な畳が敷き詰められた大広間に集った。
上座に座すのは、当代の当主・北条新九郎氏政。
その傍らには、病を患い隠居の身でありながらも、圧倒的な威厳を放つ相模の獅子、北条氏康の姿があった。
「皆、急な呼び立てによくぞ集まってくれた」
氏康の低く枯れた声が広間に響く。
視線の先には、父の緊急大号令によって各地の拠点を副将に任せ、昼夜を問わず馬を飛ばして小田原へと駆けつけた一族の面々が並んでいた。
滝山城を守る三男の北条源三氏照、鉢形城主の四男北条藤馬氏邦、韮山城の北条助五郎氏規、玉縄城の北条左衛門大夫綱成、そして小田原の政を支える老練なる大叔父・北条幻庵。北条を背負う最高首脳陣が、一堂に会していた。
「風魔、報告せよ」
氏康の促しに応ずるように広間の闇から音もなく一人の男が這い出た。
風魔の頭領、風魔小太郎である。
「甲斐の武田信玄、信濃国境へ兵糧を集め、街道の整備を進めておりまする」
「世間は皆、武田が再び越後の上杉謙信と川中島でまみえるものと見ておりまするが、我ら風魔が掴んだ真実は別にございます」
小太郎の鋭い眼光が一同を見回す。
「信濃へ向かうと見せかけた兵糧と軍勢は、夜陰に紛れ、秘密裏に南へと回されておりまする」
「武田の狙いは信濃にあらず。今川の駿河へなだれ込む算段にございます!」
「な、何じゃと!?」
新九郎が思わず身を乗り出した。
盟友であった武田の、あまりにも冷酷な裏切り。
今川には新九郎の妹である早川殿が嫁いでいる。
「信玄め、狂ったか……!我らが固く結んだ三国同盟を、踏み躙るというのか!」
左衛門大夫の眼筋が怒りで跳ねる。
今川は血を分けた実家であり、駿河で危機に瀕している早川殿は、我が娘も同然の存在であった。
「御館様、今すぐ玉縄の兵を動かさせてくだされ!今川殿と早川殿をお救いし、この地黄八幡に掛けて、信玄の首を撥ねてご覧に入れまする!」
「待て、綱成。怒りで兵は動かせぬ」
氏康が静かに、しかし有無を言わせぬ威厳で左衛門大夫を止める。
「駿河に兵を出すのは当然だ。だが、問題はその先じゃ」
「駿河が落ちれば、西は武田、北は上杉じゃ」
氏康の言葉に、広間が凍りついた。
戦国最強の二国を同時に相手にするなど、いかに北条の軍勢でも、擦り潰される未来しか見えない。
「ここは先ず今川を助ける為、和睦・停戦を」
幻庵が静かに言う。
「不識庵は自他共に認める義将」
「なれば武田の裏切りによる今川の救援までの停戦は応じるかと」
「なるほどのう。不識庵ならあるいはそうかものう」
「さすが幻庵じゃ」
氏康が膝を叩く。
「上杉への停戦・和睦の使者を送るとしよう」
「源三、武蔵への侵攻に警戒せよ」
「助五郎、綱成は今川への援兵の手配を」
氏康が一通り指示すると、集まりは終わりとなった。




