三人の旅路6
「玄庵先生を連れてきましたぞ」
店の者に引っ張られて墨衣の年老いた僧侶が不服そうな表情で入ってきた。
年老いてはいるが足取りは軽い玄庵は店の者から手提げ箱を受け取る。
「おお、玄庵、奥におる。頼むわ」
「まずは駆けつけじゃ」
玄庵は無言で胤栄からかわらけを受け取ると、一気に呑み干した。
新次郎が立ち上がると玄庵に頭を下げる。
少し表情を柔らかくすると、奥の間に寝かされている景狼の元へと向かった。
玲がいる反対側の枕元に座ると景狼を暫く見回す。
「若君は大事ないでしょうか」
玲が泣きそうな顔で玄庵を見る。
玄庵は無言で自分の額に手を当てた後、景狼の額に手を当てる。
手首を取って脈を取る。
最後に瞼を開き、確認すると、一つ頷いた。
玲の方を向くと、優しく言った。
「病ではござらん。ちと聞かせてくだされ」
玲が嬉しそうに頭を下げた。
「この者は普段病などしておらんか」
「若君は一度も病などしておりませぬ」
「さよか。お主は若君と呼んでおったが、この者はお主の主人か」
「私の…兄です。みなが昔から若君と呼んでおりましたので」
「さよか。何処の家の者か。倒れた理由がわかるやもしれん」
「…黒峰でございます」
玲は暫く考えた後、応えた。
「黒峰…はて聞いたことござらんな。どこにお住まいか」
「霧生でございます」
「霧生…おお、伊勢の山奥かのう」
玲が頷く。
「この者は霧生でどのような暮らしを」
「毎日のように山で狼と暮らしております」
「家に戻るのも二日後になることがございます」
「なるほどのう。南都へは初瀬街道を通ってかのう」
「いえ。途中柳生様に寄ってです」
「なんと!地獄谷を通ってかえ。それは難儀なことじゃ」
「いえ。山道は慣れておりましたゆえ」
「この者が倒れらてた理由じゃがいくつかある」
「まずは疲れじゃ」
「若君は山で二日三日戻らぬこともございます。」
「それでも疲れたなどと申したことは一度もございませぬ。」
「それでも身は知らず知らず疲れるものじゃ」
「もう一つが土地が変わったことじゃ」
「土地…ですか」
「所によって食べ物、水、陽気、そして人が違う」
「そこで食べていた物、水は昔からそこで慣れている物じゃ」
「陽気も北へ行けば寒くなり、南に行けば暑くなる」
「その変わりに身が慣れず、疲れがどっと出る者もおる」
「この者も、その一人であろう」
「丈夫な身ゆえ、少し休めば目を覚ますじゃろう」
「お医者様、ありがとうございます」
玲が布袋を取り出すと、玄庵に捧げ渡した。
「これは?」
玄庵が中を見ると銭が入っていた。
「これは受け取れんわい。薬も何も使っておらん。じゃから受け取れん」
玄庵が布袋を返した。
「老僧はいつも受け取っておらん。じゃからよいのじゃ」
「若君を助けて下さりました」
「この者は己の力で助かるのじゃ。老僧は診ただけじゃ」
「母上がただで受けるなと…」
「仕方ないのう…では一杯馳走してくれんかのう」
「はい。主様!」
玲は嬉しそうに立ち上がると店の主の元へ向かった。
「主様、お医者様にこれでご馳走お願いします」
「あと若君を助けてくださった御礼も、この中からお願いします」
玲の剣幕に井筒屋の主人が押されていると、胤栄が笑いながら言った。
「貰っておけ。貰っておけ」
「ただし取りすぎるなよ。なにせこの二方は天下の柳生殿の恩人の縁の方よ」
胤栄が声の調子を変えた。
「柳生様…」
主人が受け取った銭袋を落としそうになる。
「柳生新左衛門は拙僧の兄弟弟子よ」
胤栄が笑った。
主人が袋から少しだけ取り出すと、袋を玲に返した。
「玄庵、こっちへ来い。玲殿もこちらへ」
胤栄の言葉通りに、近くに玄庵が座る。
玲も一度景狼の方を見た後で玄庵の隣に座った。
玄庵の前にかわらけが置かれると胤栄が直ぐに注ぐ。
玄庵が美味そうに呑み干す。
「今はこれじゃのう。南都諸白が一番じゃ」
「拙者も先ほどはじめて呑みましたが、実に呑みやすくて」
新次郎もそう言うと自分のかわらけに注いだ。
「新次郎様まで…わたしも少し貰っても」
玲が胤栄の少し赤らんだ顔を見る。
「お主、酒は飲んだことあるのか」
「いえ。ありませぬ。家では誰も飲みませぬゆえ」
「はじめてか…では少しだけぞ」
胤栄が新しいかわらけに少しだけ注ぐと玲に渡した。
玲がかわらけを捧げ、少し白っぽい液体を眺める。
周りで心配そうに玲を見ている。
玲は照れくさそうにかわらけの諸白に恐る恐る口をつけた。
軽く噎せた後、少し目を閉じる。
「なんだか不思議な感じです。甘くて少し苦い」
「でも美味しいです」
「おお、そうか。もう一ついくかのう」
胤栄が嬉しそうに玲のかわらけに注ごうとするのを玄庵が遮る。
「最初はほどほどに。少しづつ慣れてゆくのじゃ」
「酒は毒になることもある。まずは少しづつ慣れていくことこそ、寛容じゃ」
「玄庵様、わかりました」
玲は代わりに湯気が上る熱い茶を飲む。
「玄庵様、胤栄様。教えてほしいことがございます」
玲が少し悩んだ後で口を開いた。
「何じゃ」
「玄庵様と胤栄様は違うお寺なのですよね」
「そうだな。拙僧は宝蔵院。興福寺の者よ」
胤栄が言う。
新次郎が慌てて太刀に手を伸ばすが、胤栄の一括に手を止めた。
「待たれい!」
「確かに拙僧は興福寺よ。じゃから弾正の敵ではあるが、柳生の敵では無い」
「拙僧は新左衛門の兄弟弟子ぞ」
「そんな了見じゃ南都では生き残れんぞ」
「何ゆえ弾正の城があのようなところにあって拙僧がここで呑めるのか考えてみることじゃ」
「人を敵味方で分け始めると、助けられる命まで見えなくなるぞ」
玄庵が静かに繋ぐ。
「玄庵様のお寺は」
玲が空気を変えるかのように明るく聞いた。
「老僧は十輪院じゃ」
玄庵が言う。
「お二方のお寺は違うのですか」
「拙僧は寺を守っておる、玄庵は人を守っておる」
「お寺は何処から守るのでしょう」
「武士や野盗、山賊様々じゃ」
「何故狙われるのですか」
「寺には金子はある、田畑もある、宝もある。それが狙われるのじゃ」
「お寺が豊かなのはどうしてでしょうか」
「民がお布施をくださり、寺を支えてくださる」
「代わりに寺は民の安寧を祈ったり、様々な事を教えるのじゃ」
「玄庵の医術もその一つよ」
「では胤栄様のお寺にも多くのお医者様が」
「おるとも。玄庵もその一人よ」
「玄庵様は十輪院では」
「玄庵は元は拙僧と同じ興福寺の者よ。三会に合格した程よ」
「三会?」
「つまり凄く頭のよい位の高い僧という事じゃ」
「そんな玄庵様が何ゆえ」
「確かに老僧は興福寺におった。老僧は学問が好きでな。およそ学べぬことは無かった」
「長う寺におるうちにな、寺は救済と学問の場だけじゃないことがわかってしもうた」
「老僧は人を診るのが好きじゃ。それで人を助けられるなら御仏の御心にも叶おう」
「じゃが寺は人を殺すこともする。それが老僧には耐えられなんだ」
「そうなのですね」
玲がしみじみと言った。
「じゃがのう。寺がそうじゃから、その寺の者がみなそうだと思うのは誤りじゃ」
玄庵が最後に付け足した。
「そこの胤栄も、民に己の身の守り方を教えておる」
「寺は寺、僧は僧じゃ」
胤栄が照れくさそうに酒を呷った。




