三人の旅路5
奈良の町に立った景狼を待っていたものは数千人を超える人の流れだった。
右を向いても左を向いても、見たこともない数の人間が波のように向こうから押し寄せて来る。
何百人もの話し声、商人の大声、荷車がパチパチと石を踏む音、犬の吠え声、寺の鐘の音。
それらが混ざり合って、まるで一つの巨大な生き物が地鳴りを立てているかのように景狼の耳を直撃する。
瓦屋根と木の格子戸でできた家の壁が、道の両側にどこまでも延々と続いていた。
景狼が知らずのうちに膝をついていた。
呼吸が浅くなる。
俯く景狼の汗が頬を伝い、地面へぽたりと落ちる。
人がおる。
人がおる。
皆違う。
皆、気持ち悪い。
どこを向いても気持ち悪いのじゃ。
「怖い…食われるのじゃ…」
玲も周りの光景に驚いていたが、景狼が膝をつくと寄って行った。
「若君、お気を確かに」
玲が景狼の頭を持ち上げる。
景狼の顔が蒼白になっていた。
「景狼殿はどうされたのじゃ」
新次郎も今まで見たことの無い景狼の様子に驚いている。
「若君はこれだけの人を見たのが初めてでございます」
玲が新次郎の方を向く。
「拙者も初めてじゃが」
「わたしも初めてですが…」
玲と新次郎が話しているうちに景狼が突っ伏した。
「若君!」
「景狼殿!」
二人が景狼身体を揺するが反応が無い。
そのうちに周りが気付き、三人を遠巻きに見ている人の群れが出来ていた。
「誰か、医者を頼む!」
新次郎が見ている群衆に声を掛けるが、お互いの顔を見合わせるだけで動こうとしない。
一人の小さい少女を連れた男が群れの中から出てきて、三人の前に来た。
「どうされたのじゃ」
泣きそうな玲の顔を見て優しく問いかける。
少女が倒れた景狼をじっと見ている。
「若君が…突然…倒れて…」
玲が途切れ途切れに応える。
景狼の顔色は見る見る白くなっていた。
「これはいかん」
男が人の群れに向かって言う。
「玄庵様を呼んできてくれ」
男がそう言っても誰も動かなかった。
「このままじゃ死んでしまうぞ」
男の言葉に玲の嗚咽が大きくなる。
「拙者は柳生新次郎と申す。この者は拙者の知り合いじゃ」
「お頼み申す」
新次郎が頭を下げる。
「何っ、柳生じゃと!」
群れの中から墨の法衣を着た僧侶が人を押し退けて現れた。
「胤栄様!」
男が僧侶に膝をつく。
「こちらの方が突然倒れらてたようで」
「顔が白くて」
僧侶がしゃがみ込み、景狼の顔を見たあと、首筋を触る。
「冷たいの…」
僧侶は立ち上がると新次郎に向いた。
「お主が柳生か」
「如何にも。柳生新次郎と申す」
「ほう。拙僧は胤栄と申す。近くに馴染みの店がある」
「そこへ先ずは運ぶとしよう」
「玄庵もそこに呼ぶ」
「井筒屋から板を借りてきてくれ」
男は胤栄からそう頼まれると頷き駆け出した。
少女は泣いている玲の頭を撫でている。
「大丈夫じゃ。しっかりせい」
胤栄が玲の肩を叩く。
玲が涙を拭いながら頷いた。
男が板を借りてくると、景狼を板の上に寝転がせた。
新次郎、胤栄、男の三人ですぐ近くの飯屋「井筒屋」へ運び入れた。
軒先に杉玉を飾った煤けた土壁の店に景狼を乗せた板が運び込まれた。
『井筒屋』の看板が店の前に置かれている。
店に入ると店の主人が景狼を奥に運ぶように指示した。
「おい、玄庵を連れて参れ。今は十輪院におるはずじゃ」
胤栄が店の者に頼んだ。
「それと諸白と、何か腹に入る物も頼む」
胤栄は入口近くの卓に座ると、店の主人を呼んだ。
玲は奥の間について行った。
「新次郎殿、ここに座られよ」
胤栄の言葉に従い向いの席に座った。
炭火の匂いが新次郎の鼻を擽る。
味噌を焼く香ばしい匂いが店内を満たす。
凍えた身体が温まるのが感じられた。
二人が席に座ると、店の主人が卓に徳利とかわらけを二人の前に置くと、とって返して木の箸と茹でた大根の入った器と金山寺味噌が載った木皿を置いて行く。
「まずは」
胤栄がかわらけを新次郎に渡すと徳利から透明な酒を注いだ。
「拙者は酒が苦手でして」
胤栄が自分のかわらけにも注ぐと目の前に掲げる。
「飲んでみよ、近頃評判の諸白じゃ」
胤栄が一息に呑み干す。
新次郎が胤栄を見ながら、恐る恐る口を付けた。
「こんな酒は初めてでござる。まるで自然と染み込んでいくようじゃ」
新次郎は一気に呑み干した。
「そうじゃろう。諸白じゃが、馥郁たる香もよく、飲み過ぎてしまうわい」
胤栄が新次郎に注ぐと、自らに注いだ。
「拙僧は胤栄と申す。宝蔵院の坊主よ」
「拙者は柳生新次郎と申す。槍の宝蔵院殿か」
「如何にも。多少なりとも槍の心得はある」
「伊勢守先生の元で新左衛門殿、疋田殿とも学んだものじゃ」
「新左衛門殿は息災か」
胤栄が大根に味噌をつけて頬張る。
「父は松永様の勢力が伸び、忙しくしておられます」
「さもありなん。宝蔵院とて同じよ」
「して、南都には何ゆえ?」
「景狼殿と玲殿の付き添いで」
「ほう。あの倒れた若者か。あの御仁はどういうお方か」
「伊賀の霧生から来られた由。父の恩人の子ということで柳生に来られた」
「霧生…それは随分山奥から」
胤栄が何杯目かの酒を口にしながら呟いた。
その時玄庵が店の者に引っ張られながら到着した。




