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なぜ出て行った……。冷静さを装っているが、仮面の下では焦りが生じている。あの男だけではない。ランドレン夫人たちもいる。悪い結果を避けるためには、早々にここを離れた方がいい。
だが、それでは来た意味がない。また、帰るためには喫茶店を通る必要がある。男の正体が分からない以上、鉢合わせすることは避けたい。
エリックも賭博場の雰囲気に合わせ楽しそうにしていたが、その笑みは硬く見える。
不安を感じていた時間はどのくらいだっただろうか。どうすればいいか考えていると、店側の方から若い男が入ってきたのが分かった。私たちをここまで案内した男だ。彼はランドレン夫人のいる方に向かい、耳元で何かを囁いた。そして夫人はテルヌ伯爵に話しかけ、一緒に歩き出した。若い男も後を追うように付いていき、三人は扉の外へと消えた。
「エリック。どう思いますか?」
偶然なら問題ないが……そうとは思えない。先ほどこちらを見ていた文官風の男は、私の正体に気づいたように見えた。もし、彼が若い男に指示したのだとすれば、意図はどちらだ? 助けてくれたのか、それとも……。
「二人が出て行った理由が分からないので、偶然だと考えない方が良いと思います」
エリックの声も重い。
私たちがどう行動するべきか話し合いたかったが、ここで深刻そうな顔をするわけにはいかない。
まずはエステルたちがいるのかどうかを確認しようと、歩きだそうとした時だった。「一緒にやらないか?」と見知らぬ人物から声をかけられた。私たちが立っているだけだったので誘ったのか、金を巻き上げやすそうだと思ったのか。エリックが相手に不快感を与えないよう、明るく丁重な言葉遣いで断った。
少し奥に進んだ後、エリックの手が私の腕にぶつかった。
「失礼しました」
もちろんこれは、周りに気づかれず私に知らせるためだと分かっている。エステルは、一番奥のテーブルに座っていた。おそらくその横に座っている男がアラン、そして後ろに立っている、ひょろっとした若者がチボーだろうと当たりをつけた。ダミアンから聞いていた偽名を使って呼びかける。
「リリー嬢。こちらでお会いできるとは、思っておりませんでしたよ」
予告なしでの登場でも、勘の良い彼女ならば対応できるはずだ。
「あら、フィリップさん。あなたも遊びにいらっしゃったのですか?」
「ええ。楽しい場所があると伺いましたので」
あえてフィリップと、その黒幕であろう人物の名で私を呼んだエステル。フィリップという名は珍しくはないが……案の定、シェール伯爵の息子のアランは一瞬驚いたように固まった。そして、観察するような視線を私の顔に向けてきた。
アランはフィリップの名に反応したのか、それとも私を知っているのか。
ロイの思案を断つように、アランは先ほどの戸惑いを見せず、普通の調子で言った。
「フィリップさん、初めまして。俺はアラン。二人は知り合いなの?」
「ええ。わたくしたちの両親は、昔から仕事での付き合いがありますの」
打ち合わせをしていないので、すでに話した内容に矛盾が出ないように、エステルが返した。周りの者たちは、仕事――というのがまさか国政だとは思いつかないだろう。
「そうなんだ。フィリップさんもやってみない?」
調査のためだ、断る理由もない。
「ええ、ぜひ。初めてですので、お手柔らかに願います」
「フィリップさん、すっかり初心者かと勘違いさせられましたよ……強いじゃないですか」
「おい、嘘だったのか!」
アランや周りの者たちに言われるがまま金を出し、勝負を開始したが……。もちろん私は金銭を持ち歩く習慣などなかったので、エリックに借りたのだが、初めてだと言ったはずの私が賭けるにしては相当な額で、鴨にされていると分かってはいた。
それにもかかわらず私が一人勝ちしたので、他の参加者が不満を抑えきれずに言ってきたのだ。さすがに貴族や平民でも裕福な者の集まりなので、殴られたりすることはないが。
「嘘ではございませんよ。この国で禁止されているはずの賭博など、したことがないのは当たり前でしょう?」
一瞬にして静まり返った。皆が賭博を違法だと理解していながら口にしないのは、暗黙の了解になっているはずだ。私の唐突な発言にチボーは固まっているし、エリックとエステルでさえ表情には出していなくても、驚いているのが分かった。
「フィリップさん、急にどうしたのかい? これは仲間内だけでやっている、ただの遊びだよ」
場を取り繕うように、苦笑しながらアランが言った。
「知り合い同士で遊びだとしても、金銭を賭けることは禁じられていると思いますが」
「そうだけど……大目に見てよ。フィリップさんだって分かっていてここに来たんでしょ?」
私もすでに同罪だ――ということを言いたいのだろう。
「ええ。その日の食事にも困る貧困層が存在する王都で、片やこうして有り余る金で娯楽に興じているだなんて、実に滑稽ではありますが」
アランが大きくため息をついた。
もちろん私はあえて言っている。立場上、頻繁に王都とヴァルリナを往復することはできない。多少挑発してでも相手を動かす必要がある。黒幕を暴く手がかりになると、期待してのことだ。
「これ以上は何も言わないほうが良いんじゃない? 場合によってはフィリップさんも含め、みんなが困ることになると思うけど」
みんなというのはここにいる人ではなく、私の周りの人間だろう。黒幕が王弟なら、賭博が世間に露見したところで握りつぶせる――という安心感からか、自分たちのことは心配していないようだ。これ以上何か言えば、圧力をかけることもできると言葉に含めてきた。
「ふふ、フィリップさんったら。わたくしと一緒なので、つい普段の感じになってしまったのね」
「ええ、正直な感想を言ってしまいました。世間知らずに育ったもので……気を悪くされたらすみません」
そう言ってから先ほど得た分を全て卓上に戻し、次の勝負をする意思を示した。周りの者たちは私の発言に苛立ちを感じているようだったが、この場で喧嘩するわけにもいかないだろう。
「さっきのはまぐれってこともあるしな。取り返してやるよ」
私から金を巻き上げてうさを晴らすとばかりに、自分たちも賭け金を置いた。
「もう少し続けたいところではありますが……これ以上はみなさんに申し訳ないので、今夜はこれで失礼いたします」
何回かの対戦の後、勝ち得た金をエリックに渡しながら言った。物心ついた時から貴公子の仮面を被り続けている私にとって、この場において最適な——今すぐに殴りかかられはしないが、いけ好かない要注意人物を演じるのは容易い。
「リリー嬢。お送りしますので、一緒に帰りましょう」
「フィリップさん。リリー嬢は俺が案内していたんだ。俺の了解もなしに連れ出すのは、どうかと思うけど?」
「――では、リリー嬢に決めて……そういえば、先ほどから喉が乾いておりまして。十分にいただいたことですし、ごちそういたしますよ。アランさんもご一緒にいかがですか?」
「アランさん。わたくし今夜はあまりあなたとお話ができなかったので、寂しいわ。もう少し一緒にいたいのだけど……よろしいかしら?」
私の言い方では不足だと感じたのだろう。蜂蜜色の瞳を潤ませ、甘えを含んだ声でお願いしたエステル。ダミアンがもしこの場にいたら、取り乱して潜入が台無しになりそうなくらいだ。もちろん私に向けて見せてくれたことも、残念ながら一度もない。
「ああ、リリー嬢に言われたのなら断れないよな。付き合うよ」
アランと一緒に店を出たためか、周囲から睨まれることはあっても、直接何かを言われることはなかった。奥のテーブルにいたことから、賭博場での彼の立場は上のようだ。
店内に私がいないことに気づいて、誘拐されたとダミアンが勘違いでもしたら大変なことになる。幸い、馬車を停めてある道は店の近くだ。御者に扮したダミアンは外を歩く私の姿を認めると、わずかに目を細めた。そのまま私たちが戻ってくるのを待つことだろう。




