樹の虜
ミナミのノミとダニ予防の為に動物病院に来た。待合室がいつもより混んでいるし、更木先生がいつもいる診察室は笑い声もなく静かだ。動物達も落ち着かない様子で、飼い主が1度外に連れていったりしている。漸く名前を呼ばれ診察室に入ると、疲労が溜まってきた笑顔を見せる春野先生がいた。
「凄い混んでますね」
「うん。更木先生が手術に入っちゃって、診察は僕。ごめんね待たせちゃって」
「いいえ!こちらこそ大変な時に……」
「ううん。人間も動物も病気も怪我も嫌だろうし、こうして顔を見せてもらえる方が安心するよ」
今は健康だけど、いつどこで何かあるか分からない。それは先日発覚した樹のこともそうだし、手術をしている動物とその飼い主にも言える。
「……無事に手術が終わるように祈っておきますね。春野先生も無理しないで下さいね。あ、更木先生もです」
「うん。戻ったら更木先生にも伝えておくよ。ありがとう」
ミナミの頭を撫で、話ながらでも滞りなく診察や治療を進めていく春野先生は、いつも通り試供品をくれて笑ってしまった。
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沙世と勇気の切り替えは早いのか、聞いた翌日にはわりとすんなりと千紘の話を受け入れていた。そんな高校生達が今気になるのは、素はどっちなのか?だ。今日は探偵業をしているのは事前にチェック済み。そして3人ともアルバイトも予定もない。そんな放課後に出来るのは、街に繰り出し尾行をすること。まあ、流石にそこまでは行かないけれど、放課後はどこかで遊ぼうかとなった。
そして放課後。適当に街をブラブラしていると、さっきの人格好良くなかった?とすれ違う人が言っていた。3人で顔を見合わせ少し足早に進む。信号の先にいたのは黒服姿の樹。格好良さ3割増しだ。
「ホスト顔負けじゃん」
「うん。ね、菜緒?」
「………うん」
今日は年齢制限付きだから菜緒は無理だと言われていた。あの格好から見てもそれはどうやら本当のようだ。女性に声を掛けられた樹の傍に気がつかれないように寄る。
「ねぇ、これから遊ぼう?」
「これから仕事だ」
「お仕事何してるの」
「お前のように日頃のストレス溜めてる人を酒と愚痴で発散させるホストの手伝い」
「手伝いだけ?お兄さんがホストになってよ。そうしたら行くのに」
樹の腕を取り甘えた仕草をする女性の行動に、免疫がない3人は赤面していく。悲鳴をあげそうな口を自分自身で押さえて平常心を保とうとする。
「俺は一対一で仲を深めるタイプだ。店で取り合いになるのは避けたいだろ?」
「えぇ、じゃあ一対一でなら会ってくれるの?」
「お前、それ付けといてよく言えるな」
樹が示しているのが何なのかは3人から見えないが、話の流れからして指輪のようだ。
「バレた?たまには遊びたくて」
「なら健全な遊びでもしてろ。後から傷付くのはお前とその指輪の相手だ」
「なに、説教?」
「知らない女に説教するほど優しくはないな。悪い男に捕まらないように忠告しただけだ」
忠告でも優しいのには変わりはない。隣にいる沙世は格好良いと何度も呟いているし、勇気に至ってはキラキラとした瞳を樹に向けている。
ある意味樹は人を虜にする悪い男のような気がしてならない。あれが千紘なのだと理解していると、脳が正常に動かなくなりそうで、あれは樹さんあれは樹さん……と頭の中で繰り返す。
「帰るならエスコートしてやろうか?」
少しだけ意地悪な、でも心配してそうな声色に隣の2人は完全に堕ちた。
樹の行動はそれだけに止まらず、女性から話を引き出していく。話の促し方もスマートで、女性は徐々に旦那さんの惚気や愚痴を話し出す。
「ふーん、お前随分旦那に惚れてるんだな」
「そりゃそうよ。だって好きで結婚したんだもの」
「それ旦那に話してんのか?」
「……」
「たまには素直になってやれ。きっと待ってると思うぞ」
「そうかしら。……でも、たまには良いかもね」
「ああ、好物の1つでも用意してりゃ、旦那は泣き出すんじゃないか?」
「あの人泣き虫だからあり得そう。……ふふ、何か久々にワクワクしてきたわ」
「そりゃ良かったな。どうせなら電話して迎えに来てもらえよ」
「ええ、そうする。ありがと」
「じゃあな」
ヒールの音を鳴らして去っていく女性が最終的にどうしたかは分からない。けれど、任務完了だなと呟いた樹の一人言に、思惑通り上手くいったようだと予想がつく。
それにしても一体どんな内容だったのか。帰ったら聞けると良いな。そんは風に思いつつ、樹がいなくなった後もまた、3人ではしゃいでいった。
***
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あの日の捜査は不貞調査。でも今までと違うのは、不倫しそうだったら妻を止めて未遂にしてほしいと願っての事だったらしい。
そこで周囲の協力を得ながら、女性が話しかけてくるように仕向け見事未遂に終わったそうだ。
「結局それって相手を信じてて、尚且つ自分に愛情が向けられてるって分かってるから出来たことよね」
「そうだね。女性も反省してたからこれから良い方向へ進むと良いと思うんだけど……」
千紘がそこで言葉を切る。そして店内の一角を見つめる。そこにいるのは沙世と勇気。あれから時間とお金の余裕があればこうして喫茶店に通い、樹に変わるのを待ち望んでいるらしい。
「樹さんになって欲しいみたいです」
「なんで?」
「仕事してた樹に惚れ込んだらしいわよ」
菜緒と美樹に戸惑った表情を向けていた千紘は、その言葉に憮然とした表情を見せる。カチャカチャと食器を片付ける音がいつもより響く。
「あれだって僕なのに……なんか納得いかない……」
「そうなんですか?」
事情を知っている2人が千紘演じる樹に惚れ込むのは、近くにいる人からも別人のように見えているということだ。それは喜ばしいことなのでは?と思ってしまう。
「あはっ、もしかして樹に嫉妬してるの?」
「えっ?」
口元を押さえクスクスと笑う美樹の言葉にギョッとしてしまう。まさかそんなわけ……と千紘を見ると、パチリと目が合う。目が合った瞬間視線を逸らす千紘は若干照れくさそうだ。
「菜緒ちゃんは、樹と千紘どっちが好き?」
「えっ!?」
「姉さん……菜緒ちゃん。変な質問には答えなくて大丈夫だからね」
まさかそんな話題を出されるとは思わず間の抜けた声を出す。千紘が止めるものも、美樹には効かないようだ。期待の眼差しを向けられ、尚且つがっしりと肩を掴まれてしまうと逃げ出せそうにない。
「それは……」
「それは?」
「どっちも好きですよ。あ、でも樹さんの自信満々な態度はたまに腹立たしい時もありますね!」
「千紘は?」
「うーん……距離が近い時は恥ずかしいというか……優しいから樹さんとのギャップが激しくて困るというか……」
悩んだ末に答えを出すと美樹はまたクスクスと笑いを溢す。千紘は恥ずかしそうに口元を押さえた。
「ごめん……」
「え?何がですか?」
「距離とか、ギャップとか」
まさか謝られるとは思わずワタワタと手を振る。
「千紘さんと樹さんの態度、嫌とかじゃないですから!」
「そ、そう?なら良かった……かな」
ホッとしたように笑う千紘に頷き、手を上げて呼んでいる沙世と勇気の元に向かう。
その後ろ姿を千紘と美樹は嬉しそうに眺めていた。




