新たな若葉
ぼやけた視界に、人の顔が映る。朱落葉は親しい友の顔を期待したが、その筈もなかった。
「カエデ」
老人の声に、朱落葉は固く握った拳を示し、開いた。そこにはランタンの灯りを鈍く反射する黒い塊があって、薄く甘い香りを放っていた。眉をひそめた老人が、恐る々々鼻を近付ける。
「砂糖漬けか。しかし、よく戻った。立てるか」
頷く朱落葉に老人が肩を貸す。朱落葉は辺りを見回し、ほんの少し前まで一緒だった獣を探した。
芥子色の獣。朱落葉は小さな獣としてその背に乗り、色々の騒ぎの中を駆け逃げて来た。でも、何処まで一緒で、何処から一緒でなくなったのかは思い出せなかった。
「どうしたね」
朱落葉はそれに首を振って答え、老人に抱えられるようにして地下へ下りて行った。
朱落葉が泉へ手を浸すと、黒い塊は滑るように手の平を離れ、やがて溶けて消えた。
長い時が過ぎた。泉はこれといって変わりなく、そこに横たわる少女にも変化はないように思われた。しかし徐々に、木肌のように荒くくすんだ体がその色を薄くしているようにも見えた。それはやがて確かになり、髪の暗緑色も薄く影を引き始めた。
固く閉じられていた瞼が開く。朱落葉は身を乗り出して名を呼んだが、泉の中では低く濁って響くだけだった。瞼は再び閉じられた。朱落葉が懇願するように老人を見る。
「大丈夫だ。毒は風見鶏が引き上げ、その根源も解き放れつつある。あの──」
老人が泉から伸びる幹を指し示す。
「──幹を見なさい」
天井を突く巨木の幹。その中腹に、小鳥の嘴のような突起が膨らみつつある。目に見えて伸びる嘴はやがて小枝となり、先端に青い芽を出した。若葉だ。
「染みがなくなってる」
朱落葉の言葉に、老人が答える。
「あれは人の未練だ。未練は落ち葉となってここに降る。虫やミミズが長い時間を掛けて葉の主を癒すわけだが──」
老人が泉の底の少女を見る。
「──不用意に触れれば、その者は未練に呑まれてしまう。この子のようにだ」
──あれが全部?
朱落葉は木枯らしに吹き荒らされる葉を思い浮かべた。それら全てが人の未練だとすれば、一体何がそれだけの想いを生むのだろうと。
──下僕よ、共に行こう。
囁きと共に何かが飛び抜け、幹へ取り付く。
見覚えのある芥子色の獣。若葉を咥えたその獣は、再び飛び退き、走り去る。それを追うように振り返った朱落葉は、薄く細められた瞳がこちらを振り返るのを見た。
新たな若葉─おわり




