朱い鼠
榴散弾が炸裂して雲を曳き、それに貫かれた兵達が花弁の開くように纏まって倒れた。しかしあらかじめ損害を加味した兵の群れは怯みもせずに突撃を続ける。
乾いた銃声が連続し、鉄条網を越えた辺りで兵が倒れて行く。遂に機関銃が撃ち始めたのだ。もはやこの距離では塹壕に敵の頭が見え、盛んに小銃を撃つのもわかった。前、隣、そして背後から悲鳴や怒号が響いても、兵達は感情のないように駆け足を乱さない。
段々と敵の姿が近付き、銃声もより確かに、鮮明に聞こえてくる。前を行く兵が倒れても、後に幾らでも兵が続き、糧を求める粘菌のように脈打ってなだれ込んだ。
塹壕へ飛び込もうとした兵が胸を銃剣に突かれ、骨に挟まった小銃ごと転がり込む。小銃を手放した敵兵は手持ち無沙汰に周囲を見回し、丁度捻った首の側面を銃剣で裂かれた。その飛沫を目に受けた彼の戦友は、両手で顔を覆いながら叫び、膝を着いた処で背中から胸を撃ち抜かれた。
雨脚が強くなり、敵味方共泥まみれになりつつある。
中隊、そして恐らく連隊は、敵第一線に取り付いた。彼らは水路へ流れ込んだ濁流のようになって壕を突き進み、ジグザクの角で激しく飛沫を上げた。小銃は棍棒や槍となって行く先を突き崩し、それそのものが憎悪の塊のように荒れ狂った。
小銃が続けて火を吹き、敵兵が崩れ落ちる。そこに兵が群がり、まだ息のある相手を銃床で滅茶苦茶に打った。マテューはそれに構わず、息を荒げる兵の横を一群の兵と駆け抜けた。塹壕の角に辿りつき、胸壁を背に敵を待ち受ける。
銃声、爆音、怒号。その中に背嚢かポーチの揺れる響きが混じり、近付いてくるのがわかる。不注意にも駆け出てきた敵兵が小銃の集中射撃に倒れ、続いたもう一人は銃床を顎に喰らった。超現実の怪物のように顎を外した彼は、マテュー達を見て目を瞬かせた。
唸るような悲鳴を上げて転がった敵兵に、幾つもの銃床が突き下ろされる。皮が剥げ、筋肉が削ぎ落とされて白い骨が明らかになる。悲鳴はより大きくなり、少年のそれのように甲高く鳴いた。兵達が銃床を引く。
少年のように鳴いた彼は、血を詰まらせているのか喉を震わせるだけだった。目は潰されて赤黒く染まり、唇は破れて歯が剥き出しになっている。マテューは小銃を構え、引き金を引いた。
──まったく、まともじゃねえ。
銃弾は額を貫き、血が吹く前に耳から抜け出た。割れた頭蓋が皮膚を裂き、赤黒い血が漏れる。それを見て後ずさりした兵の足元に、鈍い音を発しながら何かが転がり込んだ。
一見ヘアブラシにも見えるそれは、炸薬を詰めた缶と、そこから延びる摩擦信管を木の柄に括り付けた小型爆雷であり、既に細く煙を曳いていた。兵達が短い悲鳴と共に散る中、マテューは遮蔽物を探し、角の反対側へ飛び込む。爆音と共に発した爆圧が彼を地面へ押し付け、灼熱する炎が壕を覆った。
──サン・トレノ。
マテューが心で祈り、顔を上げる。一瞬ぼやけた視界に白いものが見え、焦点が戻ると銃剣の刃先であった。時間はひどく緩やかに流れているように思われたが一瞬で、刃先から銃身、そしてその先で見下ろす角付き兜へと辿るマテューの視線は、兜の下で見開かれた目と交錯した。
──待て。
口を開く間もなく、銃剣が僅かに後退する。淡い煙が銃口に広がり、すぐに霧散した。背中に焼けた棒が刺さって肉を抉る。撃たれたのだ。
マテューが低く呻きを上げる。ボルトハンドルが引かれ、薬莢が落ちる。マテューは止めを刺そうとする瞳を睨みつけながら、背嚢が邪魔で銃剣を使えないのだろうと、冷たい笑みを浮かべた。低く鋭い鳴き声が響く。
マテューの頭上を、黄色い塊が飛び越えた。
頭上を飛び過ぎたそれは、敵兵の目前で大きく体を捻り、朱い玉を打ち出した。玉はそのまま顔面に直撃し、離れない。敵兵が悲鳴を上げ、胸壁に体をぶつけ回った。
──なんだ。
マテューが思わず眉をひそめる。しかしすぐにすべきことを思い出し、放り出した小銃へ手を伸ばした。右の背中がひどく痛み、代わりに左の肩で台尻を支える。狙いを付ける必要は殆どなく、ただ銃口を少し上げてやれば済んだ。引き金を引く。
倒れた敵兵から離れた朱い玉が、跳ねるようにマテューへ近付く。
毛むくじゃらの小さい獣。それはどうみても鼠の姿形をしていたが、朱い毛色には覚えがなかった。
朱い鼠が立ち上がり、鋭く鳴く。すると背中に何かが飛び乗り、背嚢を揺らした。伸ばした手に心地良い毛並みが触れ、背を伸ばす。やさしい轟きが聞こえ、マテューが顔を向けた。
背嚢から覗く顔は、髭のせいか老けているように見える。それはもしかすると威厳というかも知れず、改めて見てみれば北の皇帝に似ていた。
──まさかな。
視界が遠のいていく。瞼は自然に下り、マテューは力なく額を地面に落した。
男が動かなくなったのを見て、朱い鼠は肩を伝って背中へと上がった。鼠はそこで黄色い──やや汚れ、芥子色に近い──猫と何事か鳴き交わし、背嚢に開いた穴に頭を突っ込む。そうして何か見つけたのか、後ろ足を淵に掛け、潜り込んで行った。
鼠が穴に消えて背嚢を揺さぶる間、猫は前足を舐め、毛繕いに余念がなかった。辺りでは相変わらず様々な音が煩く響いていたが、彼ら獣には何の関係もない。やがて毛繕いが右前脚から左前脚に移った頃、鋭い鳴声が響き、鼠が頭を出した。差し出された前足には黒い泥のようなものがこべり付き、体は小さく震えている。
それを鋭く睨みつけた猫は、やや前足を上げたかと思うと、勢い良く鼻っ柱を打った。目を瞬かせる鼠に、威嚇するように牙を見せた猫が鋭く唸る。鼠は逃げるように背嚢の中へ戻っていった。そうして再び鼠が顔を出すと、両手いっぱいに抱えられた黒い塊があった。
猫は鼠を咥え、胸壁へ飛んだ。
朱い鼠─おわり




