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秋の話  作者: ¡no pasarán
17/21

芥子色の野獣

 地面を伝わる轟きに、這いつくばる獣は何かが始まったことを知った。

 その獣は毛むくじゃらの体を濡らしていたので、まず一息に体を揺すって滴を散らした。それまでそんなことをした覚えがあったろうかとも思うが、やろうと思えば出来てしまったから、恐らく慣れたものなのだろうと考えた。そして、自分をびしょ濡れにした水の溜まりを振り返り、つぶらな瞳に土色の水面を映した。

 ──あそこから出る前は、何か違うことを考えていたよ。

 獣は余り多くのことを覚えられないし、自分でも知っている。でも必要なことの多くは頭の下、首の奥辺りにある煩い(もや)が知っていたから、とりあえず今すべきことの為に鼻を震わせてみた。

 ──あっちだ。

 獣が鼻の探り当てた方を見る。

 そこは、自分よりとても大きな溝で、沢山の匂いを放っていた。でも、おいしい匂いはただの一つだけなので、辿るには簡単だ。ちょっと前まではいささか大柄な獣たち──臭く、泥だらけの人々──が群がっていたものの、そのうち一人が鳥のように鳴いて、皆を連れ出して行ってしまった。

 ──どこに行ったのかな?

 鼻先の三本対の線──それは髭で、ネズミの物だ──が風を捉える。その吹く方を見れば、地面の轟が何処からやってくるのかすぐにわかった。

 鼠色の人々が広く散らばって、同じ方向へ駆けて行く。その上では見たこともない低く小さな雲が並んで、一瞬光ったかと思えばまた新たな雲が現れる。

 遅れて聞こえる大きな音。ネズミは目を瞬かせ、自分は耳を震わされるのにあまり慣れていないと悟った。そうして逃げるようにして溝へ駆けた。

 大きく、深い溝。鼻を震わせてみると、目当ての匂いは段々薄くなっているように思えた。

 ──急がないと。

 溝には横板が並んでいたから、ネズミはそれを伝って下りようと考えた。一番上の板に乗り、下を覗いてみる。これくらいなら飛び降りても大丈夫かなとも考えたが、臆病なネズミのこと、しっかり板を伝っていこうと決めた。

 ネズミは二枚目の板に後ろ足を掛け、そこから一息に前足を持っていこうと考えた。でも、どうやってバランスを保つのか知らない。迷っているうちに前足の力がなくなってくるのがわかる。

 ──そうだ。

 ネズミは体の後ろで遊んでいたミミズに力を入れ、板の縁に引っ掛けた。見た感じ頼りなさそうでも、それ一本で体を支えられることにネズミは目を丸くした。

 無事溝の底に降り、ネズミはかわいいミミズ──尻尾──を撫でてやった。くすぐったくて目を細めると、小さな頭が鼻に集中したのか匂いを強く感じた。尻尾を離し、ネズミが溝を駆ける。

 一曲がり二曲がり。匂いを辿って溝の奥へ進むと、大きな横穴があるのを見つけた。鼻先で探ってみる。どうやら匂いはその中から漂ってくるらしい。

 自分の背丈ほどもある段々。ネズミは上手いこと降りようとしたが、今度は尻尾を引っ掛けられず、一段々々転がるようにして落ちていった。そうして最後の段から落ちると、おいしい匂いの元はすぐ目のにあったのである。

 ネズミはまず鼻先を近付け、その黒い塊に触れてみた。すると思ったより柔らかく、何より冷たい。次いで鼻先に付いた湿りを舐めてみると、とても甘かった。何か大事なことを忘れている気もしたが、宿命に逆らうことは出来ない。一息に塊を吸い込み、ネズミは甘さの中に瞼を閉じた。


「やれやれ」

 思いもよらない声に、ネズミは口の中の甘味を飲み込んでしまった。

 ──何?

 ネズミの鋭い鳴き声が響く。つぶらな瞳が忙しく動き回り、やがて穴倉の入り口で止まった。

 逆光を受けた影。その中で二対の瞳だけが浮かび上がり、鋭く細められた。

「小さい者よ、時はそう多くない。その鼻が必要なのだ」

 ネズミが相手の姿をよく確かめようと立ち上がり、鼻を震わせる。薄く、甘酸っぱい香りがした。

 ──あなた、誰?

 答えはない。影は立ち上がったかと思うと瞬く間に跳び、ネズミの眼前へ着地した。大きく見開かれた二対の瞳が、光環の中に小さな獣を映す。僅かに開いた口に、鋭い牙が鈍く艶めいていた。

「我が名は──」

 開け放たれた口がネズミを掴まえ、持ち上げる。そのまま飲み込まれると思ったネズミは再び鋭く鳴いたが、振り子のように振られ、そのまま放り投げられて毛むくじゃらの背に乗せられた。

「──シトロン。迷える下僕の魂を救うべく参った」

 影が一息に穴倉から飛び出る。芥子色を明らかにしたその背に掴まりながら、ネズミは今や遠い記憶を見ていた。それは何時だって頬を埋めた、親しい友の背中だ。


 野獣の背に乗る鼠は、微かな匂いを追った。

 


   芥子色の野獣─おわり

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