唸る空
細かな水滴の付いたガラス板。その下には数字の刻まれた文字盤があり、秒針が小さな環をなぞっていた。兵士はそれを目で追い、ホイッスルを咥える。
秒針が環の底を過ぎ、兵士が梯子に手を掛ける。彼の襟には銀の横二本線があり、塹壕に並ぶ数十の兵にとって、その本数は絶対だった。
ゼンマイが伸縮する度に振り子が首を振り、歯車を止めては離す。回転は幾つかの車を経由し、秒針を環の頂点へ進めた。分針が一つの時を指し示す。
襟章二本の兵士が梯子を上がり、塹壕の兵に視線を滑らせる。ホイッスルが高く鳴った。
──前進。
号令と共に回される手に、兵達が次々と梯子を登っていく。誰もが先を譲ろうと努めることから、行き先には好ましくない結果が待っているに違いなかった。
兵の内一人は塹壕を出た処で低く飛ぶ銃弾に倒れ、順番を待つ仲間の上へ被さった。それでも彼らは狙撃される中で散開し、左右の壕から出た同じような兵達と共に進んでいく。言われた通りに行動することが、勝利へ近付く唯一の方法だと誰もが信じていた。
──サン・トレノ。
何時も同じ名を念じながら、マテューは進んだ。
誰も最前列に身を晒したくないものの、前の兵が倒れれば自然と順番が巡ってくる。しかし今日は銃撃も殆どなく、落ち着かなくなる程静かだった。支援砲撃も止み、聞こえるのは散発的な銃声と、背嚢の揺れる響きのみだ。
まずはこちらの鉄条網を越える。その先が無人地帯だ。敵味方の砲撃で耕された土地は身を隠す穴や盛り土に事欠かないが、ここに雨が降ると粘土のように足に絡みついた。もし雨水の張った砲弾孔にでも落ちれば、そしてその底が泥の溜まりであれば、重い背嚢を背負った兵は溺れてしまう。
マテューは所々遮蔽物に隠れながら、心の中である不安が増していくのを感じた。それは進むにつれて強まるもので、予感とは違った。
つまり、敵味方の間は開いている。小銃弾は届かず、砲撃もない。こちらの突撃は大体百ないし百五十メートルで始められる。その距離まで近付いて行けば、姿ははっきりと、狙いはより正確になる。奪取して間もないとは言え、恐らく機関銃は運び込まれている。そうすれば、まず外れない銃弾が、目の前に並ぶ的をドミノのように倒すだろう。
──それにしても。
マテューにはわからない事が一つあった。
──砲撃がないのはどうしてだ?
先頭を進む兵士が回転式拳銃を抜く。兵を率いるのが彼の義務であり、襟章二本の責でもある。砲撃に寸断された鉄条網が近付くのを見て、兵士は後ろを振り返り左手を高く掲げた。再びホイッスルが吹かれる。
──突撃、進め。
兵の群れが一斉に駆け出し、マテューも続く。鉄条網を突破し、見慣れた朽木──枝を吹き飛ばされ、割れた幹──も見えてきた。空が唸りを上げる。
爆音と共に頭上に開かれた白煙の傘──榴散弾──が、マテューの疑念を吹き飛ばした。
唸る空─おわり




