第2話 戻れない日常
講義は、何事もなかったように続いていた。
教授の声が、マイクを通して教室に広がっている。
スクリーンには、数分前と同じ資料が映っていた。白い背景に黒い文字。ところどころに赤線が引かれた、眠気を誘うだけのスライド。
ページの端には、講義名。
その下に、今日の日付。
間違いなく、あの日だった。
真尋がこの教室で机に突っ伏し、次に目を開けたとき、すべてが変わっていた日。
いや。
変わっていたのは、真尋だけだった。
「……」
スマホの画面を消す。
指先が震えていた。
あの瞬間から、時間はほとんど進んでいない。ほんの数分。せいぜい、居眠りをしていたと思われる程度の空白しかない。
夢だったのか。
一瞬、そんな考えが頭をよぎった。
長い長い夢。
黒い空も、崩れた神殿も、星狼の遠吠えも、仲間たちの叫びも。
全部、机に突っ伏して見た悪い夢だったのだと。
そう思えたなら、どれほど楽だっただろう。
だが、そんなはずはなかった。
夢なら、あの手の感触をここまで覚えているはずがない。
白い光に引き剥がされる直前、血で汚れた指を握り返してくれた細い手。
星狼が叫んだ声。
仲間たちの歓声。
最後に届かなかった言葉。
それらは、夢と呼ぶには重すぎた。
真尋の中には、十年がある。
剣を握った感触。
血の匂い。
焼けた大地。
黒い空。
生き残った夜。
そして、帰ってきてしまったという事実。
全部が、今も胸の奥に残っている。
「……っ」
息を吸う。
空調の風が喉を撫でた。
冷たい。
清潔すぎる。
血も土も、焦げた匂いもしない。
代わりにあるのは、消しゴムの匂いと、隣の席から漂う柔軟剤の匂い。後ろの方では、誰かが小さく菓子袋を開ける音がした。
平和だった。
あまりにも、平和だった。
真尋はゆっくり顔を上げた。
前の席の学生が、退屈そうにスマホをいじっている。窓際の男子は、肘をついて舟を漕いでいた。教授はスクリーンを指しながら、淡々と説明を続けている。
誰も警戒していない。
誰も入口を見ていない。
誰も天井の亀裂を探していない。
当然だ。
ここは戦場ではない。
崩れた神殿でもない。
大学の講義室だ。
分かっている。
分かっているのに。
真尋の目は、勝手に動いた。
前方の出入口。
後方の出入口。
窓の位置。
机と椅子の並び。
人の密度。
逃げ道。
障害物。
武器になりそうなもの。
黒板消し。
金属製の水筒。
折りたたみ傘。
椅子の脚。
それらを一瞬で確認してしまった自分に、真尋は小さく息を止めた。
違う。
違うだろ。
ここでそんなものを探してどうする。
もう終わった。
帰ってきた。
帰ってきてしまった。
「神代」
突然、名前を呼ばれた。
真尋の肩が跳ねる。
視線が一斉にこちらへ向いた。
教授が教壇からこちらを見ている。
「この部分、分かるか?」
教室の空気が少しだけ変わった。
隣の席の学生が、面白がるようにこちらを見る。後ろから小さな笑い声が漏れた。
普通の場面だ。
ただ授業中に指名されただけ。
それなのに、真尋の体は一瞬で硬くなった。
立つべきか。
答えるべきか。
周囲の反応は。
教授との距離は。
逃げ道は。
そこまで考えてから、真尋は自分に呆れた。
「……すみません。聞いてませんでした」
教室に、軽い笑いが広がる。
教授はため息をついた。
「寝るなら後ろで寝ろ。ここ、テストに出すぞ」
「はい」
真尋は小さく頭を下げた。
笑われた。
怒鳴られたわけではない。
攻撃されたわけでもない。
命を取られるわけでもない。
ただ、それだけ。
なのに、心臓の音がうるさかった。
机の下で、右手を握る。
細い手だった。
傷のない手。
古傷も、剣だこもない。
十年戦い続けた痕跡は、どこにも残っていない。
体は、大学一年の頃のままだった。
若く、軽く、弱い。
真尋はそっと息を吐いた。
戻ったのだ。
本当に。
あの日の自分へ。
けれど記憶だけが、戻っていない。
いや。
置いてこられなかった。
チャイムが鳴った。
講義終了を告げる音に、学生たちが一斉に動き出す。椅子を引く音。鞄を閉める音。友人同士の声。スマホの通知音。
それらが重なって、教室の中に日常のざわめきが戻ってくる。
真尋はすぐには立てなかった。
机に置いた手を見つめる。
指を開く。
握る。
痛みはない。
あの砕けるような痛みも、胸を引き裂かれる感覚も、ここにはない。
なのに、体の奥ではまだ何かが軋んでいる気がした。
「真尋?」
横から声がした。
顔を上げる。
一人の女子学生が、少し離れた席からこちらを覗き込んでいた。
黒に近い茶色の髪を肩のあたりでまとめ、派手すぎない服装をしている。表情は穏やかだが、目だけは妙に鋭い。
中学からの同級生。
高校でも顔を合わせ、大学まで同じになった相手。
透華だった。
「顔色、悪いよ」
「……そうか?」
「うん。悪い。というか、さっきから変」
真尋は返事に詰まった。
変。
その一言が、妙に胸に刺さった。
「寝不足だろ」
「寝不足で、教授に名前呼ばれただけでそんなに肩跳ねる?」
「跳ねてたか?」
「跳ねてた」
透華は即答した。
真尋は思わず視線を逸らした。
彼女は昔から、こういうところがあった。
人の変化に気づくのが早い。
大きな声で騒ぐわけではない。
強引に踏み込んでくるわけでもない。
けれど、見ている。
見落とさない。
「大丈夫?」
その声は、思ったより柔らかかった。
真尋は「大丈夫だ」と言いかけた。
あの崩れた神殿で、限界の体に言い聞かせるように吐いた言葉。
仲間たちに向けて。
星狼に向けて。
そして、あの手を握ってくれた女性に向けて。
喉が詰まる。
「……大丈夫」
少し遅れて、そう答えた。
透華の目が細くなる。
納得していない顔だった。
「ほんとに?」
「ほんと」
「嘘っぽい」
「ひどいな」
「真尋が分かりやすいだけ」
そう言って、透華は鞄を肩にかけた。
周りの学生たちは、もうほとんど教室を出ている。廊下の方から、昼休みらしい賑やかな声が流れ込んできた。
「お昼、食べる?」
「……いや、今日は帰る」
「次、講義あるでしょ」
「休む」
「珍しいね」
「たまにはな」
真尋は立ち上がった。
その瞬間、膝がわずかに揺れた。
体が軽い。
軽すぎる。
十年鍛えた体ではない。
踏み込みの感覚が違う。
重心が浅い。
腕も、肩も、背中も、頼りない。
ただ立ち上がっただけなのに、自分の体ではないような違和感があった。
透華がそれに気づいたように、少し眉を寄せる。
「本当に具合悪いんじゃない?」
「平気だ」
「病院行く?」
「そこまでじゃない」
「じゃあ、保健室」
「子供じゃないんだから」
「子供じゃないなら、自分の体調くらいちゃんと見なよ」
言い返せなかった。
その言葉は正しい。
戦場でも、体調管理を軽んじるやつから死んでいった。
傷を隠す者。
疲労を誤魔化す者。
自分だけは大丈夫だと思う者。
そういう者ほど、次の一撃に反応できなくなる。
真尋は少しだけ苦笑した。
「……分かった。無理はしない」
「それ、無理する人の言い方」
「昔からそんなに疑り深かったか?」
「昔からだよ」
透華はそう言って、教室の出口へ目を向けた。
人の流れが少し減るまで待っている。
真尋はその仕草に気づいた。
何気ないようで、彼女はいつもそうだ。
混雑の中へ無造作に飛び込まない。
出口を確認する。
人の流れを見る。
危なそうな相手とは距離を取る。
昔は、慎重すぎるだけだと思っていた。
今は少し違って見えた。
身を守るための感覚。
危うさを避けるための癖。
透華は透華で、真尋とは別の形で周りを見ている。
「どうしたの?」
「いや」
「また変な顔してる」
「そんな顔してるか?」
「してる」
透華は短く答えた。
真尋は小さく息を吐き、鞄を持った。
教室を出る。
廊下には学生が溢れていた。
笑い声。
足音。
誰かが友人の肩を叩く音。
後ろから走ってきた男子学生が、真尋の横をすり抜けた。
その肩が軽くぶつかる。
瞬間。
真尋の左手が動きかけた。
相手の腕を取る。
重心を崩す。
床に倒す。
そこまでの動作が、体に染みついた反射として立ち上がった。
「っ……」
寸前で止めた。
男子学生は気づかないまま、友人たちの方へ走っていく。
真尋は自分の左手を見た。
指が硬く曲がっている。
掴む寸前の形だった。
「真尋?」
透華の声がした。
見られていた。
真尋は手を下ろす。
「なんでもない」
「今の、なんでもなくないでしょ」
「ぶつかりそうになっただけだ」
「ぶつかっただけで、あんな目する?」
「あんな目?」
「……怖い目」
透華の声は少しだけ低くなった。
責める声ではない。
ただ、事実を確かめる声だった。
真尋は返せなかった。
怖い目。
そうかもしれない。
十年も戦ってきた。
敵の動きを読み、殺意を見抜き、先に潰さなければ死ぬ世界で生きてきた。
その目だけが、まだ戻っていないのかもしれない。
「悪い」
「私に謝ることじゃないけど」
透華は少し黙った。
それから、いつもの調子に戻したように言う。
「駅まで一緒に行く」
「いや、いい」
「行く」
「透華、次の講義は?」
「今日は午後空き」
「嘘だろ」
「本当」
「……本当に?」
「疑り深いの、そっちじゃない?」
真尋は言葉に詰まった。
透華は小さく笑った。
ただ、その笑みはすぐに消えた。
「一人にしたら、そのままどっか行きそうだから」
「行かない」
「じゃあ、駅まで一緒でも問題ないよね」
強引ではない。
けれど引かない。
昔から、透華はそういうところがあった。
必要だと思ったときだけ、静かに距離を詰めてくる。
真尋は諦めて歩き出した。
大学の廊下を抜ける。
階段を下りる。
踊り場の窓から、外の光が差し込んでいた。
青い空。
雲。
遠くのビル。
どこにでもある景色。
真尋はその青さに、ほんの少しだけ息を止めた。
黒い空の裂け目から覗いた青が、脳裏に重なる。
あの青とは違う。
違うはずなのに、胸の奥が痛んだ。
「空?」
透華が隣で言った。
「見てたでしょ」
「……別に」
「別に、って顔じゃない」
「お前、本当に人の顔見るの好きだな」
「見たくなる顔をしてる方が悪い」
何気ない会話。
中学の頃から何度もしてきたような、軽いやり取り。
それなのに、真尋にはひどく遠く感じた。
十年ぶんの距離がある。
透華にとっては、昨日の続き。
真尋にとっては、失った世界の続き。
同じ場所に立っているのに、同じ時間を生きていない。
大学の外へ出ると、昼の空気が肌に触れた。
アスファルトの匂い。
車の音。
遠くの踏切の音。
コンビニの自動ドアが開く音。
人の声。
どれも懐かしい。
懐かしいはずなのに、胸に馴染まない。
「何か食べてく?」
透華が聞いた。
「食欲ない」
「朝から何も食べてないんじゃない?」
「……なんで分かる」
「顔」
「便利だな、顔」
「分かりやすいんだって」
真尋は苦笑しかけた。
その瞬間、腹が鳴った。
沈黙。
透華がこちらを見る。
「食欲ない?」
「……今のは違う」
「何が?」
「体の反応だ」
「食欲あるってことじゃん」
透華は少しだけ笑った。
その笑い方に、真尋は不意に救われた気がした。
血も戦いも知らない笑い。
日常の中にある、小さな笑い。
こういうものを、取り戻したかったはずだった。
帰りたかったはずだった。
なのに。
なぜ、胸の奥はこんなに空っぽなのだろう。
二人は駅前のコンビニに入った。
自動ドアの音が鳴る。
涼しい空気。
明るい照明。
整然と並ぶ商品棚。
おにぎり。
パン。
弁当。
カップ麺。
飲み物。
あまりにも物が多い。
あまりにも簡単に手に入る。
真尋は棚の前で立ち止まった。
十年の間、食料は命だった。
水はもっと命だった。
干し肉一枚を分け合った夜がある。
腐りかけの果実を食べて腹を壊した仲間がいる。
火を焚けない場所で、冷たい保存食を噛み続けた日もあった。
目の前には、選びきれないほどの食べ物が並んでいる。
百数十円。
数百円。
それだけで買える。
「真尋?」
透華の声で我に返る。
「何にする?」
「……おにぎり」
「何味?」
真尋は棚を見た。
鮭。
梅。
昆布。
ツナマヨ。
明太子。
種類が多すぎる。
戦場では、食べられるかどうかがすべてだった。
味を選ぶ余裕など、ほとんどなかった。
「なんでもいい」
「じゃあ鮭」
透華は迷わず一つ取った。
それからお茶も持ってくる。
「はい」
「悪い。金は出す」
「別にいい」
「いや、出す」
「じゃあ後で」
レジへ向かう途中、棚の影から小さな子どもが飛び出してきた。
真尋の体が反応する。
一歩下がる。
右手が子どもの肩を避け、左手が透華の前へ出る。
守る位置。
無意識だった。
子どもは母親に呼ばれて走っていく。
透華は、真尋の腕を見ていた。
「今の」
「……悪い」
「謝ることじゃない」
「癖だ」
「何の?」
真尋は答えられなかった。
何の癖か。
戦場の癖だ。
仲間を守る癖。
奇襲に備える癖。
小さな影にも反応する癖。
でも、そんなことを言えるわけがない。
「……分からない。反射で動いた」
そう答えるのが、今の真尋にできる精一杯だった。
透華は追及しなかった。
ただ、レジへ向かいながら小さく言った。
「真尋、何かあった?」
その言葉は、今までのどの問いよりも静かだった。
だからこそ、逃げにくかった。
真尋は答えを探した。
あった。
何かどころではない。
十年あった。
世界を渡った。
仲間ができた。
戦った。
勝った。
帰ってきた。
帰ってきてしまった。
けれど、それを言葉にした瞬間、自分が壊れてしまう気がした。
「何もない」
そう言うしかなかった。
透華は、こちらを見なかった。
「そっか」
信じていない声だった。
でも、それ以上は聞かなかった。
コンビニを出る。
駅へ向かう道を歩く。
真尋はおにぎりの袋を開けた。
海苔がぱり、と音を立てる。
その音が妙に大きく聞こえた。
一口食べる。
鮭の塩気。
白米の甘さ。
あたたかくはない。
けれど、柔らかい。
安全な味だった。
「……うまい」
思わず漏れた。
透華が横を見る。
「おにぎりでそんな顔する人、初めて見た」
「どんな顔だよ」
「ちょっと泣きそう」
「泣いてない」
「うん。泣いてはない」
その言い方が、少し優しかった。
駅前に着く。
人が多い。
改札へ流れていく人。
バス停に並ぶ人。
スマホを見ながら歩く人。
自転車。
タクシー。
看板。
信号。
音が多すぎる。
それなのに、殺気はない。
真尋は立ち止まりかけた。
透華が少し先で振り返る。
「真尋」
その声で、意識が戻る。
「大丈夫?」
また、その言葉だ。
大丈夫。
何度も言われた。
何度も言った。
本当に大丈夫だったことなど、どれだけあっただろう。
真尋はお茶を一口飲んだ。
喉を通る冷たさが、今ここにいることを教えてくる。
「大丈夫だ」
今度は、さっきより少しだけ自然に言えた。
透華はじっと見ていたが、やがて小さく頷いた。
「ならいいけど」
「駅まででいい。送ってくれて助かった」
「送ったつもりはないけど」
「じゃあ、監視?」
「それは近いかも」
「怖いな」
「怖がられることはしてない」
「確かに」
二人の間に、少しだけいつもの空気が戻った。
改札前で別れる。
透華は別方向のホームだった。
「帰ったら寝なよ」
「ああ」
「あと、変なこと考えないこと」
「変なことってなんだよ」
「分からないけど、今の真尋は考えそうだから」
真尋は返事に困った。
透華はそれ以上言わず、改札を通る前に一度だけ振り返った。
「明日、来るよね」
「大学に?」
「うん」
「……たぶん」
「たぶんじゃなくて、来て」
その声は、軽く聞こえるようで、少しだけ真剣だった。
真尋は小さく頷いた。
「分かった。来る」
透華はようやく少し笑った。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
また明日。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
明日。
当たり前に来るはずの、次の日。
戦場では、誰も簡単に言えなかった言葉。
真尋は改札を抜け、ホームへ向かった。
電車の音が近づいてくる。
風が吹く。
人々が黄色い線の内側に並ぶ。
誰も剣を持っていない。
誰も空を警戒していない。
それが普通だ。
これが普通だ。
真尋は自分に言い聞かせた。
戻るんだ。
戻されたからには、ここで生きるしかない。
あの世界での十年を忘れることはできない。
あの手の感触も、星狼の声も、仲間たちの顔も、消えることはない。
それでも。
ここで生きるしかない。
電車がホームに滑り込んだ。
扉が開く。
人が降りる。
人が乗る。
真尋もその流れに入った。
座席には座らなかった。
扉の近く。
背中を壁に預けられる位置。
車両全体を見渡せる場所。
そこを選んでから、自分で気づく。
まただ。
また、逃げ道を探している。
真尋は目を閉じた。
揺れる電車。
流れていく景色。
耳に残るチャイムの音。
そして、遠くで響く星狼の遠吠え。
本当に戻れるのだろうか。
何も知らなかった自分に。
ただの大学生だった自分に。
それとも。
あの世界へ、もう一度戻ることはできるのだろうか。
白い光に引き剥がされたあの場所へ。
最後まで掴めなかった、あの手のもとへ。
真尋は拳を握った。
爪が掌に食い込む。
痛みは小さい。
あまりにも小さい。
戻りたい。
そう思ってしまう自分がいる。
けれど、方法はない。
何をすればいいのかも分からない。
あの文字も、白い光も、今はどこにもない。
だから。
今は、ここで生きるしかない。
戻る方法を探すにしても、立ち止まったままでは何も始まらない。
真尋は、流れていく景色を見つめた。
帰ってきたはずの日常は、もう以前と同じ色には見えなかった。




