第1話 届かぬ答え
初めての小説です
見守っていただけると嬉しいです
空が、黒かった。
夜ではない。
雲でもない。
世界そのものが焼け焦げ、ひび割れた天蓋のように、頭上を覆っていた。
崩れた神殿の柱が、斜めに突き刺さっている。かつて白かったはずの石床は黒く焦げ、深い亀裂の底から赤い光が漏れていた。風はない。けれど空気は震えている。遠くで鳴る雷のように、低く、重く、世界の奥がうなっていた。
神代真尋は、膝をつきかけた。
「ぐっ……」
奥歯を噛みしめる。
右足に力が入らない。左腕は肩から先の感覚がほとんど消えていた。肺の奥が焼けるように痛む。息を吸うたび、血と土と焦げた匂いが喉に貼りついた。
それでも、倒れなかった。
倒れれば終わる。
ここで終われば、全部終わる。
「真尋!」
誰かが叫んだ。
その声に振り返る余裕はない。背後には仲間たちがいた。傷だらけの剣士。杖を支えに立つ魔法使い。膝をつきながらも結界を張り続ける神官。血に濡れた獣人の戦士。
そして、白銀の毛並みを煤で汚した星狼が、真尋の横に立っていた。
星を砕いて宿したような瞳が、まっすぐ前を見ている。巨体は傷だらけで、片耳の先が裂け、足元には血が落ちていた。それでも、その狼は一歩も退かなかった。
真尋の前方。
崩れた祭壇の奥に、それはいた。
巨大な闇の塊。
人の形に見えた瞬間、獣にも見える。翼のような影を広げたかと思えば、次には塔のようにそびえ立つ。輪郭は定まらず、黒い靄が絶えず流れ落ちていた。
ただひとつ。
胸の奥に埋まったコアだけが、確かにそこにあった。
黒い殻に覆われたそれは、すでに無数の亀裂を刻まれている。
最初に対峙したとき、闇の存在には確かに余裕があった。
剣を受けても、魔法を浴びても、星狼の牙が食い込んでも、それはただ見下ろしていた。真尋たちの抵抗など、いずれ尽きるものだと知っているかのように。
だが、今は違う。
黒い殻は割れ、輪郭は乱れ、ゆっくりと上がる腕さえわずかに震えている。見下ろすような圧は、もうない。圧倒的だったはずの余裕は、削られ、剥がされ、今この瞬間には跡形もなく消えていた。
真尋たちは、届かなかったのではない。
届かせ続けてきた。
削り続け、奪い続け、あの怪物をここまで追い詰めた。
闇の存在が、ゆっくりと腕を上げた。
神殿の残骸が軋み、石片が宙へ浮いた。黒い靄が渦を巻き、真尋たちの足元へ這うように伸びてくる。
「結界、もう持ちません!」
「下がれ、真尋!」
「だめだ!」
真尋は、叫ぶより先に地面を蹴った。
足首に激痛が走る。
「っ……!」
視界が白く滲んだ。それでも前へ出る。
星狼が真尋の横を駆けた。低く唸り、影の刃をその身で受ける。白銀の毛が裂け、血が飛んだ。
「お前……!」
狼は振り返らない。
ただ、背中で言っていた。
行け、と。
真尋は息を吐いた。
体は限界だった。
残された力も、ほとんどない。
拳を握るだけで、骨が悲鳴を上げる。
それでも、右手を前へ出した。
体の奥で、何かが軋んだ。
胸の奥から淡い光が滲み出す。
色を持たないはずの光だった。けれど確かに見える。胸から肩へ、肩から腕へ、手首へ、そして掌へ。細い線のように走った光が、真尋の拳へ集まっていく。
遅れて、痛みが来た。
「ぐ、あっ……」
喉の奥から声が漏れた。
背後で、ハイエルフの女性が息を呑む気配がした。
長い金の髪は血と煤で乱れ、白い頬にも傷がある。いつも静かな瞳が、今だけは揺れていた。彼女は杖を握りしめ、今にもこちらへ駆け出しそうな顔をしている。
「真尋、もう……!」
その声は震えていた。
止めたいのだと分かった。
けれど、止められないことも分かっているのだろう。
十年。
この世界で過ごした時間が、真尋の胸を一瞬だけよぎった。
帰るために歩き始めた。
帰るために戦った。
帰るために何度も死にかけた。
けれど、いつからだったのだろう。
拳を握る理由が、それだけではなくなったのは。
真尋は笑おうとした。
うまく笑えたかは分からない。
「大丈夫だ」
掠れた声だった。
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
仲間へか。
星狼へか。
彼女へか。
それとも、折れそうな自分自身へか。
真尋は右拳を引いた。
光が拳の周囲で揺らめく。
闇の存在が、真尋を見下ろした。
黒い顔に表情はない。けれど、その揺らぎは怒りではなかった。余裕でもなかった。
圧倒する側だったはずのものが、初めて均衡を失ったような揺らぎだった。
真尋は小さく告げた。
「虚無交換」
次の瞬間、世界から音が消えた。
右腕に、砕けるような痛みが走った。
胸の奥が引き裂かれる。
「まだだ……!」
膝が落ちかける。
石床に指が触れそうになる。
それでも、真尋は歯を食いしばった。
「ここで、終われるかよ……!」
視界の端が黒く染まる。
喉の奥に血の味が広がる。
腕の感覚はもうほとんどない。けれど、拳だけはほどかなかった。
星狼が吠えた。
その声が、消えたはずの音をこじ開けるように響いた。
仲間たちが最後の力を振り絞った。
剣士が叫び、崩れかけた足で前へ出る。振り抜いた刃が、闇の腕を弾いた。魔法使いの杖が砕け、破片を散らしながらも最後の光弾を放つ。神官の結界が割れ、透明な破片となって降り注いだ。獣人の戦士が黒い触手を引き裂き、真尋の進む道をこじ開ける。
ハイエルフの女性が、震える唇を噛んだ。
「道を……開けます!」
杖の先から白い光が走る。
細く、けれど真っ直ぐな光だった。
それは闇を焼き払うほど強くはない。巨大な敵を倒すには足りない。
けれど、真尋の拳が届くための一筋の道を作った。
星狼がその光の中へ飛び込む。
白銀の体が闇の波を裂いた。牙が黒い壁に食い込み、爪が床を削る。影の刃が背に突き刺さっても、星狼は退かない。
真尋は駆けた。
足はもう、自分のものではないみたいだった。
一歩ごとに骨が軋む。
一歩ごとに肺が焼ける。
一歩ごとに、意識が遠のいていく。
それでも前へ。
前へ。
前へ。
黒い殻が目の前に迫る。
ひび割れたコアが、真尋を拒むように赤黒い光を脈打たせた。闇の存在が大きく身をよじる。最後の力を振り絞るように、無数の影が真尋へ殺到した。
「真尋!」
背後から声が飛ぶ。
誰の声か分からなかった。
いや、全員の声だった。
星狼が真尋の前へ躍り出た。
影を受ける。
白銀の毛が裂ける。
それでも、ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ、道が空いた。
真尋は右拳を握り締めた。
体の奥で軋んでいた光が、もう一度うねる。
胸の奥から肩へ。
肩から腕へ。
腕から手首へ。
そして、拳へ。
痛みも、恐怖も、帰りたいと願った十年も、帰りたくないと気づいてしまった今も、全部がそこに流れ込んだ。
「届け……!」
声になったのは、それだけだった。
真尋は踏み込んだ。
黒い殻へ。
ひび割れたコアへ。
十年分の旅路を、痛みを、約束を、後悔を、全部乗せて。
拳を叩き込む。
「おおおおおおおおっ!」
衝撃が走った。
最初に砕けたのは、拳の周囲を覆っていた黒い靄だった。
次に、殻の亀裂が広がった。
細い線が一本。
二本。
三本。
蜘蛛の巣のように黒い殻全体へ走っていく。
闇の存在が、大きく後ろへ傾いた。
怒りでも、余裕でもない。
完全に均衡を失った者の揺らぎだった。
「まだ……!」
真尋は奥歯を噛みしめた。
拳を引かない。
押し込む。
腕の骨が悲鳴を上げる。
肩が外れそうになる。
それでも、押し込む。
「まだ、終わってねえ!」
星狼が吠えた。
仲間たちの力が、背後から真尋の背中を押すように重なった。
剣の光。
魔法の残滓。
割れた結界の輝き。
獣の咆哮。
彼女の白い光。
それらが一瞬だけ、真尋の拳に集まったように見えた。
黒い殻が、内側から軋む。
赤い光が亀裂の奥で暴れた。
闇の存在が両腕を振り上げる。真尋を叩き潰そうとする影が、頭上から落ちてくる。
だが、もう遅い。
真尋は叫んだ。
「終われえええええええっ!」
黒い殻が砕けた。
音が戻った。
神殿全体が割れるような轟音だった。
赤い光が噴き上がる。
熱ではない。
炎でもない。
けれど視界を焼くほどの光が、闇の胸から空へ突き抜けた。
闇の存在が大きく仰け反った。
輪郭が崩れる。
腕がほどける。
翼のような影が千切れ、黒い靄となって空へ流れていく。
神殿の天井跡へ向かって、声にならない叫びが走った。
それは怒りにも聞こえた。
悲鳴にも聞こえた。
世界そのものが軋む音にも聞こえた。
空を覆っていた黒が裂ける。
一筋の白い光が差し込む。
その光は細く、弱く、けれど確かに黒を押し分けた。
続いて二筋。
三筋。
ひび割れた空の向こうから、青が覗いた。
「真尋、離れて!」
誰かが叫んだ。
真尋は拳を抜こうとした。
だが、体が動かなかった。
砕けた殻の奥から、最後の衝撃が噴き返す。
赤と黒の光が爆ぜた。
真尋の体が宙へ浮く。
星狼が、吹き飛ぶ真尋を受け止めようと飛び出した。
ハイエルフの女性が手を伸ばした。
仲間たちが駆け出した。
けれど、間に合わない。
「がっ……!」
真尋の体が吹き飛ばされる。
視界が回る。
黒い空。
白い光。
崩れた柱。
仲間たちの顔。
星狼の叫び。
全部が混ざって、遠ざかる。
背中から石床に叩きつけられた。
「がはっ……!」
肺の中の空気が全部押し出された。指先が震える。立たなければと思うのに、体が動かない。
それでも、目だけは前を向いていた。
闇が崩れていく。
巨大な輪郭がほどけ、黒い靄が空へ吸い上げられる。砕けたコアの破片が床に落ち、光に触れて薄れていった。
誰も動かなかった。
誰も声を出せなかった。
長すぎる沈黙のあと、剣士が呆然と呟いた。
「倒した……のか?」
その言葉が、神殿の残骸に小さく響いた。
一拍遅れて、誰かが息を呑んだ。
「……やった」
震える声だった。
「やったぞ……!」
別の誰かが叫ぶ。
「勝った! 俺たち、勝ったんだ!」
その声をきっかけに、張り詰めていた空気が一気に崩れた。
誰かが泣いた。
誰かが笑った。
誰かが膝から崩れ落ちた。
「終わった……終わったんだ……!」
「生きてる……俺たち、生きてるぞ!」
歓声と嗚咽が、崩れた神殿に広がっていく。
真尋は、その声を遠くに聞きながら、空を見上げた。
黒かった空の裂け目から、青が覗いている。
本当に終わったのか。
そう思った瞬間、胸の奥から力が抜けた。
「真尋!」
ハイエルフの女性が駆け寄ってくる。
彼女は真尋のそばに膝をつき、震える手でその頬に触れた。指先が冷たい。いや、真尋の体が熱を失っているだけかもしれない。
「無茶をしすぎです」
怒っている声だった。
泣きそうな声でもあった。
真尋は、ゆっくり息を吸った。
「勝っただろ」
「そういう問題ではありません」
「……怒るなよ」
「怒ります」
即答だった。
そのあまりにいつも通りの返事に、真尋は少しだけ笑った。
彼女の瞳が歪む。
その奥にある感情を、真尋は何度も見てきた。十年の旅の中で、何度も隣にあった光だった。
手を伸ばそうとした。
けれど、右腕は動かなかった。
代わりに、彼女が真尋の手を取った。
細い指が、血で汚れた真尋の指を包む。
星狼が近づき、真尋の肩口に鼻先を寄せた。温かな息が頬を撫でる。大丈夫だ、と言うように。
そのときだった。
真尋の視界に、文字が浮かんだ。
音もなく。
けれど世界そのものが告げるように。
【攻略者ボーナスが発生しました】
真尋は眉を寄せた。
「・・・はっ?なっっ?」
仲間たちの声が遠ざかる。
空気が止まる。
目の前の文字だけが、やけにはっきりと見えた。
【地球への帰還】
【この世界への残留】
心臓が、一度だけ強く鳴った。
帰還。
その言葉を、どれほど求めてきたか。
最初は、それだけだった。
帰りたい。
元の世界へ。
何も知らなかった自分へ。
大学へ行き、くだらない話をして、コンビニで飯を買って、狭い部屋で眠る。
そんな当たり前に戻りたかった。
けれど。
真尋の手を握る彼女の指に、力が入った。
星狼が低く鳴く。
仲間たちは、勝利の余韻の中でこちらを見ている。
この世界で得たものがある。
失いたくないものがある。
置いていけないものがある。
彼女は何も言わなかった。
引き止める言葉を飲み込んでいるのが分かった。
真尋の選択を縛りたくないのだと、分かってしまった。
だからこそ、胸が痛かった。
「俺は……」
声が出た。
答えは、胸の奥にあった。
あったのだ。
十年の旅の最後に、ようやく形になりかけていた。
帰るためだけに戦っていた少年は、もういない。
この世界にも、守りたいものがある。
隣にいたい人がいる。
だから。
真尋は、彼女へ手を伸ばそうとした。
動かないはずの右腕に、わずかに力が戻る。
指先が持ち上がる。
彼女の瞳が大きく開いた。
「真尋……?」
あと少し。
あと一言。
あと一瞬。
【選択未確定】
文字が切り替わった。
真尋の呼吸が止まる。
【初期登録世界への帰還権を優先します】
「待て」
掠れた声が漏れた。
【攻略者ボーナスを実行します】
「待て!」
今度は叫んだ。
けれど声は届かなかった。
足元から白い光が立ち上がる。
彼女の手が、真尋の手を強く握った。
「真尋!」
星狼が吠えた。
仲間たちが駆け寄る。
真尋は必死に手を伸ばした。
彼女もまた、手を伸ばしていた。
指と指が触れる。
触れた、はずだった。
けれど掴めない。
光が二人の間に割って入る。
残る。
地球へ帰るんじゃない。
ここに残る。
そう叫ぶはずだった。
「俺は――の・・・・!!!」
言葉は、最後まで形にならなかった。
彼女の顔が遠ざかる。
星狼の遠吠えが、白い光の中で歪んでいく。
仲間たちの叫びも、崩れた神殿も、黒かった空も、青く戻りかけた世界も。
すべてが遠ざかっていく。
神代真尋は、その世界から消えた。
誰の手も声も、届かないまま。
そして。
崩れた神殿に、静寂が戻った。
砕けたコアの破片は、白い光に触れて次々と薄れていく。黒い靄は空へ溶け、石床に広がっていた赤い光も少しずつ消えていった。
誰も気づかなかった。
祭壇の裂け目の奥。
砕けたコアの欠片に見えるものの中に、ほかの破片とは違う小さな塊があった。
赤黒い塊。
それは、焼け落ちたのではない。
砕けたのでもない。
そこにあったはずのものが、影の奥へ引き抜かれるように、音もなく薄れていった。
光に消されたようにも見えた。
どこかへ逃れたようにも見えた。
床の裂け目には、もう何も残っていなかった。
◇
チャイムが鳴っていた。
それは、あまりにも軽い音だった。
世界が軋む音でも、星狼の遠吠えでも、仲間たちの叫びでもない。
明るすぎる蛍光灯。
白い天井。
ざわめく声。
空調の乾いた風。
消しゴムの匂い。
誰かの弁当の甘い匂い。
真尋は、机に突っ伏していた。
「……は?」
声が漏れた。
自分の声だった。
ゆっくり顔を上げる。
そこは、大学の講義室だった。
前方のスクリーンには、見慣れた資料が映っている。教授がマイクを片手に何かを話していた。周りの学生たちはノートを取ったり、スマホを見たり、眠そうに欠伸をしたりしている。
誰も血を流していない。
誰も剣を持っていない。
黒い空もない。
崩れた神殿もない。
真尋は、自分の手を見た。
細い。
傷がない。
あれほど刻まれていた古傷も、剣だこの硬さも、力を流し続けた痕もない。
ただの大学生の手だった。
「はっ……はあっ……」
呼吸が乱れる。
胸を押さえる。
心臓がうるさい。
右腕はある。
痛みもない。
なのに、砕けるような感覚だけが残っている。
真尋は震える手でポケットを探った。
スマホを取り出す。
画面をつける。
日付を見る。
転移した日。
講義を受けていた、あの日のまま。
時間は、ほとんど進んでいなかった。
「嘘だろ……」
呟きは、講義室のざわめきに紛れた。
十年。
あの世界で生きた十年。
仲間と笑い、傷つき、何度も死にかけ、最後にようやく掴みかけた答え。
それが、この場所では一瞬にも満たない。
真尋は窓の外を見た。
青い空があった。
当たり前の青だった。
けれど胸の奥には、黒い空の残像が焼きついている。
彼女の手の感触が残っている。
星狼の遠吠えが耳の奥で響いている。
伸ばした指。
届かなかった言葉。
選べなかった選択。
真尋は机の下で拳を握った。
爪が掌に食い込む。
痛みは小さい。
あまりにも小さい。
帰ってきた。
帰ってきてしまった。
答えはあった。
けれど、届かなかった。
神代真尋は、地球に帰還した。




