第08話 銀貨一枚。
オリンゼの目の前に、アロン=ガスマンが立っている。
「オリンゼ=ヒュッカテ。流行と砂糖菓子と噂話にしか興味がないような、脳みそからっぽの女が、このご大層な刺繍を刺した、だと?」
オリンゼは、怯えもしなければ、逆らいもしない。
百万回も練習した社交用の鋼鉄の笑顔を、アロンに向け続けていた。
アロン=ガスマンは、一番ましな状態の時ですら、他人にとっての『災厄』であった。
だから、彼がブースに現れると、誰もが今日の星占いを呪った。
オリンゼだけが、怖れていなかった。
孤児のような、いたいけさ。
そんなものは持っていない。
伯爵令嬢のような、いじらしさ。
どこで、いくらで、売っているのか。
(踏んでください、と言っているようなものでしょ)
オリンゼには、『平気で人を傷つける才能』がある。
アロン=ガスマンと同じ種類の人間。
だから、わかる。
ここで怯えるのではない。
そこで逆らうのではない。
アロンと一緒に支配する。
それが、大理不尽に遭遇した時の処世術だ。
オリンゼは本能で知っていた。
アロンは純銀のステッキを振り回しながら、値踏みする。
オリンゼの『町娘』の可憐なドレス。
後ろに飾られた『幽囚姫』のタペストリー。
ねっとりと。
舐めまわすような視線で。
「その傷一つない箱入りの指で……? 大方、そこらへんの職人に金をつかませて、代わりに作らせたんだろう?」
アロンのせせら笑い。
しかし、オリンゼは、まったく後ろ暗さを感じていなかった。
職人に作らせた?
職人じゃないわ!
お金で作らせた?
びた一文払ってないわ!
だから……
これは、正真正銘、私の作品なのよ!
オリンゼの堂々とした微笑みは、小揺るぎもしない。
アロンは拍子抜けした。
(この不動の自信……本当にこいつが作者なのか?)
「ふんっ! まぁ、どうでもいい」
アロンは嘲笑うように、ステッキの、泥が付いた先を伸ばす。
タペストリーの表面。
「この女。ちょいと、色気が足りないんじゃあないか? 化粧の仕方を教えてやろう」
ガリッ!
刺繍の中の乙女の頬を――手荒に刷いた。
「ああっ!」
自分の顔を裂かれたような痛みを感じて、エミルウが悲鳴を上げた。
オリンゼが、アロンが、木箱の陰を見る。
薄汚れたエプロン。
人目を引くストロベリーブロンドの髪――みっともなく跳ねている。
琥珀色の瞳――怯えの色。
「おや?」
アロンは、面白いおもちゃを見つけた子どものように、目を輝かせた。
エミルウは目を細める。
(見えない。怖い。でも――)
「お、お願いします……。どうか、もう少し……丁寧に扱ってください……」
震える声で、懇願した。
「糸が、擦れてしまいます……」
奪われても、奪われても、従ってきた。
だけど。
魂を込めた『作品』を、目の前で汚されることが。
こんなにも、つらいことだとは。
(私の中に――こんな心があった、なんて、……)
エミルウは、恐怖を噛み殺しながら、小さく叫んだ。
「お願い、します……!」
アロンとオリンゼは、エミルウの瞳の中に、不服従の色を見た。
許してはならない。
優秀な狙撃手は。
距離・温度・風向きを一瞬で読み、標的を鮮やかに撃ち抜く。
オリンゼも、『この場』の最適解を、一瞬ではじき出した。
(アロン=ガスマンの『標的』に、わざわざ立候補してくれるなんて……ありがたくて涙が出るわ)
心の中で舌なめずりをした。
(エミルウ……作者気取りで、のこのこと! 命知らずで愚かな女……『歩く災厄』に、おまえを生け贄として捧げてあげる!)
オリンゼは、腰に手を当て、エミルウを睨みつけた。
「……小間使いの分際で、公爵家のアロン様に口答えする気!?」
わざとらしいくらいに高い声。
ブースの周りの客が振り返る。
「アロン様、お見苦しいところをお見せしました。この薄汚い小間使いは、私が慈悲で飼ってやっている、哀れな居候なのです」
カーテシーを示して、オリンゼが声を張り上げる。
アロンにではなく、聴衆に聞かせている。
オリンゼは、絹の手袋をはめる。
これから『汚いもの』に触るからだ。
ドレスの裾を翻して、エミルウの目の前に詰め寄った。
「……オリンゼお姉さま、ごめんなさい……!」
「こっちへ来なさい!」
エミルウの細い手首をつかみ、暗がりから、明るみへと引きずり出す。
(痛い――怖い――)
オリンゼは容赦なく、エミルウを群集の前に『連行』した。
「エミルウお嬢様!」
パイネが叫び、ブースから飛び出す。
オリンゼに向かっていくパイネの足に、アロンのステッキが突き込まれた。
「ああっ!」
激しく転倒したパイネの姿に、観衆がどっと笑う。
「パイネ! パイネ! ああ……!」
エミルウは身をよじるが、オリンゼに手首を掴まれている。
頭を打ったパイネは身動きをしない。
「紳士淑女の皆様!」
オリンゼの、ひときわ大きな声。
「こちらの令嬢、エミルウ=スキャルファは、今日が社交界デビューでございます」
(令嬢?)という失笑が、野次馬の中から聞こえた。
エミルウの頭の中が、キン、と鳴る。
「エミルウは、このファンシー・フェアで、まだひとつも売っていません。ひとつも、です」
売る。
何を?
ほほえみを。
愛嬌を。
親しみを。
――媚びを。
エミルウが持っていないものばかりだった。
「慈善の市で、『売れ残る』ことは、不名誉なことです。――エミルウの名誉と、慈善のために――」
アロンがニヤニヤと笑う。
「エミルウ=スキャルファと『初めてのダンス』を踊る権利を、お売りしますわ!」
エミルウの頭が、がっくりと落ちた。
「しっかりしなさいよ。地獄はこれからなんだから」
オリンゼが小声で囁き。
エミルウのつま先をしたたかに踏みつける。
「さあ! エミルウとのダンス権――お代は言い値で結構ですわ。お買い上げになる紳士様は、いらっしゃいませんか!」
野次馬たちの中にいたゴシップ記者二人は、興奮していた。
「こんなおいしい場面に出くわすとは! 明日のトップ記事はこれで決まりだな」
「令嬢とのダンス権――そんなものまで売り物になるなんて……」
「といっても、『バザーの女王』と呼ばれるような、人気の美人令嬢だからこそ、許される戯れだが」
「じゃあ、あの、みすぼらしい居候令嬢は――」
「誰からも『値付け』をされずに、『流札』だろうさ」
「それって……」
「ああ。これは売り物じゃない」
見世物だ。
値段が付かない者は『存在していない』ことと同じだった。
周囲の貴族たちの、クスクス、という残酷な嘲笑。
地面に転がるパイネは、朦朧とする意識の中で、叫んでいた。
(エミルウお嬢様……! やめて、誰か止めて……っ!)
アロンがしらけた手つきで、懐からコインを取り出す。
チャリン!
地面に投げ捨てられた銀貨が、おどけたような軌道で転がる。
エミルウの汚れた靴先で、表を向いた。
「……その女なら、こんなものだろう。夜明けまで踊ってやろうじゃないか」
会場が静まり返った。
銀貨一枚。
裏路地の娼婦も買えぬ額。
底の、底。
人間の、底値。
「先輩……銀貨一枚で一晩中ダンス、って……衆人環視の中でこんな値付けをされて、あの娘……」
「ああ。アロン=ガスマンの『玩具』、という烙印を押されたも同然だ……」
――あの居候令嬢に、未来はない。
この場の誰も、それを残酷とは思わなかった。
ただ、滑稽だと思った。
「銀貨一枚! ただいまの価格は、銀貨一枚ですわ! 他の紳士様、『応札』はございませんか!」
オリンゼのはしゃぐ声。
アロンがエミルウのストロベリーブロンドの髪を掴み、力づくで顔を向けさせる。
「痛っ……!」
――絶望が人間の貌をしている。
この瞬間がたまらない。
「エミルウ=スキャルファ。おまえはどんな壊れ方をするのか、楽しみだ」
虫けらをひねり殺す時の顔つき。
息が詰まる、香水と葉巻の臭み。
暴力のにおい。
エミルウの五感が、暗黒に堕ちそうになる。
地獄の刹那。
――ふっ、と。
『白檀』の香り。
遠のきかけた意識に、小さな灯が点る。
なにかが――来る。
髪を掴まれたまま、エミルウは顔を上げる。
人混みが、割れていた。
そこに、運命が立っていた。
運命は、異邦の青年の顔をしていた。




