第09話 金貨、500枚
チャリン、と。
乾いた音を立てて転がった、銀貨一枚。
それが、ガスマン公爵家の御曹司がエミルウにつけた『彼女の値段』だった。
――安い。
(だから、壊してもよいのだ)
アロン=ガスマンはそう教えられて育った。
ここに居合わせた紳士淑女、みな、そうだった。
その証拠。
慈善の市に、嘲笑が渦を巻いているではないか。
その渦の中心点にエミルウがいる。
生きるということは、値付けされることだった。
ぼさぼさ髪の奥で絶望に目を閉じた、その時。
「応札しよう」
声が、短く吼えた。
全員が見る。
黒い髪。
黒い瞳。
正礼装の、東方人の青年。
その後ろに。
明るい髪。
翡翠色の瞳。
遊牧民衣装の、帝国の麗人。
異界から現れたかのような二人の姿に、観衆は呼吸を忘れた。
(何者?)
異邦人の青年は、ゆっくりと、力強い足取りで歩いていく。
アロンがエミルウを組み敷いている、その場所へ。
あと三歩、の距離。
「東方の猿が、いま、なんと言った? 『応札する』、と言ったか?」
アロンが銀のステッキを青年の胸元に突きつける。
次の瞬間、ステッキは東方の青年の手の中にあった。
「なッ……!」
動転し、思わず自分の手の中を見た。
今度は東方の青年が、アロンの喉元にステッキを突きつける。
動けない。
麗人は、倒れているパイネを抱え起こしていた。
「大丈夫ですか?」
パイネは土と涙で汚れた顔で、麗人に哀願した。
「エミルウおじょうさまを……たすけて……」
頷いて、パイネの肩から静かに手を離す。
黒革の鞄を取り直し、東方の青年のもとへ歩いて行った。
麗人は、青年にだけ通じる『東方語』で、小さく問う。
『――本気ですか?』
青年が、短く、鋭く答える。
『ああ。手伝ってくれ』
麗人は、極彩色のフェザー・ヘッドドレスを脱いだ。
輝く美貌に、観衆は息を呑む。
その反応に、オリンゼの片頬が歪んだ。
「紳士淑女の皆様。お目にかかれて光栄です。自己紹介させていただきたい」
少女のような、少年のような、清らかなその声は、会場の隅にまで届くかのように響いた。
「そこな東方の男性は、シシトラ=リュウノス。リュウノス商会の頭目にして、移民街の王」
場内にどよめきが走る。
「我が名はリザイア。リュウノス商会の相談役を務めております」
リザイアは、ゆっくりと、カーテシー――そして、ボウ・アンド・スクレイプを決めた。
「そちらのご令嬢の『ダンス権』オークション――リュウノス商会も参加させていただく」
(馬鹿な!)
野次馬たちは、信じられない、という顔を見合わせる。
アロン=ガスマンの『値付け』の上を行くということは、公爵家への侮辱であった。
帝国で生きている人間なら、そんな真似をするはずがない。
リザイアがシシトラを見る。
シシトラは小さく頷く。
リザイアは諦めた。
(やれやれ)
ドズン!
リザイアは、提げていた黒革の鞄を、オリンゼのブースの上に置いた。
パチリ。パチリ。
留め金を外す。
ジャララララ……!
帝国の刻印が打たれた黄金が、黒い鞄の中から、流星群のように溢れだした。
会場が凍りついた。
沈黙。
「――金貨、500枚」
冷たく、重い声だった。
「『令嬢エミルウ=スキャルファのファースト・ダンス権』は、このシシトラ=リュウノスが買い取ろう」
咳払い一つ、聞こえない。
目の前の出来事が、理解できなかった。
金貨の山の輝きが、『幽囚姫』のタペストリーの光を食いつぶすように見えた。
アロンが沈黙を破った。
「貴様ァ! なんだ! いきなり横からしゃしゃり出てきやがって……!」
シシトラは、鼻で笑った。
「どうした? 公爵家のお坊ちゃんのお小遣いでは、銀貨一枚が精一杯か?」
シシトラは、地面に落ちている銀貨をつまみ上げ――頭の上にかざして、その場の全員に示す。
「ああ。そういえば。みなさん、この銀貨だが」
チ――ン!
親指で弾いた銀貨が光りながら宙を舞うのを、全員が思わず目で追いかけた。
その刹那。
シシトラの左手が動いた。
口を開けて銀貨のゆくえを追うアロンの鼻の下を、ステッキの先がしたたかに撃ち抜く。
「……があッ!」
経験したことのない激痛に、アロンは膝から崩れ落ちた。
銀貨が、チャリン、と地面に落ちる。
「お金でこんな風に遊んではいけない。――怪我をする」
シシトラがしらじらしい声でとぼける。
人々は、アロンが倒れていることに気がついた。
リザイア以外の誰も、シシトラの電光石火の一撃を見ていない。
「どうやら、ガスマンさんは白旗を掲げたようですね。オークションは終了だ」
銀貨一枚から、金貨500枚へ。
エミルウの値段は、大きく跳ねた。
シシトラは、アロンを見下ろしながら、囁いた。
「お屋敷に帰って、パパに言いつけてこいよ。弁護士でもかまわないぜ」
悶絶するアロンの身体の上に、ステッキをそっと置く。
シシトラはゆっくりとエミルウの目の前まで歩み寄っていた。
(あ……)
エミルウの『見える距離』にまで、彼が踏み込んでくる。
夜の闇を固めたような漆黒の髪。
鋭く深い黒曜石の瞳。
黒い狼。
シシトラは、怯えてすくみ上がるエミルウの前に、膝をつく。
彼女と同じ目線になり――声をかけた。
琥珀色の瞳が、揺れている。
「大丈夫ですか? お怪我は――」
エミルウが手を差し出したら、その手を取って、引き上げるつもりだった。
しかし、彼女は、自分の両手を分厚い麻のエプロンの下に隠してしまった。
無数の針だこと傷にまみれた手指を、見られたくなかったのだ。
(私の手は、令嬢の手ではないもの……この手を見れば、きっとこの方も、私を軽蔑するわ……)
震えて顔を伏せるエミルウ。
感謝、すべきなのだろうか。
助けられることは、初めて知らない恐怖だった。
どうしてこの人がこんなにも怖いのだろう。
アロン=ガスマンは、エミルウを安く壊そうとした。
シシトラ=リュウノスは、エミルウを高く奪い直した。
救われたのではない。
買われたのだ。
金貨500枚。
それが、エミルウの新しい値段だった。
(私の人生は――この方のものになってしまった、の……?)
歯の根が震えるのをこらえて、もう一度、彼の顔を見る。
焦点が合わない。
(この方の視線は、たぶん、とても優しい……)
それなのに。
逃げられない。
エミルウは、彼の姿をはっきりと見るために。
目を細めて、睨みつけるような表情になった。
(どうしてそんな目で俺を睨む――?)
シシトラは一瞬たじろいだ。
(移民の男に『買われた』ことが、そんなに嫌か――?)
――そんな顔が見たかったわけではなかった。
「紳士様!」
パイネがシシトラに呼びかけた。
「親切な紳士様。エミルウお嬢様を助けてくださって、ありがとうございます……!」
涙声でお礼を述べるパイネ。
パイネが介添えし、エミルウはふらつきながら立ち上がった。
「私は、紳士などではない」
シシトラは平静を装って答えた。
心の中には、激しい後悔があった。
(――助けたわけでもない)
値付けしただけだ。
そのやり方しか知らなかったから。
(思い上がっていた――俺は、どうかしていた)
しかし、それでも。
この顛末を見守っている野次馬たちに、知らしめなければならないことがある。
シシトラは優雅な微笑を作り、エミルウに優しく声をかけた。
というより、野次馬たちに聞かせた。
「エミルウ=スキャルファ嬢。あなたとの『ファースト・ダンスの権利』は、私が購入した」
エミルウは、聞くしかない。
「誰にも売らずに、私が持っておく。いつか、この権利を行使させてもらいます」
それだけを言って、シシトラはリザイアのところへ歩み去っていった。
リザイアが、吹雪のような冷たい目でシシトラを見た。
(シシトラ。あなたらしくもない――しかし、『これ』はもう、なかったことにはならない)
ブースの前で棒立ちになっているオリンゼに向かって――
パチン!
リザイアは指を鳴らしてみせた。
ハッ、オリンゼは我に返る。
「オリンゼ=ヒュッカテ嬢。これはエミルウ=スキャルファ嬢の『売り上げ』です。事務局に提出してください」
金貨500枚の革鞄を揺すってみせると、リザイアはくるりと背を向けて、歩き出した。
顔面蒼白のオリンゼは、肩を震わせながら、金貨の山とエミルウの顔を交互に見た。
(……ありえない)
『氷の美姫』と謳われた公爵令嬢のはにかんだ微笑にも。
『帝国の太陽』と愛された侯爵令嬢のファースト・ダンスにも。
金貨500枚などという値がついたことはない。
(屋根裏部屋の居候が……『ファンシー・フェアの伝説』になる。ってこと――!?)
そんなことは。
許されない。
エミルウは、アロン=ガスマンの玩具として、壊れるまで弄ばれるはずだった。
それなのに。
(これは、何かの間違いだわ)
間違いは、正されなければならない。
エミルウの処刑場は――ファンシー・フェア会場ではない。
気まぐれな救世主の闖入など望むべくもない――ヒュッカテ男爵邸。
そこが、エミルウが人間でいられる、最後の場所になる。
次回投稿は2026年5月10日(日)です。




