第10話 あなたに神のお恵みを
リュウノス商会の馬車は、帝都の石畳の上で、異彩を放っていた。
漆黒のタウンチャリオット。
真紅のハンマークロス。
扉に刻まれた、『龍』の紋章。
皇室専用馬車もかくや、という存在感。
ファンシー・フェアの狂騒が嘘だったかのように、馬車の中は静まり返っている。
最高級のベルベットとシルクがあしらわれた座席に。
みすぼらしい灰色のウールドレスを着たエミルウ。
彼女を守るように寄り添うメイドのパイネ。
二人の少女が、肩を寄せて震えていた。
向かいの席。
『地獄のオークション』で金貨500枚の鞄を叩きつけた麗人、リザイアが座る。
馬車が走り出してから、何も言わない。
リザイアはすでに示した。
言うべきことはすべて、エミルウの側にある。
沈黙に押し潰されて、エミルウが震える唇で尋ねた。
「あの……リュウノス様、は……」
「代表は、会場に残っています。主催者に『挨拶』しなければなりませんので」
金貨500枚を振り回す圧倒的資力。
フェアの主催者――利害関係者との関係構築力。
リュウノス商会の実力の底知れなさに、エミルウは身震いがした。
リザイアが翡翠色の瞳でこちらを見ている。
その視線に、親愛の情――らしいものが見える。
(リザイア様。この方には、人の心を溶かしてしまう魅力がある――)
エミルウには、それが、怖い。
自分を買った、この人たちのことを。
好きになってしまいそうで。
「それに――『あんなこと』があった後です」
リザイアの声に、優しさの色が付く。
「今のあなたたちには、男性の目がない場所で、心を落ち着ける時間が必要でしょう?」
(! ああ……)
守られている――。
はじめて、そう思えた。
エミルウとパイネの目に、心弛びの涙が浮かんだ。
「ありがとう、ございます……」
「エミルウ=スキャルファ様。あなたに伝えておきたいことがあります」
「……はい」
「あなたは、私たちに助けられたと思っていますか」
(それは――。だって、そうだもの……)
「違います。あなたは売りに出されて、私たちはそれを買った。それだけです」
リザイアは、わざと、声を落とした。
「私たちも、アロン=ガスマンと同類です。だから、感謝など要りません」
エミルウは、じっと、リザイアを見た。
(リザイア様は、嘘を言っている)
エミルウは視線を外さない。
(もしかして――。私のため……?)
細い目で、睨むように。
リザイアの真意を見抜こうと、懸命に、見る。
エミルウの視線に、リザイアは落ち着かなくなってきた。
(なんでしょう。この『お嬢様』は)
『対人』と『社交』には絶対の自信がある。
そうでなければ、リュウノス商会の相談役は務まらない。
しかし、目の前の居候令嬢には。
機械仕掛けのように完璧なリザイアの調子を狂わせる、なにかがあった。
パイネは、お仕着せの袖口で涙をぬぐいながら、考えていた。
(リザイア様って、女性なのかしら。男性なのかしら)
ふわりと漂う胸のすくような柑橘系の香り。
(……どっちでもいっか! なんか、いい匂いがするし!)
◇
「シシトラ=リュウノスさん。ファンシー・フェアは無事、閉幕しました」
ポキュパイン伯爵夫人は、感情の読めない顔で言う。
「――はい」
シシトラも、平坦な声で答える。
「残念なことに、売れ残りがあります。それも、たくさん。これらを全部、お買い上げいただけるのですよね?」
「もちろん。今から小切手を書きますので――」
「小切手?!」
伯爵夫人の、わざとらしい驚き声。
「お約束は『金貨500枚』だったのでは?」
「ええ。ですので、金500を、小切手で」
「話が違います」
――これは、想定外だった。
「金貨500枚。あの黄金の輝きを、運営委員会に――来場者全員に、見せつけてやれると思ったのに」
シシトラは、つとめて笑顔を保って言った。
「伯爵夫人。現金だろうと小切手だろうと、お金はお金です」
「では、なぜ、小切手ではなく金貨を『見せ金』にしたの?」
二の句が継げない。
(紙切れ一枚よりも、黄金の山の方が、見る者の欲望を煽り立ててくれるから――)
とは、言えぬ。
(虫も殺せぬような顔をして、この伯爵夫人は――)
ほんの少しでも隙を見つければ、指を深く突っ込んで、容赦なくこじる。
それでこそ、貴族である。
ポキュパイン伯爵夫人の後ろのテーブルが、シシトラの視野の隅に入った。
積まれた硬貨の壁。
数えられるのを待っている紙幣の束。
黒革の大きな鞄。
――あの『オークション』で叩きつけてきた、金貨500枚が、そこにある。
シシトラの黒い瞳から、光が消えた。
(やられたな)
主催者である伯爵夫人は、『オークション』の顛末を承知している。
(私に渡す予定だったお金を、他の用事に使い込んで。慌てて、帳尻合わせをしようとしているのね)
ならば、この場は、理屈では収められない。
シシトラは、ひと呼吸のうちに小切手を書き、伯爵夫人に差し出した。
手に取り、数字を見る。
一瞬の沈黙。
思わず声に出た。
「――金1000枚分!?」
ポキュパイン伯爵夫人の顔がほころぶ。
「シシトラ=リュウノスさん。あなたに神のお恵みを――!」
シシトラは、涼しい笑顔の裏で、途方に暮れていた。
エミルウが現れたために、商会の利益が吹き飛んだ。
(……親父に殺されるな、こりゃ)
笑顔を作るのがこんなにも苦しいのは、生まれて初めてだった。
◇
貴族街。
馬車がヒュッカテ男爵家の近くに差し掛かった時。
リザイアは白蝶貝の名刺入れから、一枚の分厚い名刺を取り出した。
漆黒に、『龍』の紋章が押された、リュウノス商会の名刺。
「エミルウお嬢様」
「……はい」
「代表の今日の振る舞いのせいで、あなたが理不尽に脅かされるようなことがあれば――その時は、迷わずそこの住所を頼ってください」
リザイアの白く長く美しい指が、名刺を差し出す。
エミルウは身体を硬直させた。
名刺を受け取るためには、エプロンの下に隠した『醜い』手を出さなければならない。
見られるのが、怖かった。
――蔑まれたくない――
リザイアの指先で、名刺が宙吊りになる。
(――なぜ、拒むのですか?)
微笑は崩さない。
指先は震える。
エミルウは、受け取ろうとしない。
(まったく。この『お嬢様』は――読めない!)
動けないエミルウの『理由』を知っている者がいる。
「リザイア様! あたしが……私が、エミルウお嬢様に代わって、お預かりいたします……!」
「あなたのお名前は?」
「……パイネと申します」
「パイネ。それでは、名刺はあなたに託します」
震える両手で、聖体を拝領するように、名刺を恭しく受け取った。
リザイアは、包み込むように柔らかな声で言った。
「みんなが笑っている時――たとえ一人でも怒ることができる者は、真実、勇気がある人間です」
一瞬、なにを言われているのか、わからなかった。
「パイネ。私はあなたを尊敬しますよ」
ファンシー・フェアで、エミルウのために飛び出したパイネのちっぽけな蛮勇を、リザイアが肯定してくれた。
なにかを言おうとして、言葉にならなかった。
(あああ……!)
パイネの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「……パイネ。ありがとう……」
エミルウも涙を流し、パイネにしがみつく。
受け取った名刺を、エプロンの胸の奥深くに。
絶対に、誰にも奪われない場所はどこだ?
――心臓のすぐそばの内ポケットに。
パイネは、そっと、決意とともに、しまい込んだ。
忠誠心は、見つけられた。
パイネの生き方が、決まってしまった。
(もし、ヒュッカテ男爵家が、エミルウお嬢様に危害を加えるようなことがあれば)
馬車が、静かに止まる。
(その時は私が、この命に代えても、エミルウお嬢様を、リュウノス商会の元へ逃がすんだわ――!)
のちに、リザイアは後悔する。
エミルウとパイネ。
このいたいけな主従を、馬車から降ろしてはならなかったのだ、と。
本当の地獄は――これからだった。




