第11話 買って、買って、買いまくれ
「移民上がりの野良犬と、薄汚い小間使いの女が! よくも! よくも! よくも!」
アロン=ガスマンは、歯ぎしりの激しさで、自分の奥歯が欠ける音を聞いた。
手の中には、ゴシップ新聞が握りしめられている。
読者の下世話な好奇心を煽る、毒々しい大文字の見出し。
【ファンシー・フェアは伝説となった】
【東方の貴公子、公爵家令息の傲慢を打ち砕く】
【世紀の大逆転! 銀貨1枚が金貨500枚に】
ここは、帝都の中心、王立証券取引所。
1階の広大な立会場では、何百人もの投資家や仲買人たちが発する、鼓膜を破らんばかりの怒号と歓声が渦巻いていた。
その狂騒を真上から見下ろす、VIP専用のバルコニー席。
ここだけが、別の世界のように静まり返っている。
床に敷き詰められた豪奢なペルシャ絨毯は、騒音を吸う。
防音ガラスの向こうの怒号は、遠くの羽虫の羽音ほどにしか聞こえない。
バルコニーには、アロンの怒鳴り声だけが時折響いていた。
「どこから見ていたんだ記者ども! 卑怯な覗き屋が! 他人の噂話で飯を食っている寄生虫どもが!」
最高級のシルクのクラヴァットを苛立たしげに緩めるアロン。
額には脂汗が。
こめかみには青い筋が浮いていた。
「アロン。紅茶を飲んで、落ち着きなさい」
穏やかで、甘ったるい声。
アロンの対面に座る男――父親であるガスマン公爵。
美しい金髪。
大きな青い瞳。
息子と瓜二つの顔立ちをしていた。
しかし、纏う空気はまったく違う。
息子の見苦しい癇癪を前にしても、公爵の感情にはさざ波ひとつ立たないように見える。
彫刻のように整った、宗教画のように神秘的な微笑。
その微笑が、一瞬たりとも崩れない。
そして、その青い目。
決して、まばたきをしない目。
実の息子のアロンですら、父の視線を受け止め続けることはできない。
「アロン。――ここからよく見るがいい」
公爵は静かに立ち上がり、眼下で蠢く群衆を見下ろした。
「下で喚いている彼らは、自分の意思で生きているつもりでいるのだろう。だが、私がここで――」
チンッ。
と。
公爵の指にはめられた巨大なサファイアの指輪が、クリスタルグラスを軽く弾いた。
「たった一つ合図を出せば、相場はひっくり返る。彼らの半分は明日、首を括ることになるのだよ」
アロンが息を呑む。
「世界とは、そういうふうにできている」
公爵はソファ席に戻ると、優雅な手つきでティーカップに角砂糖を落とし始めた。
一つ、
二つ、
三つ、
四つ、……。
紅茶が溢れそうになるほどに馬鹿げた量の砂糖を、穏やかな微笑みのまま溶かしていく。
その甘ったるさを想像しただけで、アロンは胃の奥がよじれるのを感じた。
「アロン。おまえは、帝国の支配者たる、ガスマンの血を引いている」
ティーカップを、ひとすすり。
紅茶は、もはや液体の形をしていなかった。
「狼狽えるのは、下にいる連中の仕事だよ。アロン。おまえはもっと、別のことをするために生まれてきたのだ」
ずっしりと糖蜜を吸い込んだ重いケーキを口に運びながら、公爵は愛の言葉でも囁くように言った。
「――この世界を、味わい尽くすために」
アロンの喉が、ごくり、と鳴った。
「あくせくと手や指を動かして、ものを作り、小銭を得て、死んでいく。なんとちっぽけで、いじらしい人生だろうか」
公爵の青い瞳が、キラキラと光る。
「だが、私たちの財産は違う。この『指先』だよ、アロン」
公爵は、青い血が透けて見えるような白皙の長い指を、ゆらり、と持ち上げた。
「この指がペンを持ち、小切手に名前と数字を書けば、どこでも、何でも買えるのだ」
再び、取引所のフロアを見下ろす。
「ここから見えているのは世界そのものだよ。帝国の富も、植民地の命も、すべてがここで売り買いされている。私たちガスマンに、買えないものなど存在しない」
「……はい、父上」
「神は私たちに命じているのだ。『買って、買って、買いまくれ』とね」
買えるものだけが、現実なのだ。
公爵は、テーブルの上のゴシップ新聞を広げ直した。
ふん、ふむ、と、頷きながら、見出しを追う。
「アロン。お前に恥をかかせたという、この、男爵家の生意気な小間使い――」
「はい……」
「もう一度、値段を付け直してきなさい」
「……は?」
(でも、その女には、いま、金貨500枚の値札が付いているのです――)
父親が言わんとすることが、アロンには理解できなかった。
ガスマン公爵は、慈愛の微笑で、息子に道を示した。
「アロン。いま、その娘を所有しているのは誰かね?」
(所有者――あの、移民の野良犬ではないのか?)
いや。
そうではない。
あの女は、――男爵家の『備品』だ。
借金まみれと評判の、愚かな三流貴族の持ち物だ。
「――ヒュッカテ男爵、です」
「では、所有主と話をするがいい」
その言葉に、アロンの心を焼いていた屈辱と焦燥が、一瞬で、どす黒い喜びに反転した。
そうだ。自分は『ガスマン家』なのだ。
勝てる形に、世界を作り直せばいい。
金貨500枚?
そんなものが通じるのは、あの会場の中だけのこと。
こちらはそれを遥かに凌駕する『権力』で、あの女を改めて買い叩く。
そして、もう一度、あの女の絶望の貌を見るのだ。
アロンは背筋を這い上がる官能に、ぞくぞくとした。
「ありがとうございます。父上」
アロンの中で、絵図が整った。
いつのまにか脂汗がすっかり引いている。
父親とそっくりの、整っているが酷薄な笑みが浮かんでいた。
公爵の青い瞳が、ひときわ大きくなった。
「アロン。いい機会だ。狂った価格を、正しい順番の通りに並べ直すことを、学んでおくのだ」
順番通りに整列させること、それが支配である。
順番通りに整列すること。それが倫理である。
一度、地獄を脱したはずのエミルウに、再び災厄が近づいていた。
今度は、不良貴族ではない。
『帝国のルール』そのものが、やってくる。
次回投稿は2026年5月11日(月)です。




