第12話 慈悲
ヒュッカテ男爵家の冷え切った食堂ホール。
紙が引き裂かれる音。
金切り声が響き渡る。
「今年のファンシー・フェアは、私が! 私と『幽囚姫』が主役になるはずだったのよ!」
引き裂かれた帝都の朝刊――【屋根裏部屋令嬢、金貨500枚で落札される】の大見出しが見える。
それを、オリンゼが地団駄で、ぐしゃぐしゃに踏み躙った。
そのヒステリーの嵐の中心で、エミルウは息を殺して立ちつくしている。
あろうことか――靴と靴下を奪われ、氷のように冷たい大理石の床の上に『裸足』で立たされていた。
壁際では、使用人たちが、一列に並ばされている。
この『見せしめ』を見学させるために。
全員が確信していた。
(これから始まるのは、まだ誰も見たことがない『残酷』だ)
「それを……! この薄汚いドブネズミが!」
エミルウを指差し、絶叫する。
「どこから入り込んだか分からない東方の野良犬とつるんで、破廉恥な競売騒ぎを起こして! 私の名誉を泥で汚したのよぉっ!」
オリンゼは顔を覆って泣き崩れた。
「お父様! エミルウを罰してください! 私の受けた屈辱を思い知らせてちょうだい!」
食卓の上座でイライラと葉巻を吹かしていた男爵が、ゆっくりと立ち上がった。
その手には、しなりを帯びた革の馬車鞭が握られている。
「……エミルウ。両手を前に出しなさい。そうだ、私が叩きやすいよう、まっすぐに差し出すのだ」
「旦那様! どうか、どうかお許しください!」
悲痛な叫びとともに、列から一人のメイドが飛び出した。
「……誰だ、お前は」
「新人メイドのパイネと申します! 旦那様、エミルウお嬢様には何の落ち度もございません! 悪いのはあの、無法な公爵令息で……っ!」
パイネの脳裏に、あの薄暗い屋根裏部屋で、瞬きする間にドレスを縫い合わせたエミルウの『指先』がよぎる。
(エミルウお嬢様の手は、黄金を紡ぎ出す天使の手……! そんな鞭で、決して傷つけさせてはならないわ……!)
「お嬢様の代わりに……私の手を、打ってください!」
パイネは恐怖を噛み殺し、エミルウを背に庇うようにして、自分の両手をぎゅっと前に差し出した。
「パイネ! いけないわ、下がって!」
エミルウが悲鳴を上げるが、パイネは動かない。
その胸の奥には、リュウノス商会から託された『名刺』が、お守りのように熱く貼り付いていた。
「……ふふっ、あはははは!」
オリンゼの歪んだせせら笑いが響く。
「ドブネズミがドブネズミを庇っているわ。なんて醜くて、滑稽なんでしょう!」
「……お嬢様? お嬢様、だと?」
男爵の陰険な目が、限界まで見開かれた。
ガリガリッ、と歯軋りする音が、広いホールに嫌な響きを落とす。
「この屋敷で『お嬢様』と呼んでいいのは、我が娘オリンゼだけだ! この無駄飯食らいの穀潰しは、ヒュッカテ家の所有物に過ぎん!」
男爵はパイネの前に詰め寄り、怒りに任せて無慈悲に鞭を振り上げた。
エミルウが叫ぶ。
「旦那様! お慈悲を!」
「慈悲だと!? 私が安くない金を遣って貴様らを飼っているのは、慈悲などというくだらないものを見せびらかすためだと思っているのかッ!」
ヒュンッ、と空気を裂く音が響き、エミルウが目を閉じた、その瞬間。
「旦那様! ガスマン公爵家より、急ぎの書簡が届いております!!」
バンッ! と扉が開き、顔を青ざめさせた執事が転がり込んできた。
「……ガ、ガスマン公爵家、だと……!?」
振り下ろそうとした鞭がピタリと止まる。
男爵の顔から一瞬にして血の気が引いた。
肩で激しく息をしながら、男爵は鞭を床に放り投げ、震える手で封蝋を引きちぎった。
(……終わった)
(公爵家の嫡男に、我が家のブースで大恥をかかせてしまったのだ……)
(ガスマン公爵から見れば、ヒュッカテ男爵家など吹けば飛ぶような塵芥……!)
(これは破滅の宣告か――それとも莫大な慰謝料の請求書か……!?)
脂汗を流しながら、男爵は食い入るように手紙の文面を目で追う。
一度、
二度。
何度も読み返した末……男爵の肩が、不気味に震え始めた。
「……クカカカカッ!! あーっはっはっはははは!!」
突然の哄笑。
狂ったように笑い出す男爵に、オリンゼもエミルウも息を呑んで身構えた。
「こんな美味い話が、この世にあるとはな!」
恐怖で青ざめていた男爵の顔が、歓喜で赤く染まって、歪む。
「おい! エミルウ=スキャルファ! 居候で穀潰しのお前に、見ろ、輝かしい未来が訪れたぞ!」
その手紙をビシッとエミルウの鼻先に突きつけた。
「ガスマン公爵家の令息、アロン=ガスマン様からだ! エミルウ、お前を『愛妾』として直々に迎え入れたいとよ!!」
男爵の後ろで、オリンゼは驚愕していた。
ファンシー・フェアで遭遇した、あの『歩く災厄』。
『愛妾』などと、甘い扱いをするわけがない。
エミルウは、『壊してもいいおもちゃ』として、徹底的に『試される』のだ。
その行く末を想像して、オリンゼは頬のゆるみを止められなかった。
(でも――無償でこき使える、都合のいい女がいなくなるのは痛いわ……新しい『代作屋』を探さなくっちゃね)
価値のない娘が、価値を持つ『通貨』に変わった瞬間。
それは栄達などではない。
今の所有者から、新しい所有者への、所有権の更新手続きだった。
氷のように冷たい大理石。
エミルウの足の裏の感覚が消えていく。
立っているのか、落ちているのかすらわからない。
ここが地獄だと思っていた。
だが、地獄にはまだ底があったのだ。
パイネは、胸の奥に隠した『名刺』を強く握りしめて――決意した。
次回投稿は2026年5月12日(火)です。




