第07話 作者は、この私ですわ!
男たちはオリンゼを取り囲み、その美貌と、『幽囚姫』の出来栄えを持て囃していた。
むせ返るような香水と葉巻の匂い。
ふと、空気が変わった。
すっと鼻腔を抜ける、深く静謐な木の香り。
帝国の社交界では決して嗅ぐことのない、異国の『白檀』の香りだった。
木箱の陰に隠れていたエミルウがハッとして顔を上げた瞬間。
周囲の喧騒の中に、深く、静かな、しかし熱を持った男の声が響いた。
『……素晴らしい』
(え……? 外国語……?)
目を細め、ぼさぼさ髪の奥から、声の主の姿を追う。
しかし、彼女のぼやけた視界に映るのは。
帝国人ではついぞ見かけない、漆黒の髪を持った、長身の逞しいシルエットだけだった。
『幽囚姫』のタペストリーを見つめながら、黒い影が、再び――
今度は帝国語で、小さく呟いた。
「――ひと針ひと針に縫い込められた『夜』の深さが、ただごとではない──」
エミルウは驚愕した。
秘密が解錠されようとしている。
技巧や構図を誉めそやす声は、今日、何度も聞いた。
しかし、作者の『魂』の話をしているのは、この青年だけだった。
彼は作品を見ているのではなく、その『作り方』を見ていた。
(この、異国の殿方の心を……『私の世界』が、叩いているの……?)
エミルウは、息を呑んだ。
青年の視線が、タペストリーからゆっくりと外れる。
そして、なにかを探すように、周囲を見回した。
その目が――木箱の裏側に身をひそめているエミルウを見た。
ような、気がした。
エミルウにはわからない。
(見えない……)
彼は、暗がりに立つ人影に向かって、声をかけた。
「こんにちは。突然の無礼をお許しください。このタペストリーの作者の方は、ご在席ですか」
その声。
周囲の雑音をかき消すほどによく通る。
意志の力が乗った声。
ドクン。
エミルウの心臓が、別の生き物のように跳ねた。
見られた。
話しかけられた。
薄汚れたドレスとエプロンの、下働きの格好をした私に。
今。
『背景』ではなく、人間として扱われている――。
冷たい指先に血が通う思いがした。
(作者を、とおっしゃったわ。……私を、呼んでいる……!)
暗がりから光の下へ。
エミルウが思わず、一歩を踏み出そうとした――その瞬間。
「はいっ。作者は、この私ですわ!」
オリンゼが、頬を紅潮させて男の前に進み出た。
エミルウの細い肩を突き飛ばして、青年の視界の正面に割り込んできたのだ。
再び、暗がりの中へ押し戻されるエミルウ。
オリンゼは、目の前に立つ男の黒髪と黒い瞳に気づく。
――東方人?
戸惑いの表情を浮かべる。
――しかし、身なりは上等!
一瞬の計算。
表情を、淑やかな微笑に差し替えた。
「ありがとうございます、異国の紳士様。この『幽囚姫』は、私が半年かけて縫い上げましたのよ」
真玉のように張りのある両手を、胸の前で優雅に組んでみせる。
異邦の男は、オリンゼの顔ではなく、その『手』へ、ゆっくりと視線を下ろしていった。
呼吸にして、五つ分。
沈黙が流れる。
彼は『作者』ではなく、『作者の痕跡』を見ようとしていた。
オリンゼの手。
針だこもない、蜜蝋の匂い一つしない、世間知らずの令嬢の手。
「……あなたが、作者、と?」
男の声から、先ほどまでの熱情が、潮が引くように消え去っていた。
「ええ、そうですわ!」
「……そうですか。それは素晴らしい」
興ざめした声。
(……ああ)
エミルウはうなだれ、麻のエプロンをギュッと握りしめた。
(あの人は、オリンゼを作者だと信じてしまったのね。……そして、あっさりと興味を失ったのだわ)
「今後のご活躍をお祈りします。それでは」
(この男……私のことを見ていない?)
再び、白檀の香りがふわりと舞う。
漆黒のシルエットは、オリンゼを一度も振り返ることなく、人混みの中へと消えていった。
「なによ、あの東方人。この私が、せっかく相手をしてあげたのに、失礼しちゃうわ!」
不満げに鼻を鳴らすオリンゼの背後。
エミルウは、今日、一番、悲しかった。
世間というものは、『誰が作ったか』ではなく、『誰の所有物か』しか見ないのだ。
(『私の世界』に、他人の心を繋ぎ止める力なんて……最初から、ないのよ)
一瞬だけ触れた、白檀の香り。
そして。
『私の世界』を理解してくれたかもしれない、唯一の人。
それはあっけなく消え去ってしまった。
オリンゼは、立ちつくすエミルウに気がついた。
「……なにをぼさっと突っ立っているの? 奥に引っ込んでなさい」
首をすくめて、ブースの奥の暗がりへ戻ろうとするエミルウの手指が目に入った。
「……汚ったない指……」
針で刺すようなオリンゼの言葉。
エミルウの足が、地面に縫い付けられる。
「その醜い指を見たら、お客様が逃げてしまうわ。エミルウ。そこから絶対に動いては駄目よ」
「……はい……」
――エミルウは、両手を麻のエプロンの下に隠した。
『作品』は見られた。
『作者』は、まだ見つけられていなかった。
そして、いま。
凶悪な捕食者が、『幽囚姫』のブースに近づきつつあった。
エミルウは見つけられる。
ただし、『作者』としてではなく。
祝祭の犠牲として。




