第05話 東方から来た異邦人
華やかなファンシー・フェアの喧騒から遠く離れた、会場の最奥。
豪華な天幕が張られた『運営本部』の奥深くに鎮座する、このフェアの主催者・ポキュパイン伯爵夫人の前に。
一つ、また一つと、目も眩むような『秘宝』が並べられていく。
「これは、遥か遠き東方大陸から運ばれた、超特級の紅茶葉です」
小さな銀の器。
「あちらの王族のみが口にすることを許され、国外へ持ち出した者は死罪と定められている幻の品……」
沈黙。
「銘は『鳳凰』。この帝国において、この香りを嗅ぐのは、伯爵夫人、あなたが初めてでしょう」
「まぁ……」
伯爵夫人は、巨大なエメラルドの指輪をはめた指で、銀の器の中から黄金色の茶葉を一つまみし、鼻先に近づけた。
ズシンッ、と脳の髄まで響くような、経験したことのない深く甘い香り。
夫人は思わず青い目を見開き、陶然と息を吐いた。
「そしてこちらは……深山の少数民族だけが織りなすことのできる、絹の芸術です」
虹のような極彩色の地布に、真珠色に輝く絹糸が縦横無尽に這い回る刺繍。
伯爵夫人が纏う深いボルドー色のドレスに重ねてみると、その刺繍は命を得たようにさらに輝きを増した。
手で撫でてみる。
これほどの『仕事』が施されているというのに、布の表面には微かな凹凸すら感じられない。
夫人は、恍惚の表情を浮かべていた。
「伯爵夫人。これらはすべて、あなたに差し上げます」
ポキュパイン伯爵夫人は顔を上げ、改めて目の前の青年を見つめた。
夜の海のように艶やかな黒髪。
すべてを見透かすような黒曜石の瞳。
口元には優雅な微笑みを浮かべているが――
ナイフで切り出したような鋭い眦には、隠しきれない猛獣の気配が漂っている。
品の良い上質な漆黒のフロックコートには、東方の神獣である『龍』の刺繍。
彼の身体からは、ひどく思慮深い白檀の香りが漂っていた。
帝国の男性とは何もかもが違う、異質な存在。
黒い狼。
伯爵夫人は、異邦にルーツを持つこの初対面の青年に、抗いようもなく魅了されていた。
(なんて美しく、危険な男なのかしら。東方の商人だと名乗っているけれど、まるで一国の将軍のような支配力だわ……)
机の上に置かれた名刺――黒地に金で龍の紋章があしらわれたそれ――をもう一度見下ろし、そこに記された名前を声に出す。
「……シシトラ=リュウノス様」
「はい」
「ご来訪の目的を教えていただけますか? 初対面の私に、皇太后陛下すらお持ちでないような宝物を無償で献上する……その理由が分かりませんわ」
「あなたが、このファンシー・フェアの『主催者』だからです」
「……これらの宝物は、私個人へではなく、フェアへの『慈善の寄付』だということ?」
シシトラの隣に腰掛けていた『美人』が、フッ……と笑って、口を開いた。
「いいえ。これらはあくまで、初対面の私たちに貴重なお時間を割いてくださったことへの、ささやかな手土産に過ぎません。……あなたにお願いしたい『本題』は、別にございます」
その言葉と共に、柑橘系の爽やかな香りがフワリと漂う。
(女性とばかり思っていたけれど、少年のような声……。この方は、男性なの? それとも女性なの?)
戸惑う夫人は、美人から渡されたもう一枚の黒い名刺を見た。
そこには家名すらなく、ただ『リザイア』とだけ記されている。
波打つ黄金色の髪。
白く透き通る肌。
翡翠色の瞳には氷のような理知の光が宿っている。
笑顔を浮かべているが、隙というものがまったく見えない。
社交界のいかなる貴婦人も霞むほどの美貌。
異国の遊牧民のような風変わりな衣装。
(帝国人のようだけれど……こんなにも美しい人間が、なぜ東方の青年と行動を共にしているの?)
シシトラとリザイア。
この二人の前では、社交界屈指の権力者であるポキュパイン伯爵夫人すら、まるで蛇に睨まれた蛙のようにペースを握られていた。
「あなたが主催するこのファンシー・フェアを……私たちが『買い上げたい』のです」
シシトラが、静かに本題を切り出した。
「……何を、おっしゃっているのかしら?」
「貧者への慈善を募る一大イベントを運営するのは、並大抵の苦労ではない」
シシトラが、右手の指をひとつずつ折っていく。
「会場の手配、貴族たちへの根回し……そして何より、このフェアがどれだけの売り上げを叩き出し、どれほどの『徳』を示すことができたのか」
シシトラが、親しげな微笑を浮かべる。
「社交界も世間も、そこだけを注視している」
シシトラは、そっと一部の古い社交新聞をテーブルに置いた。
数ヶ月前の記事。
そこには、当時開催されたファンシー・フェアが『歴史的大成功』に終わったと、華々しく報じられていた。
それを見た瞬間、伯爵夫人の顔つきがピクリと険しくなる。
リザイアが、人懐っこい微笑みで言葉を継いだ。
「この時のフェアの主催者は、ドッケン子爵夫人でした」
その名前。
「……ポキュパイン伯爵夫人。あなたの幼馴染であり――長年の『犬猿の仲』の」
「……ッ!」
夫人は、扇子を握る手にギリッと力を込め、リザイアを睨みつけた。
「フェアの成功とは、即ち『売り上げの数字』です」
今度はシシトラが言葉を継いだ。
「集客力と寄付額の多さは、主催者が持つ『社交界での支配力』のスコアに他ならない」
シシトラは、夫人の瞳の奥にある真っ黒な虚栄心と嫉妬心を、的確に、残酷にえぐり出した。
慈善とは、この世界で最も洗練された競争だった。
「ポキュパイン伯爵夫人。あなたの『パワー』は……ドッケン子爵夫人と比べて、いかがですか?」
シシトラは、囁くように訊いた。
「今回のフェアで、あの忌々しいライバルを『完全に叩き潰す』ことはできそうですか?」
(なんて爽やかな微笑みで……なんて嫌なところを突いてくる男なの……!)
夫人は屈辱に唇を噛んだ。
しかし、なぜか彼から目を逸らすことができない。
(でも……なんて魅力的な男なのかしら。この生意気な異邦人の言葉の続きを聞かずにはいられない……!)
「……あなたたちが、私を『勝たせてくれる』とでも言うの?」
「ええ、必ず」
「……どうやって?」
「だから、私たちが買うのです。あなたのファンシー・フェアを『丸ごと』」
リザイアが、足元にあった巨大な黒革のバッグをテーブルの上に持ち上げ、重々しい金属の留め金を外した。
ジャラァァッ……!!
バッグの中から、目が眩むような黄金の星々が、雪崩を打ってテーブルの上に溢れ出した。
「き、金貨……っ!?」
「金貨500枚あります」
シシトラは、黄金の山を前にして、堂々と宣言した。
「本日の閉幕時間になっても売れ残っている品物は、私たちがこの金で『すべて』買い取りましょう」
「なんですって……?」
「会場の外の質屋に持っていっても一文にもならないような令嬢たちのガラクタも、一枚残らずすべて、です」
金貨の一枚をつまみ上げるシシトラ。
「……『売れ残りゼロの完売御礼』。しかも、ライバルのドッケン子爵夫人を遥かに凌ぐ、圧倒的な寄付金総額」
金貨の表側を伯爵夫人に見えるように示す。
「あなたの名は、社交界の伝説として永遠に語り継がれるでしょうね」
伯爵夫人は、目の前の黄金と、甘すぎる誘惑に頭がクラクラと眩んでいた。
「……そんなことをして……あなたたちに、何の得があるというの……?」
シシトラ=リュウノスとリザイアは顔を見合わせ――人をとろかすような『悪徳の笑顔』を夫人に向けた。
「実は、ポキュパイン大臣――伯爵夫人の旦那様に」
声を低く落として、告げた。
「我が商会の事業で少々お力添えいただきたい件がございまして……」
ポキュパイン伯爵夫人は陥落した。
東方から来た異邦人による『ファンシー・フェア乗っ取り』は、完璧な筋書き通りに完了する――はずだった。
誰が知るだろう。
この数時間後。
慈善を売り買いする市場で、いままさに売り飛ばされようとしている一人の「やせっぽちの屋根裏令嬢」のために。
シシトラの入念な計画と金貨500枚が、文字通り『消し飛んでしまう』ことになろうとは。




