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エミルウ ~屋根裏部屋の刺繍姫~  作者: 姫松チミノ
第3章 エミルウの世界(ラスト・ワルツ)
50/56

第45話 昼間っから……いいご身分ですな

読んでくださっている皆様。

心から、ありがとうございます。

最終回まで残り4話です。

 仲買人(なかがいにん)スピンクは、自慢の懐中時計を、1分間に最低1回は見る。

 おおげさでも冗談でもない。

 商談相手の顔よりも長く、時計の盤面を見ている。


(1分経った。なぜなら、針がひと目盛分動いている)

(時計の針はつねに正しい)

(世界は正しく動いている)

(私は、正気を保っている)


 呼吸することと同じだった。

 時間を確認することで、肺に空気が入る。

 だから、見るのをやめられない。


(そうら。あと10分で……始まるぞ。完璧な1日が)


 朝の霧が帝都の街を覆う中、取引所の扉が開かれる。

 スピンクは、開場の鐘とともに帳面に目を落とした。


 ――残り、5時間。

 今日中に終わらせなければならない仕事がある。


(借りた株は、必ず返す)


 それが、この市場の絶対のルールだ。


 スピンクは2週間前、リュウノス株を1万株『借りて』、すべて売り払った。

 値が下がったところで買い戻し、差額を利益にする――それが『空売(からう)り』。


 順調だった。

 完璧だった。

 だが。


(返すまでが、『空売り』だ)


 返却期限は、今日の閉場。

 1万株。

 それを市場で買い戻し、持ち主に返さなければならない。

 それができなければ。


(破産だ。――しかし)


 懐中時計の針が、ひと目盛り動く。


(今まで何回も手掛けた、鼻歌交じりでできる簡単な仕事だ。あんな紙切れ同然の株、いくらでも買える)


 顔を上げ、場内を見回す。

 スピンクの配下の仲買人たちが、キツネにつままれたような表情で駆けよってくる。


「スピンクさん、どうもおかしい。リュウノス株が『売り』に出ていない」


「なんだと……?」


 ありえない。

 あれだけ暴落した株だ。

 持っている連中は、一刻も早く手放したいはずだ。


 スピンクは懐中時計の蓋をパチパチ、パチパチと、せわしなく繰り返し開閉する。


(こんな冷たい汗が流れるのは、何年ぶりだ……)


 そこへ。

 一人の『ランナー』が、取引所の人の渦の中を、矢のように駆け抜けていく。


「リュウノス商会の『一番茶』が、ファースト・オークション会場に到着したぞおおお!」


「馬鹿な!」


 スピンクは驚愕に目を見張った。


(ありえない……!)

(あの税関と鉄道の『鉄壁』をどうやって突破してきたというのだ……)

(どんな魔法を使った!?)


「リュウノスが復活したぞ!」


「底値で塩漬けになっていた株が、動き出すぞ!」


「スピンクさん、リュウノス株の『売り』が出ました! 40です!」


 部下の報告に、スピンクが応じる。


「全部買え!」


(昨日の終値は30だった……今は40……)


(リュウノス復活のニュースのせいで、無駄な出費を……くそっ!)


 この日、第一の小さな取引き――これが、発火点となった。


「50で買うぞ!」


「55だ! 誰か売ってくれ!」


「持ってねえ!」


「こっちもだ!」


「60、60だ!」


 秒の単位で、価格が跳ね上がる。

 しかし、『売買』は成立しない。

 『売り』の声がないからだ。

 誰も買えない。


「95!」


 それは、2週間前、スピンクたちがリュウノス株を売り飛ばした時の価格だった。


(利益が消えた……どうなっている?)


 その時。

 スピンクは、自分の頭蓋の中で、なにかが弾けた音を聞いた。



「誰も株を持っていないのだ――!!」



 スピンクは、顔見知りの大物値付け業者(ジョバー)のところへ駆けつける。

 胸ぐらをつかむ勢いで迫った。


「いくらでも出す! リュウノス株を売ってくれ!」


「在庫がないんだ。俺だけじゃねえ、誰も株を持ってねえんだよ!」


(市場からリュウノス株が消えた――)

(いや、違う)

(すべて、誰かの手の中にある――)

(――嵌められた!)


「売ってくれなきゃ困るんだ! 今日中に株を返さないといけないんだよ!」


 場内の嵐が一瞬止まり、そこにいた全員がスピンクを注視した。


「リュウノス株の『空売り』を仕掛けたのは、スピンクだったのか――」


「……あ……いや、その……」


 狼狽したスピンクの手から、自慢の懐中時計が滑り落ちる。


 ガシャンッ!!


 ガラスの割れる無残な音が、狂乱の始まりを告げた。


 恐慌が、彼の肩にのしかかる。

 足元の大理石の床が、ぐんにゃり、と溶けて落ちるのを感じた。


「なんでか知らねえが、市場に株がねえ!」


「『空売り』勢は、株を買い戻せないぞ!」


「面白えじゃねえか。おい! リュウノス株、10株持っているぞ! 買いたいやつはいるか!」


 その10株を手に入れるために、スピンクは2000払った。

 朝は1株30だったリュウノス株が、正午の今は――200。


(――どこかで、誰かが笑っている)

(この地獄を『作っている』やつがいる!)


「ダメです! 場外で、株主たちに直接交渉したんですが――」


「未亡人も信託管理人も、株を持っていません!」


「地主もダメです……『絶対に売らない』って、笑ってるんです!」


(これは夢だ……悪い夢だ……)


 スピンクの膝がガクガクと震える。


(私の時計――どこに行った?)

(……今、何時だ?)

(時間が……わからない)

(あの時計がなければ、私は――)


「スピンクさん! 300で『売り』が出ました!」


「いちいち聞くなァッ! とにかく買えッ!!!」


 スピンクをなぶるように、誰かがわざと少量の株を売る。


「高い!? 構うもんか! 買えるだけマシだ!」


 スピンクが飛びつき、売買が成立する。

 最新価格が更新される。

 5分前の価格ではもう買えない。

 意味を失った数字が、空中で踊り狂う。


「500!」


(……ただの数字だ)

(そうだ。ただの数字のはずだ)

(なのに、なぜだ)

(なぜ、私は溺れている)

(数字に――)

(溺れている?)


 スピンクの足元に水たまりができていた。

 滝のような大汗。

 舌がもつれる。


「ガスマン公爵閣下は……まだつかまらないのか?!」


「朝から皇宮に詰めているそうで……連絡を取り次いでもらえません!」


「……そんな……」


 スピンクの肺は恐怖であふれて、いまや溺死寸前だった。


 世界はもう、壊れている。


「様子を見に来てみれば――なんだこれは!」


 だしぬけに現れたヒュッカテ男爵が、スピンクをなじる。


「おい! どういうことだ! 株が値上がりしてるじゃあないか! このままでは大赤字だぞ!」


 男爵の口元から、安ワインの臭いがした。

 スピンクの中で、なにかがプツンと音を立てて切れた。


「く……クカカカカ……昼間っから……いいご身分ですな、男爵閣下……」


「なにがおかしい! なんとかしろ、おい、スピンク!」


 スピンクは両手で自分の髪を掻き毟り、笑いをやめた。


「……人の気も知らないで……!」


 渾身の力で、ヒュッカテ男爵の頬を張り飛ばした。


「ぐええええっ!!」


 踏み潰された蛙のように、男爵は腹を見せて気を失った。


(いて)ぇ……!」


 (くじ)いた手首を抑えてスピンクは(うめ)く。


(なんだ、暴力ってのは……割に合わない……!)


 そこへ拍手の音。

 せせら笑うように。

 バラバラのテンポで。

 パチ、パチ、と。


 立っていたのは、豹の眼を持つ麗人だった。

 南方大陸の民族衣装――鮮やかな五色のストライプのドレス。

 証券取引所の特異点。


「腰の入った、いいパンチでしたよ。スピンクさん。ところで、閉場まであと10分ですが」


「おまえはたしか……リュウノス商会の」


「リザイアと申します」


「フッ……ふははは……そうか……おまえの仕事か」


 消えた株のゆくえは、リザイアが知っている。

 市場から、すべての酸素を吸い取るために。

 この美しい悪魔は、どれほどのたくらみをめぐらしてきたのだろうか。


「リュウノス株の終値が出ましたね」


「……」


「1株が金5000。取引所の史上最高価格ですよ」


 スピンクは、へらっ、と笑った。


「ただの数字だ――そんなもの」


「スピンクさん。あなたらしくもない」


 リザイアは腰に手を当てて、挑むような微笑を浮かべる。


「帝都一の仲買人」

「ガスマン公爵の懐刀」

「人生は数字」

「市場が正義」

「それがあなただ。そうでしょう?」


 死刑執行の、答え合わせの時間だった。


「で? 返せるんですか? 借りている1万株を」


「……おまえたちには関係のない話だ」


「それが、関係あるんですよ」


 リザイアは、数枚の書類を、指の先でつまんでひらひらとそよがせる。


「あなたたちに株を貸した富豪たちから、『返還請求権』を買い取りましてね」


「……!」


「あなたたちは、リュウノス商会に1万株を返さないといけない。今すぐに」


(カハッ)


 呼吸ができない。


「……おまえたちに?」


「私たちは交渉に応じません。株の現物を返せないのなら、金銭で補償していただく」


 リザイアの声が、風のように吹き抜けていく。


「いまの市場価格が1株につき金5000だから、1万株は――金5000万ですね」


 スピンクは、もはや自分の足で立っていることも難しかった。


(この悪魔は――市場から株を奪っただけではない――)

(『株を返す先』も奪っていたのだ……!)


「……返せない……」


 リザイアは、静かに首を傾げる。


「おかしいですね」


 人間に突然死を下賜する月の女神のように、残酷な微笑を浮かべた。


「あなたは、『市場は正しい』と信じていたはずでしょう?」


 スピンクの喉がひきつる。


「市場は、正しい……」


 リザイアは、ゆっくりと一歩、近づく。


「違いますよ」


 証券所の喧騒が、遠くなる。


「市場は――」


 声の色を、ほんの少し、灰色に落とす。


「『人がそう思い込んでいるだけ』です」


 沈黙が支配した。


(……ああ)

(そうか)


 スピンクは、ようやく理解した。


(私は、数字を見ていたんじゃない)

(『信仰』を確認していたのだ)

(この世界が、『壊れない』と)


 笑いが漏れる。

 乾いた、壊れた音。


「……デフォルトだ……」


(私は――)

(『正しい世界』に賭けていただけだ)

(そして、それは)

(最初から、どこにもなかった)


 壊れた懐中時計の残骸の上へ。


 スピンクは糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

読んでくださってありがとうございます。

最終回まで残り3話です。

ここで、最後の番外編(スピンオフ)(はさ)みます。

次回投稿は2026年6月15日(月)になります。

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― 新着の感想 ―
スピンク再登場! あぁ、これがリザイアが仕込んでいたことの意味だったんですね〜♪
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