第43話 大嫌い……でも……
大広間には、呼吸と針の音だけが響いていた。
フゥッ……
プッ……
シュッ……
夜も昼もない。
エミルウの手は止まらない。
布の上に、なにかがいる。
まだ『形』になっていない、なにかが。
エミルウの針と糸が、その輪郭を追いかける。
感覚が、檻から放たれる。
境界線を飛び越えて。
「エミルウ! 休むのじゃ!」
遠くから、誰かの声がする。
(あと少しだけ。……あと、ほんの少しだけ)
針と糸しかない世界。
エミルウは止まらない。
止められない。
その時。
指先から。
光
(これ……知っている……?)
エミルウの目の前が――真っ白に――
◇
「ここからは私たちの手に負えません。ハルガ様……この先を、お願いします!」
悲鳴のような声を上げたベテランの女刺繍師の方へ、ハルガがひょこひょこと小走りで向かう。
だが、布の上に広がる『それ』を見た瞬間。
ハルガはピタリと足を止め、息を飲んだ。
広間が、水を打ったように静まり返る。
「……これは。私にも無理だね。エミルウにまかせるしかない」
「ハルガ様でも!?」
絶句する弟子たち。
「私ができることなら、エミルウはもうできる。しかし、エミルウはいま、私も知らないことをやろうとしているのじゃ……」
かぶりを振るハルガの姿を見て、弟子たちは震えを覚えた。
(エミルウ。私たちの末の妹弟子が……そんな高みにまで……!)
「……嬉しいではないか。この年になって、久しぶりに挑戦者の気分だよ……!」
ハルガがニタリと微笑むと、皆も力強く頷いた。
(だからエミルウ。早く目を覚ましておくれ――!)
◇
「……なんだか……人が増えている……?」
エミルウはかすれた声でつぶやき、目だけを動かす。
視界はぼんやりとにじみ、意識は薄い膜を張ったようにあやふやだ。
「エミルウお嬢様が! お目覚めになった!!」
パイネが泣き叫びながら、大広間の床の上のエミルウに覆いかぶさる。
「パイネ……私、もしかして……どれくらい寝ていたの……?」
涙で顔をくしゃくしゃにしたパイネが、一呼吸おいてから、エミルウの鼻先で怒鳴った。
「4時間です……寝ていたんじゃありません、気を失っていたんです! もう!! エミルウお嬢様のばかああああ!!!」
「4時間!!」
身体が跳ね起きる。
「ぐわっ!」
エミルウの頭とパイネの顔がぶつかり、2人が同時に変な声を上げた。
周りに駆け寄ってきた刺繍師たちが、一斉に笑う。
「誰だい、エミルウが死んでしまうとか言っていたのは!」
「三日三晩、寝ずに刺し続けて、いきなり倒れるんだもの……誰だって心配になるじゃない!」
ヤズが仏頂面でエミルウを見下ろしながら、指を立てて突き出し、確認する。
「エミルウ。これは何本に見える?」
「……わかりません」
「大変だ。意識に障害があるのかもしれない! もう一度医者を!!」
「眼鏡がないから見えていないだけですよ」
パイネが笑いながら、エミルウの顔に眼鏡をかけてあげた。
エミルウは悄然としながら、みんなに詫びた。
「皆様、申し訳ありません……ご迷惑をおかけしました。今から復帰します! 今からの4時間は、8時間分働きますので……!」
ハルガが厳しくも優しい声で諭す。
「そんなことをしてたら、お前が完全に壊れてしまう。助っ人を10人、増員したから、こっちのことは心配するでない。だからせめてあと2時間だけ、身体を横にして休むのじゃ」
(私は……きっと、最初から壊れている)
「パイネ。ムナ。エミルウが起きだしてこないように見張ってておくれ」
えっ?
思いがけない名を聞いて、エミルウが周囲を見回す。
シシトラが纏う『白檀』の香りに似た、カスカスガヤの香りがふんわりと漂っている。
そこに、見覚えのある東方の令嬢が、むっつりとした顔で座り込んでいた。
「ムナ様!? どうしてここに……?」
チューラが通り過ぎながら、冷やかすような口調で説明する。
「エミルウが倒れたとたん、ムナがこの部屋に飛び込んできたんだよぉ。エミルウのこと、ずっと見守っていたんだねぇ」
「わ、私は、べつに……!」
ムナが顔を真っ赤にしながら、言い訳をする。
「……これは、シシトラ様のために、やっていることなのでしょう? あなたが倒れたら、シシトラ様に迷惑がかかるじゃないの……そんなこと、同胞として、許せない」
濡れたタオルでエミルウの額の汗をぬぐいながら、ムナは続けた。
「私だって……シシトラ様のお役に立ちたいの。でも、刺繍じゃ、あなたに敵わないのだもの……だから、せめて、このくらい」
「ムナ様。ありがとうございます……」
エミルウの頬が薔薇色に染まり、そっと目を閉じた。
「お言葉に甘えて、あと1時間55分だけ、目を閉じています……」
「あと2時間、しっかり寝てなさい!」
「ムナ様」
「なによ」
「……ムナお姉さま、って呼んでいいですか? だって……私の姉弟子ですもの……」
「嫌味か! 姉弟子いうなッッッ!!!」
「……はいっ……ふふふ……」
エミルウの呼吸が細く静かになり、パイネとムナは目を見合わせる。
「ムナさん。私、ハルガ様たちを手伝ってきますから。少しの間だけ、エミルウお嬢様のことをお願いします」
「わかったわ」
「……いい気にならないでくださいね」
「はぁッッッ!?」
「エミルウお嬢様は、あなたのことなんか、なんとも思っていませんから!」
「あなたたち主従は、いったいなんなのよ!」
ぷい、とそっぽを向いて歩いていくパイネの背中を睨みつけて、ため息をつく。
床の上で丸くなるエミルウの顔から、ムナはそっと、あの憎っくき『特注の眼鏡』を外してやった。
『エミルウ。私、あなたのことが嫌いよ。嫌い。嫌い。大嫌い……』
東方の言葉で、ムナがつぶやく。
『ぽっと出のくせに、いつもシシトラ様のそばにいて……よそ者のくせに……』
眼鏡をケースにしまい、エミルウの顔の横にそっと置いた。
『……ありがとう……』
エミルウのつぶやきに、ムナは心臓が喉から飛び出る思いがした。
(いまの……エミルウ……? 東方語……?)
『……ムナ様……この街では……一度会えば、友だち、なんですよね……シシトラ様が教えてくれました……』
(この子……いつのまに……私たちの言葉を……!?)
『……二度会えば……親友、だって……ムナ様……私たち……もう、親友……そうでしょう……?』
うわごとのようなエミルウの声に、ムナは息が止まりそうだった。
ムナがあれほど『よそ者』と蔑み、言葉の壁で殴りつけたというのに。
ムナは理解する。
この少女は今、人を『刺繍している』。
布ではなく、人間を。
人間の関係そのものを。
エミルウは、ちぎれた世界の切れ端を集めて、縫い合わせている。
大広間の空間を、刺繍師たちの奮闘の声が響き渡る。
エミルウと、寝顔を見守るムナの周りだけが、切り離されたような沈黙に支配されていた。
ムナは、エミルウの傷だらけの指先をじっと見つめた。
その指は、醜かった。
とても、美しかった。
(……私にだってわかるわ。この指……くじけない指……とっても、尊いと思う……)
ムナは自分の指を――針の痛みに一度も耐えたことのない白い指を伸ばす。
『……エミルウ……私、やっぱり、あなたが嫌いよ……大嫌い……でも……』
眠るエミルウの、こわれもののような指先に、そっ、と触れた。
『……あなたは、最高だわ……』
(私は刺せない……『1時間だけの姉弟子』だもの……)
(だから、せめて、私の気持ちを、あなたの針で一緒に縫い込んで……)
(私の心も、連れて行ってあげて……『あなたの世界』へ……)
運命の11月第1週月曜の、前日のことだった。
――そして、明日。
エミルウは、すべての者の運命を、縫い直す。
世界の『意味』を書き換えるために。
次回投稿は2026年6月13日(土)です。




