第42話 はい。この場で。現金で
ティーカップに、薔薇のような唇をつける。
馴染みの深い、花のように濃淳な香りに、リザイアは微笑んだ。
「これは……リュウノスの特級紅茶『朱雀』ですね。ありがとうございます」
「あなたに、よその銘柄をお出しするような不調法はいたしませんことよ」
未亡人は柔らかい声で言った。
しかし、その瞳は――不安と心労で揺れている。
暴落の噂。
配当への不安。
将来への怯え。
今日のリザイアは、珍しく地味な装いだった。
喪服のように黒い外套の縁にだけ、銀糸の刺繍が走っている。
「私たちの商会の株価のことで、ご心配をおかけしています」
リザイアが一礼し、目の動きだけで応接間を見回す。
暖炉の上。
積まれた請求書。
生活は逼迫しているのだろう。
壁の肖像画。
2人の男女。
彼女の幸せだった時間。
「ご主人が、私たちの株をお持ちだったのですね」
「ええ。主人が、生前に買っていたのです」
「長いあいだ、ずっと手元に持ち続けていらした」
「……はい」
リザイアが、真心のこもった声で、つぶやいた。
「ご主人は、あなたを守るために、持ち続けていたのでしょうね――」
守る。
なにを?
配当を。
未亡人の暮らしを。
愛する人の未来を。
未亡人は、こみあげるものをぐっと堪えた。
リザイアが、商人の声色で告げる。
「リュウノス株は、今日の終値で、1株につき金30でした。いま、私どもにお売りいただけるのなら、金60で引き取らせていただきます」
未亡人は、咄嗟に答えられない。
「……私の聞き間違いかしら。60? ――30を、60で? 倍額で?」
「はい。この場で。現金で」
自分の後ろにある暖炉の上の請求書の束が、未亡人の脳裏に浮かぶ。
彼女は目を閉じ、そして見開いた。
「……売りましょう」
◇
信託管理人は、リザイアが提示した価格表を無言で見つめる。
「興味深い提案です。しかし――」
彼は顔を上げる。
「80で? 暴落前の価格ではありませんか」
「足りませんか?」
「とんでもない」
リュウノス株は、いまが底値とは限らない。
まだまだ下がるかもしれないのだ。
――含み損はさらに大きくなるかもしれない。
そんな株を保有し続けることは、受益者の利益に反する行為である。
そこへ、この、夢のような申し出だ。
(暴落前の価格で現金化できる――元本を100%回復できる、だと?)
それも、今。
この場で。
確実に。
目の前にいるリザイアが救世主に見える。
「……ありがたい話だが。しかし、なぜ。こんなことを」
(ありえない……)
学者のような白い長衣。
胸元にだけ、青で細かな幾何学模様が縫い込まれている。
リザイアは微笑を浮かべて答える。
「市場が明日どう動くかは、誰にもわかりません。しかし、今日、目に見えるものは、『確実』です」
「質問の答えになっていない」
「あなたは、『損失を出さない』ということに責任がある人です。その責任に忠実でさえあればいい――そうではありませんか?」
信託管理人は両手で顔を覆い、数拍の間、考えた。
リザイアは待っている。
(信じていいのか? この株は――持ち続けていれば、まだなにかが『起こる』のではないか? そうとしか思えない……さもなければ、この馬鹿げた提案を、どう解釈したらいいのだ)
(徹底的に保身せよ)
という声と。
(この株を動かすと――何かのわざわいが起こるのではないか?)
という恐怖が。
天秤の上で揺れて。
やがて、管理人は決断した。
「――全部は売らない。半分だけだ」
◇
重い扉が開く。
酒の匂い。
扉の向こうから聞こえる笑い声。
葉巻を咥え、グラスを片手に応接室に入ってきた地主は椅子にふんぞり返り、リザイアを睨め付けた。
肩に狼毛の飾りを掛けたリザイアは、商人というより部族長のように見えた。
「私が持っているリュウノス株を買いたい、だと?」
「はい」
「いくらでだ」
「60で」
地主は鼻で笑う。
「はん! 私が買った時は80だった。話にならん」
地主は待った。
リザイアは答えない。
しばらく沈黙が流れた。
(こいつは――何を考えている?)
リザイアが、口を開いた。
「――いい判断です」
地主の目が細くなる。
「いまは、誰にもお売りにならない方が、よろしい」
「……ほう?」
リザイアは、まっすぐに地主を見据えて続ける。
「私は、値段の話をしたいわけではありません」
地主の口元が、わずかに歪む。
「続けろ」
「今、市場を支配しているのは誰だと思いますか?」
リザイアは膝の上で手を組み、揺らしながら楽しそうに語る。
「――株を『持っている者』ですよ」
地主は、葉巻の煙をくゆらせながら、全力で思考した。
(売っている者でもなく。買っている者でもない。『持っている』者が――支配する者、だと……?)
考えて。
考えて。
考え抜いた、その果てに。
ある『可能性』に思い当たった瞬間。
地主は、リザイアの目的を理解した。
「ククク……ハハハ……そういうことか!」
「そういうことです」
「わかった。60が100でも売る気はない」
地主は立ち上がった。
「面白くなってきた。特等席で見物させてもらおう」
◇
富豪は椅子に深く腰掛け、リザイアを見ている。
視線は、氷のように冷たい。
値踏みする目だ。
(私が何者か、わかっていながらここへ来たのか?)
リザイアは、5つボタンの詰襟ジャケットに、異国趣味の下衣を合わせていた。
書類を取り出し、テーブルの上にそっと置く。
相手の目を見つめながら、切り出した。
「リュウノス商会の株を、ガスマン公爵に『貸し出し』ましたよね?」
「ふん……」
富豪はうすら笑いで答えた。
「あなたから借り受けた株を使って、あの連中は、私たちに『空売り』攻撃を仕掛けています」
「それがどうした? 今日は泣き言を言いに来たのかね? 私は君たちの『株主』だぞ――礼儀をわきまえたまえ」
リザイアは、白い歯を見せながら、少年のような明るい声で答える。
「あなたはいま、『株主』ではない」
「なんだと」
「『債権者』です」
虚を衝かれて、富豪は目をしばたいた。
(たしかにそうだ。株はガスマン公爵が持っている。私が今持っているのは、彼から『株を返してもらう権利』だけだ――)
「貸した株を返してもらう期限――決済日は、3日後ですね」
リザイアは静かに続ける。
「その時、起きることは2つに1つです」
指を1本立てる。
「彼らは株を買い戻し、約束通りあなたに返す」
もう1本。
「あるいは――」
リザイアは、わざと言葉を切った。
1分。
2分。
富豪は口を開かない。
喉がカラカラに乾き、声が出せない。
グラスの水をあおり、息をひとつ吐いて、リザイアに向き合う。
「それで。君は、なにをしにきたのかね」
「あなたは賢明な方です――もう理解できているはずだ」
机の上の書類を広げて、富豪の手元へ、ツイ、と押しやる。
そこに書かれている文字に目を落として、富豪が呻いた。
「『これ』を――売れというのか?!」
リザイアは、悪という悪を掻き集めて結晶させたような、華麗な微笑を浮かべる。
富豪は、額にブツブツと汗が噴き出るのを感じていた。
(目の前にいる、この美しい悪魔――こいつの共犯者になるのも、面白いかもしれぬ)
思わず身を乗り出す。
「……条件を聞こう」
次回投稿は2026年6月12日(金)です。




