番外編04 鍋の底に月が落ちていた~Brilliant Disguise~(後編)
番外編の後編です。
※このお話は、時系列で言うと、『第30話から第37話』の間のどこかの出来事、とご理解ください。
次の夜。
エミルウ、パイネ、メイドたちは、今夜も厨房に集合した。
艾草と桂皮の燻香が漂う空間。
炉灶の残り火で温めた紅茶の香り。
パイネが小碗に紅茶を注いで、皆に配る。
東方人メイドが、厳かな声で、順番に唱えていく。
『一本の糸は弱くとも』
『織り成せば、断つこと能わぬ衣となる』
『縦の糸は我ら』
『横の糸も我ら』
『誰がこの布を織ったのか』
『引き裂けぬ、姉妹の絆』
『我らの血は混ざらぬとも』
『我らの涙は一つである』
「――よろしい。では始めましょう」
第8回、エミルウの『東方語』学習会が開催される。
「皆様、今日もよろしくお願いします……」
ここ数日、上達が止まっているエミルウは、申し訳なさに身を縮めていた。
パイネが、まっすぐな瞳で言う。
「エミルウお嬢様。ちょっと目を閉じて、私が喋るのを聞いてもらえますか」
「え? ……はい?」
エミルウは、言われるとおりに目を閉じた。
パイネの咳払いが聞こえる。
また、誰かの物真似をするのだろうか。
『エミルウお嬢様。私が話していることが、わかりますか?』
滑らかな発音。
流暢な東方語。
そして、それは――声質、トーン、完全にエミルウの声、そのものだった。
「えええええええ!?」
思わずエミルウは目を開けた。
パイネが慌てる。
「だめですよ! 目を開けちゃあ」
「パイネ。いまの!?」
『東方語を完全にマスターしたエミルウ』が、パイネに『憑依』したのだ。
メイドたちも驚愕していた。
パイネは、してやったり、と言う顔。
「続けてみますね」
今度は、声だけではない。
エミルウの仕草、身振り、手振りまで再現されているのを、見せつけられた。
『シシトラ様。心からお慕いしております。たとえこの世界が壊れても、いつまでもあなたのおそばにいたい……』
完璧な東方語。
恥ずかしそうに、でも勇気を振り絞る時の、エミルウの声の震え。
庇護欲を掻き立てられる、もじもじした仕草まで再現されている。
エミルウには東方語の意味は分からない。
しかし、いま、『シシトラ様』という単語だけ、聞き取れた。
メイドたちは口を押さえて、エミルウを見ながら頬を赤くしている。
エミルウは激しく狼狽えた。
「パイネ! いま、いま、何を言ったの? 私の声で!」
「ウフフ!」
パイネは、調子に乗った。
半身に立ち、軽く顎を引き、探るような目つきになる。
『エミルウ。二人で出かけないか。その……帝都に今度、新しい百貨店がオープンするんだ。きっと、君の刺繍の参考になると思って……』
これも、東方語。
今度は、若い男の声。
白檀の香りを纏ったような、エミルウにとって特別な声だった。
エミルウは、両手を振り回して、パイネに抗議した。
「シシトラ様は、そんなへどもどした喋り方はしません……! いつもビッとしてシュッとしていて……かっこいいんだから!」
メイドたちは顔を見合わせる。
『ええ~?』
『へどもど……してるよね? シシトラ様、エミルウお嬢様にだけ、ちょっとおかしくなるもの』
解釈の不一致。
しかし、エミルウの火力の強さを想像すると、メイドたちは声を上げられない。
パイネが言う。
「エミルウお嬢様。どうですか。『東方語をマスターした自分』をイメージできたのではありませんか?」
(……たしかに)
今は、自分の『完成形』が、この上なく具体的なイメージを持って立っている。
(そうか。私が東方語を話す時は……こんなふうに聞こえるんだ)
エミルウの中の『羞恥心』が外れようとしていた。
『よし。じゃあ。やってみましょう』
メイドたちが言い、レッスンが始まった。
◇
刺繍を刺すのは、言葉に似ている。
と思った。
刺繍の目を揃えるときは、いちいち頭で考えたりはしない。
反復練習の成果。
リズム。
指先が覚えている。
言葉もそうだ。
頭で、考えない。
針を布に刺して、糸を引く。
針仕事のリズムに合わせて。
エミルウは、東方語の独特なイントネーションを乗せていく。
舌の位置。
息の抜き方。
口と喉の筋肉の運動。
手元の作業に意識が向いていることで、発音に対する羞恥心は薄れている。
パイネが演じた、『東方語をマスターしたエミルウ』を思い出す。
『鍋の底』
針を刺す。
『落ちた』
糸を引く。
『一輪の』
刺す。
『明月』
(『ミィン』は、高く。『ユエ』は、低く)
パイネの口真似でやってみよう。
彼女の『仮面』を、被ってみる。
つもりで。
『グオ ディー ディャオ ルォ ラ イー ルン ミィン ユエ』
舌が、もつれる。
うまくいかない。
(パイネ。あなたは、やっぱり、天才よ)
『鍋の底に月が落ちていた』。
本当に、どういう意味なのかしら。
(今度、シシトラ様に訊いてみよう)
エミルウはくすりと笑って。
窓の外の月を見た。
次回投稿は2026年6月11日(木)です。
本編にお話が戻ります。




