番外編03 鍋の底に月が落ちていた~Brilliant Disguise~(前編)
最終章が開始したというのに、主人公がまだ一度も登場していません。
次話も、登場しません。
「このままではいけない」
慌てて、エミルウが登場する『番外編』を書き下ろしました。
前後編です。
一本の大きな蠟燭が、エミルウの前で炎を揺らしている。
ピン、と背筋を伸ばして座るエミルウが、すう、と大きく息を吸う。
そこで、身体が強張る。
自分の中にいる誰かが、自分を見ている。
緊張。
破裂しそうな心。
意を決したように、エミルウの唇が開かれる。
「……ぱ!」
小鳥の羽音のように、短く、愛らしい音。
蝋燭の炎は微動だにしない。
リュウノス邸の古参メイドが、エミルウに言う。
「もっと強く。お腹から息を出すのです」
指摘されて、エミルウは顔を真っ赤にする。
大きく、大きく、息を吸い込む。
『正しい音を出さなければ』という意識。
『息を強く吐かなければ』という意識。
二つの意識がぶつかり合う。
エミルウの口から飛び出したのは、音ではなく、ただの『息』だった。
「ふ――っっっ!」
蝋燭の火が吹き消されてしまった。
「違う、違います。誕生日のケーキじゃないんだから!」
メイドが苦笑いする。
エミルウは、恥ずかしさのあまり、両手で顔を覆ってしまった。
夜。
リュウノス邸の厨房の片隅。
エミルウ、パイネ、そして東方人のメイドたち、
「エミルウお嬢様。いいですか。同じ『パ』の音でも、東方語では『息』で全然別の音になるのです」
メイドが蝋燭に再び火を点ける。
ろうそくの炎に顔を寄せる。
「パ」
発音したその音は、どちらかというと『ba』に近い。
蝋燭の炎は、小揺るぎもしなかった。
発声する時に、息を吐き出さない型の『パ(ba)』だった。
「パ」
今度は、炎が大きく揺れた。
これは、息を吐き出しながら発声する『パ(pa)』だった。
帝国語が身に沁みついたエミルウの耳では、二つの『パ』の違いを聞き分けられない。
(どちらも同じ『パ』に聞こえるわ……!)
「音で聞き分けようとしても、難しいですよね。だから、『息の量』で区別するんです」
パイネが笑いながら、蝋燭を自分の目の前に持ってくる。
「パ(ba)」
蝋燭の火は動かない。
「パ(pa)」
蠟燭の火が大きく動く。
「と、まあ、こんな感じです。エミルウお嬢様!」
パイネが、ふんす、とエミルウを見る。
「蠟燭の炎は目に見えるから、わかるわ。でも、自分でやってみようとすると、思うように息が……声が出てこないの……」
(私、どこかおかしいのかしら。誰かに見られて笑われているような気がして、何もできなくなってしまう。私……こんなに恥ずかしがり屋で、大丈夫なの? これから生きていけるの?)
エミルウは恥ずかしさと不安に圧し拉がれてしまう。
東方人のメイドが、慰める。
「エミルウお嬢様。違う言葉を覚えようとしたら、それはみんな経験することなのですよ。私も帝国語を覚えるときはそうでした」
「……そうなの?」
「はい」
もう一人の東方人メイドが答える。
「リザイア様は、8ヶ国語をマスターされています」
「は、はち……?」
「はい。東方語。帝国語。北隣の王国語。共和国語。南の大陸語。砂漠の部族語。聖教国の宗教語。海商語。このへんは完璧だそうです」
「ふええ!」
パイネとエミルウが驚嘆の声を上げる。
「そのリザイア様が、以前、言っていたのです。『新しい言葉を覚えるということは、新しい人格を取り入れることだ』、と」
「……新しい人格……?」
「やだ。そんな真剣な顔しないで下さいよ。私のは受け売りですからね。リザイア様みたいにうまく説明できないですけど」
人間は、幼少期に『母語』を学習する過程で、『自分はどういう人間か』という『自我』を、その言語と深く結びつけて獲得する。
成長してから新しい言語を学習しようとすると、何が起こるか。
『未知の言語』すなわち『未知の別人格』を、自分の中に取り込むことになる。
すると、自分の中の『自我』が、『自分が脅かされる』ような恐怖や羞恥心を覚えてしまう。
というのだ。
「エミルウお嬢様は、帝国語で形作られた『刺繍が得意で、控えめな性格のエミルウ』という『自分』を守ろうとしている。だから、東方語という新しい『仮面』を被ることに、抵抗があるのだと思います」
「仮面……」
「そうです。仮面ですよ。この点は、パイネを見習うと良いと思いますよ。エミルウお嬢様」
「パイネを……?」
エミルウの視線を感じて、パイネの榛色の瞳がキラン、と光った。
「聞きたいです? 知りたいです? エミルウお嬢様」
「……はい。教えてください。パイネ先生」
エミルウが切実な声で、瞳を揺らしながら懇願する。
先生。
その甘美な響きは、パイネの脳を灼いた。
「いいでしょう。お教えしましょう!」
パイネはどこから出したのか、片眼鏡を装着して、解説を始める。
「言葉を覚えるときはですねえ、あれこれ考えすぎないことです!」
「……」
「エミルウお嬢様はいつも、『完璧に発音しないといけない』とか、『間違えて笑われたらどうしよう』とか、考えていますね?」
エミルウは、眼鏡の奥の琥珀色の瞳をパチパチさせた。
「……その通りよ。すごいわ、パイネ。どうしてわかるの?」
「パイネ先生。と呼んでください」
「パイネ先生、どうしてわかるのですか」
「エミルウお嬢様のことなら、私は何でもお見通しですよ。ふふふ」
先輩メイドたちは、菓子を摘まみながら、この小芝居を見物している。
「失敗したっていいんです」
「でも……失敗したら、笑われちゃう、かも……」
「笑われたっていいじゃないですか」
「笑われるのは……つらいです……」
何を言ってもネガティブに捉えてしまうエミルウ。
パイネは、なんとかしてエミルウを力づけられる言葉を探した。
「刺繍だって、新しいステッチを覚えるときは、最初は失敗しながら、だんだん上手になっていくのでしょう? 言葉だって同じですよ」
(お? 私……いま、なんか、うまいこと言いましたよ?)
しかし、エミルウはうつむいたままだった。
「刺繍は……やればすぐにできるようになるもの……それがわかっているから、失敗しても気にならないけど」
(くっ……、この、天才めぇ……!)
「東方語は……できるようになった自分がイメージできないの……」
パイネは、エミルウを抱きしめて頭を撫でたい衝動を抑えた。
パイネの場合は、職場で同僚と仲良くやっていくために、どうしても東方語は必要だった。
(生きるためなら、仮面でもなんでも被ってやるわ!)
それに、「失敗したらどうしよう」「笑われたらどうしよう」という『羞恥心』が、パイネの中にはほぼ、存在しない。
だから、臆せず、どんどん声に出して試してみる。
結果的に、スポンジが水を吸収するように、東方語の習得が早かった。
「仮面を被るのです。エミルウお嬢様」
「……具体的に、どうすれば……?」
「今までの自分の力ではできないことをしようとしているのですから。だから、他の人の真似をするんです」
パイネは、エミルウの方に顔を突き出して、唇をタコの口のように丸めた。
「ユー(ü)」
唇は『ウ』を発音する時の形をしているのに、出てきたのは『ウにイを混ぜたようなユー』という、得体のしれない音だった。
「エミルウお嬢様。とにかく真似することです。私の真似をしてください。さあ」
「……うー!」
「違います。もう一度」
「……いー!」
「もう一度」
(こんなの……無理!)
舌、喉、歯に、今まで知らないアクロバットな動きを要求している。
きっと、いま、自分は『変な顔』をしているに違いない。
不格好に唇を突き出して、『変な音』を出して。
(こんなところをシシトラ様に見られたら、恥ずかしくて死んじゃう)
エミルウの声が出なくなる。
パイネは、失敗した。
先輩メイドが、助け舟を出す。
「今夜はこれくらいにしましょう。パイネ。お開きにする前に、アレをやってよ」
「アレ? アレっていうと、アレですか? こないだの?」
「そう。アレ、最高だったわ。アレを見ないと一日が終わらないわ」
「……しょうがないなあ」
パイネが頭を掻きながら、立ち上がる。
咳払いをひとつ。
『パイネ。チョカモ。タムリン。ちょっとこっちへいらっしゃい』
東方語。
あたりのキツいイントネーション。
鋭い目つき。
眉間のシワ。
伸びた背筋に大きな歩幅。
エミルウにもすぐにわかった。
リュウノス邸のメイド長にそっくりだ。
『厨房の戸棚にしまってあったお茶請けが減っているのだけど。あなたたち、心当たりはない?』
目の前にメイド長がいるようだった。
声質。
区切り方。
顔の表情。
身振り。
お小言の時には口を尖らせる、独特の癖まで、完璧に再現されていた。
先輩メイドたちは腹を抱えて笑っている。
エミルウも、東方語の内容は理解できなかったが、メイド長の再現度の高さに、舌を巻いていた。
パイネにこんな『才能』があったなんて。
舞台役者になれるのでは?
(すごいわ、パイネ。……こんなふうに、ぬけぬけと『別の人格』を演じられるくらいでないと……新しい言葉を学ぶことはできないのね!)
その感想は、半分正しく、半分ズレていた。
メイド長が『憑依』したパイネが、両手をくねくねさせながら、とどめを刺す。
『あら、まあ! 私としたことが! 鍋の底に月を落としていたのに、気がつかなかったわ!』
メイドたちの爆笑。
エミルウだけが、ポカンとしていた。
他のメイドに訊いてみる。
「え……いま、なんて言ったの? なにがおかしかったの?」
「あっはははは……! え? ああ、『鍋の底に月が落ちていた』って言ってたんですよ」
「鍋に……月が? それって……どういう意味?」
「さあ? でも、なんか、おかしかったんですよ」
ああ。
また、やってきた。
その場にいるのに、一緒に笑い合うことができない、あのさびしい感覚。
エミルウは、そっと唇を噛んだ。
(――もし、私にも東方語がわかったなら)
みんなと同じように笑えたのだろうか。
次回投稿は2026年6月10日(水)です。




