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第39話 『掌の中の国家』

読んでくださって、本当にありがとうございます。


第3章(最終章)『エミルウの世界(ラスト・ワルツ)』編の開始です。

 ポキュパイン伯爵邸の、夫人専用応接間。

 高い窓から日差しが差し込み、深紅のスワッグ&テール(カーテン)が重厚に垂れている。

 壁際に飾られている『青磁の壺』や『彩色磁器』、『細密な漆器の箱』――

 伯爵夫人の趣味と教養の深さを静かに示していた。


「ファンシー・フェア以来ですわね。シシトラ=リュウノス様。本日のご用のおもむきを承りましょう」


 大きなエメラルドの指輪が飾る手指を揺らしながら、伯爵夫人が慇懃に微笑む。


「貴重なお時間を賜り、光栄です。伯爵夫人」


 シシトラは一礼して顔を上げた。

 その黒曜石の瞳に見つめられ、夫人は息を呑んだ。

 その瞳は、意思と理知、そして、深く静かな余裕を(たた)えている。


(初めて会ったときは、獲物の喉を食いちぎる野生の狼のようなオーラの青年だったわ……この男……どこか、変わった……?)


 天鵞絨(ベルベット)張りのソファに腰を下ろし、シシトラは布に包まれた箱を木製のテーブルの上に置いた。


(社交界の噂は稲妻より速く伝わる。ガスマン公爵の怒りを買い、落ち目となったリュウノス商会が、有力貴族に支援を乞うて回っていることは公然の事実……。はたして今の彼らに、私が手を差し伸べる価値はあるのかしら?)


「まずはこちらを……手にとってご覧ください」


 シシトラが静かな手つきで布をほどき、おごそかに箱を開くと、(てのひら)の上に載るほどに小さな『茶碗』が2つ現れた。

 促されるまま、ポキュパイン伯爵夫人は、1つを掌の上に乗せる。


「まあ……」


 磁器の極限の白さが、夫人の視界を完全に支配した。

 器に描かれた雌鶏の愛らしい絵に使われている紅は、霊性すら感じさせる深い輝き。

 指に吸いつく――どころか、指が吸われているようななめらかさ。

 艶めかしい曲線美。

 伯爵夫人の五感は、掌の上、わずか数センチの小碗に完全に支配されていた。


(こんな……こんなものを……私が触れてもいいの……? これは現実なの……?!)


 シシトラは、伯爵夫人に向き直り、とろけるような微笑みで一言だけ発した。


「夫人」


 伯爵夫人はハッと現実に引き戻され、同時にシシトラの意図を理解した。


「私が声をかけるまで控えていなさい!」


「かしこまりました、奥様」


 メイドが退出して、2人きりになった。


「リュウノスさん……これは、いったい、なんなの……!? どうしてこんなものを私のところへ……!」


「さすがはポキュパイン伯爵夫人。この小碗の真価をひと目で見抜かれるとは。あなたの審美眼は本物です」


 そう言うとシシトラは、黒革のケースから数通の書類を取り出して、テーブルの上に広げた。


「東方大陸の王室に400年伝わる『兜率天鶏杯(とそつてんけいはい)』。巧妙至極の製法は失伝し、現存するものは世界にたった3つ。……これには当代最高の美術鑑定家ブーモン博士の真筆と、帝国一のオークションハウスの保証書がついています」


 書類を見た夫人の顔から、血の気が引いた。

 そこに記された最低落札価格は、小国家の国家予算に匹敵する額だった。


「伯爵夫人。リュウノス商会は、この『掌の中の国家』を、皇太后陛下に献上したいのです」


「……皇太后陛下に、これを?」


「そうです。芸術の庇護者、美の審判と名高い皇太后陛下。彼女にお願いしたいことがある」


 『彼女』、と呼んだ。


「だが、私たちはしがない移民の商人だ。通常の手続きでは彼女の影も踏めない。そこで、大臣という立場上、皇太后陛下と親しく話ができるポキュパイン伯爵に、私たちの『代理人』になって欲しいのです」


 『陛下』という尊称に、これっぽっちの敬意も籠っていなかった。

 もう1つの『雄鶏』の『鶏杯』を撫でながら、シシトラは夫人の瞳を見つめた。


(なんて不敬な物言いなの……やはりこの若者は危険だわ……関わり合いになってはいけない……ああ、でも……)


「夫人の手から、皇太后陛下に、この『鶏杯』を献上してください。伯爵家と皇室のあいだには、永遠の蜜月関係が構築されるでしょう。それと引き換えに、リュウノス商会の『ささやかな願い』に、口添えをお願いしたい」


 伯爵夫人は、シシトラの提案に悪魔的な魅力を感じながらも、必死に冷静さを保とうとした。


「もし……もしも、私がそのお願いを断ったとしたら……?」


「おや。それは残念です」


 シシトラは、ほんの少し目を伏せ、困ったような笑顔を浮かべて。

 机の上の書類の1つを指先で弾いた。


 未開封の封書。

 封蝋の色、見覚えのある紋章――。

 王族付き侍従である、ドッケン子爵家のものだった。

 伯爵夫人の心臓が、ズクン、と跳ねた。


「この秘宝に関心を示す方は他にもいらっしゃいます。しかし私は、ファンシー・フェアでのご縁がある伯爵夫人(あなた)を、第一に、と考えています。それゆえに」


 シシトラはしらじらしい声で言う。


「その親書は、まだ中身を読んでおりません」


(私がもし断れば……この男は、ドッケン子爵夫人の所へ行く! あの思慮の浅い愚かな女が、この秘宝を皇太后陛下に献上する――寵愛を独占する――そんなことは許さない……!)


 欲望と敵愾心が、夫人の理性を吹き飛ばした。


「……わかったわ……。あなたに賭けてみましょう」


「賢明なご判断に、敬意を表します」


 シシトラは、(から)になったとばかり思っていた箱の中から、もう1つの小さな布包みを取り出した。


「それは?」


「皇太后陛下に献上する『兜率天鶏杯』は雄鶏・雌鶏の2つ。ここにある1つは、伯爵夫人、あなたの英知と審美眼への感謝の印です。お納めください」


 この世に3つしか存在しない秘宝の、最後の1つ。

 黄色い雛が歩く愛らしい図柄の小碗が、伯爵夫人の掌の中に受け渡された。

 夫人の背中を、ぞくりと官能が走り抜ける。


「皇太后陛下には内緒で……」


 シシトラはそう言って、人差し指を口の前に立て、笑ってみせた。

 秘密の『共犯関係』が成立した。

 その笑顔に、伯爵夫人の胸が高鳴る。

 秘宝を手にした歓喜とは別の高鳴りだった。


(この男……やっぱり、変わったわ……!)

次回投稿は2026年6月7日(日)になります。

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