第40話 あなたたちは何のために
帝都から南西へ300マイルの貿易港・ネゼナック。
税関事務所の空気は、葬儀場のそれのようだった。
帳簿は開かれ、羽根ペンは握られたまま。
書かれるべき文字が、待っている。
しかし、書記官たちの誰一人として、次のひと文字を入れることができない。
印章がない――。
税関事務所で厳重に保管されているはずの印章が、紛失している。
それに気が付いたのは、朝一番に出勤した徴税官だった。
港には順番待ちの船が列をなし、倉庫では荷が検査を待っている。
税関事務所の大広間では、商人たちや船長たちが、囁きあっていた。
「なにかが、おかしい」
昼過ぎには、囁きは大きな声になった。
いまでは、廊下に彼らの怒号が渦巻いていた。
もう夕方だ。
それなのに、印章がない。
承認もできない。
許可も出せない。
業務も、責任も。
すべてが宙に浮いている。
何もかもが金縛りだった。
「どういうことかァァァッッッ!!」
徴税官の絶叫が木霊する。
「わかりませェェェんッッッ!!」
書記官の1人が直立不動、涙声で答える。
「もう一度探せ! 何度でも探せ! なんとしても探し出せッ!」
バタン!
扉の開く音。
そこへ、1人の男が現れた。
事務所の全員が入り口を注視した。
昨日も一昨日もここを訪れた、東方人の初老の男。
黒い髪、黒い髭。
ライオンを連想させる威厳ある黒い瞳。
「ウメガイ=リュウノス……わからんお人だな。手続きを待っているのはあんただけじゃない。とにかく順番どおり待ってもらうしかないのだよ!」
徴税官は、震える指でウメガイを指し、毒づいた。
(ガスマン公爵閣下からの命令があるかぎり、リュウノス商会の荷は、茶葉の1枚たりとて通しはしない……!)
「何日かかるか、約束はできないが、な! ……今日はあんたに構っている暇はないんだ。とっとと帰ってもらおう」
忌々し気に吐き捨てる。
ウメガイは、港の濃霧で濡れた外套を脱ぎもしない。
床の上が濡れていく。
徴税官の机の上にバサッ! と書類の束を置いた。
「通関書類、一式だ」
「ハァ!? 何を馬鹿な……」
徴税官はせせら笑いを浮かべながら、それを開いた。
部下の書記官たちが上司を取り囲んで、一緒に書類を確認する。
1枚。
2枚。
3枚。
受理印。
検査済。
課税済。
支払済。
そして――解放印。
リュウノス商会の貨物を通過させるために必要な『すべて』が、完璧に揃っている。
「……ありえない……一体どうやって……」
書類を持つ指先がわなないた。
印影は真正。
筆跡も、さっきまで横でパニックを起こしていた部下たち本人のもの。
「おまえたち……この書類は、いったいなんだ? いつのまに、こんな」
部下たちが慌てて首を横に振る。
――ネゼナック税関庁舎の誰一人として、この処理をした記憶がないのだ。
「私たちの荷を、通していただきたい」
ウメガイの低い声に、徴税官は顔を上げた。
「……『これ』が通らぬというのなら……あなたたちは何のために存在しているのだ?」
ウメガイは捕食者の微笑みを浮かべた。
長い、長い沈黙。
(いっそ、この書類を破り捨ててしまおうか……いや、できない)
おそらく。
印章の行方は、このウメガイ=リュウノスが知っているのだろう。
あれらが、このまま出てこなければ――
懲戒。
更迭。
引責。
官僚生命が、絶たれる。
徴税官はがっくりと肩を落とし、敗北を受け入れた。
「――通るがいい」
◇
ウメガイが事務所の外へ出た瞬間、世界は『戦場』へと一変した。
霧の港。
叫び声。
鉄の音。
ウメガイの姿を認めたボズが、夕闇に向かって吼える。
「よぉ~し! 荷揚げ開始だ!! 全員、配置につけ!!」
人夫たちが雪崩のように動き出す。
ランタンが灯り、桟橋に炎の列が走る。
「急げ! 暗くなる前に全部積みだすぞ!」
ボズが掌の上で金貨をジャラジャラと躍らせながら、人夫たちの間をすり抜けていく。
すれ違う人夫たちのポケットに1枚ずつ金貨をねじこむ。
人夫たちの動きが熱に浮かされたようにさらに加速する。
「ヒーヴ・ホー! ヨー・ヨー・ホー!」
「ヒーヴ・ホー! ヨー・ヨー・ホー!」
人夫たちの掛け声が、夜の港を異界に変える。
彼らの肩から、背中から、蒸気機関車のように白い湯気が立つ。
ウメガイを、徴税官が息を切らして追いかけてきた。
「ま、待て! 荷揚げ作業には、担当官の立会いが必要なのだぞ!」
ウメガイは振り返りもせず言った。
「あなたは『荷揚げに立ち会い、作業を見届けた』。さっきの書類には『そう』書いてあったが?」
「ガッ……!」
徴税官は言葉を失う。
「ヒーヴ・ホー! ヨー・ヨー・ホー!」
「ヒーヴ・ホー! ヨー・ヨー・ホー!」
沸騰する荷揚げ現場をボズに任せて、ウメガイは1人、早足で進んだ。
◇
宵のネゼナック港駅構内。
鉄と蒸気の匂いが満ちていた。
ランタンの灯りが線路を細く照らし。
その先には、黒い機関車が息を吐いている。
貨車の列が、闇の中に連なっていた。
ボズが叫ぶ。
「馬車なんぞ使っている場合じゃねえ! そのまま貨車に叩き込め!」
リュウノスの貨物船から荷揚げされた茶葉を納める木箱は、地面に触れるひまもなく。
船から、人夫の肩へ。
肩から、台車へ。
台車から、貨車へ。
船から貨車まで、一直線!
最初の貨車の扉が閉まる。
ガッチャ――ン!!
次々と、鉄の閂が落ちる音が響く。
怒鳴り声。
木箱のぶつかる音。
鉄の軋み。
――ちぎれそうなくらいに張り詰めた空気。
その喧騒から数歩離れた場所に、駅長室がある。
ギィィィ……
ウメガイはその扉を開けた。
「どなたかな?」
駅長が、訝しげに誰何した。
ウメガイは、駅長の机の上に、そっと、静かに、封筒を置いた。
深紅の封蝋。
押された紋章がランタンに照らされて、鈍い光を放っている。
駅長は眼鏡の位置を直し、それを見下ろす。
「……これは、何だ?」
ウメガイは体をかがめて、駅長の耳の傍で、低く囁いた。
「皇室関係の緊急輸送指令だ。内容は――開示できない」
次回投稿は2026年6月8日(月)になります。




