第37話 ……しかし、友人にはなれる。
※排外主義、人種主義についての描写が含まれています。
注意してご覧ください。
(こんな……こんな馬鹿なことが……)
2人の女刺繍師、ヤズとチューラは、黒い瞳を揺らし、目の前に突きつけられた刺繍枠を見つめた。
並の職人なら半日はかかる、鵲と星の図案の刺繍。
それが、1時間足らずで見事に縫い上げられていた。
東方特有の『余白』と『光』が、布の上に完璧に捉えられている。
鳥の羽、1枚1枚の迫るような立体感は、帝国刺繍の技法の片鱗であろうか。
ヤズとチューラの刺繍枠は、まだ図案の半分も刺せていない。
2人は、信じられないものを見る目で、目の前の少女を見た。
東方風の衣装に身を包んだ、ストロベリーブロンドの髪と琥珀色の瞳を持つ帝国人の娘。
人形のように可憐な姿形。
それとは裏腹に。
使い込まれた指貫が。
指先を飾る傷が。
彼女が練達の刺繍師であることを証し立てていた。
(こんな帝国の娘が、どうやってこれほどまでの東方の神技を……!?)
「勝負ありだね」
ハルガが、ヤズとチューラに容赦なく宣告した。
「約束どおり、このエミルウを手伝っておくれでないか」
「……はい、ハルガ様。私たちの完敗です」
エミルウの顔に、パッと花のような笑顔が弾けた。
彼女は2人の前に駆け寄る。
帝国のカーテシーから、流れるような東方の拱手の礼。
連続して示し、深く頭を下げた。
『ヤズ様! チューラ様! 私のわがままを聞き届けてくださり、心から感謝いたします!』
エミルウは、拙い東方語で、礼を述べた。
(おや?)
ヤズとチューラは、顔を見合わせる。
この妹弟子は、刺繍の技だけでなく、もう1つ、新しい扉を叩こうとしている。
2人はくすりと笑い合った。
「ハルガ様の弟子の中では一、二を争う腕前だと自惚れていたけれど、それも今日までだね」
「さあ、エミルウ。私たちは何を手伝ったらいいのかなぁ?」
「ありがとうございます! お2人がいてくださるなら、百人力です!」
ハルガがエミルウの肩を指でつつき、咳払いをした。
「エミルウよ。この私は、百人力には及ばないかな?」
「ハルガ様?……まさか!」
「こう見えても帝国で一番の刺繍師だと自惚れているのだが。私の手助けは要らないのかね?」
エミルウの眼鏡の奥の瞳に熱いものが浮かんで溢れた。
「……ハルガ様……帝国一、ではありません……世界一の援軍です……!」
この瞬間。
リュウノス邸の大広間は、帝国の価値観を『縫い直す』ための、エミルウとハルガたちの『主戦場』へと変貌した。
◇
帝都の玄関口である巨大ターミナル駅。
帝国の繁栄と都市の混沌を象徴する壮大な劇場。
シルクハットとフロックコートを纏った紳士たち。
専用待合室で紅茶を飲む、重厚なドレスを着た婦人たち。
彼らの重い旅行トランクを両手に提げて小走りする赤帽。
改札前で長蛇の列を作る3等車の乗客たちのざわめき。
キオスク店員の呼び込みの声。
巨大な大屋根の下でこだまする、見送りの言葉。
そして。
喧騒に包まれる待合室。
帝国の表と裏を牛耳る2人の巨人が、冷たい火花を散らしていた。
「『一番茶』のファースト・オークションまで、あと1週間。……ウメガイ=リュウノス。あなたがいかがお過ごしか、気になっていたのだよ」
ガスマン公爵の、ガラス玉のように輝く青い瞳が、ウメガイの黒い瞳を真っ直ぐに射抜く。
(……なんだ、この威圧感は)
ウメガイの背後に立つボズは、全身に冷たい悪寒がぞわり、と這い上がるのを感じていた。
(それなりの修羅場を踏んできたこの俺が……ただの挨拶で、気圧されている、だと……!?)
こんなに静かなのに。
こんなに怖い。
(こいつが……『怪物公爵』ガスマン……!)
公爵の隣に立つアロン=ガスマン。
父親の優雅な物腰とは似ても似つかぬ、苛立ちと憎悪に満ちた顔つきでウメガイたちを睨みつけている。
「私たちは、こんな風に差し向かいで気安く語り合うような、平和な間柄ではなかったと思うがね」
ライオンの瞳が、ガスマン親子の視線にまっすぐに報いる。
「ウメガイ=リュウノス。この帝国で、私が一番会ってみたかった人物は、あなたなのだよ」
両手の指を組み、公爵は嬉しそうに首を傾げた。
「『東方のルーツ』」
「『立志伝中の人物』」
「『移民街の王』」
「そして……『暗黒街の顔役』」
「あなたは一角の人物だ。認めているよ」
「……あなたの息子の不始末さえなければ、私たちは素晴らしい友人になれたかもしれないのに」
「父上! こんな未開の猿どもと友人などと!」
アロンが、顔を真っ赤にして気色ばんだ。
「帝国に勝手に住み着いた薄汚い移民のくせに、帝国の女まで盗みやがって! 『アレ』は俺のオモチャだったんだぞ!!」
「言ったな、このクソガキ……!」
ボズが反射的に1歩前に出ようとするのを、ウメガイの鋭い視線が押し留める。
「私の息子に不始末などありはせぬ」
ウメガイは、地の底を震わせるような声で言った。
「自慢ではないが、ああ見えてあれは紳士でな」
アロンの顔を見て、フッ、と嗤った。
「あんたの隣で喚いている――女をいたぶることしか能がない『出来損ない』とは違う」
「なんだと貴様ァッッ!!」
アロンが一瞬で沸騰し、狂犬のようにウメガイの胸ぐらへ手を伸ばす。
だが、ウメガイがふいっと肩を動かしただけで、アロンはガタガタッ! と無様にたたらを踏んだ。
「……息子が失礼をしたね」
体勢を崩したアロンの肩を、ガスマン公爵が背後からギュッと掴んだ。
「ぐぁっ……!?」
公爵が微笑みながら指に力を入れた瞬間。
万力のような異常な圧力。
アロンの口からは、呻き声すら消え失せた。
ピンで標本を留められたように。
青年貴族の身体がその場から1歩も動けなくなる。
ボズの喉が鳴った。
実の息子を一瞬で『無力な人形』に変えた公爵。
アロンに対する怒りはどこかに消し飛び。
底知れない闇の深さに飲み込まれそうになっていた。
「ウメガイ=リュウノス。私たちは『同じ』ではない」
青い瞳が、黒い瞳を無遠慮にのぞき込む。
「……しかし、友人にはなれる。そうは思わないかね?」
ウメガイの額には、大粒の汗がびっしりと浮かんでいる。
それが憤怒によるものなのか。
それとも原初的な恐怖によるものなのか。
ボズには分からなかった。
「……ガスマンさん。あんたと友達付き合いなど……御免こうむる」
絞り出すような声で、ウメガイは答えた。
「ウメガイ=リュウノス。その態度がいけない」
ガスマンは、アロンから手を離した。
「あなたたち東方人に足りないのは、寛容の精神だよ」
1歩。
また1歩。
こちらへ近づいてくる。
「お互いの違いを乗り越えて、歩み寄らなければ……」
(ふざけんな! 今の理屈……どういう意味だよ……!)
ボズは心の中で絶叫した。
(理不尽な理由で港を封鎖し、俺たちの首を絞め上げているお前が……それを言――????)
心の中の絶叫が、途中で止まった。
ガスマン公爵は、ボズと鼻先が触れそうなほど近くにいた。
青い瞳の虹彩が、魔術のように揺れている。
(なんだ……俺はいったい……なにをされている……?)
ガスマンが靴先を。
軽く。
ごく軽く。
ボズのつま先の上に――置いていた。
体重は乗っていない。
撥ね除けようと思えば簡単にできるはずなのに。
ボズは動けなかった。
(なんだ、こいつは……殺気の欠片もない。悪意すら感じられない。まるで――道端の石ころでも踏んでいるように……)
自分がちっぽけで、みじめで、無力な存在になった感覚に襲われる。
「……ガスマンさん。あんた、他人に足を踏まれたら、『その足を退けろ』と怒らないかね。……私たちは、『どうかその足をお退けください』と、ニコニコ笑って懇願しなければならないのかね?」
ウメガイの怒りに満ちた問いは、震えていた。
ガスマン公爵は、一切の悪びれる様子もなく、心底不思議そうに、にっこりと笑って答えた。
「この帝国ではね。踏んだ者が悪いのではない」
キラキラと輝く青い瞳。
「踏まれた側が、踏まれた理由を持っている」
(――ッ!!)
ウメガイとボズは、理解の及ばない巨大な暗黒に、精神ごと引きずり込まれるような恐怖を感じた。
「野暮用の途中で、思いがけず君たちを見かけたのでね」
いつの間にか、ボズのつま先は『自由』になっていた。
公爵は、頭にシルクハットを被り直す。
「『まだ生きている間』に、言葉を交わしておきたかったのだよ」
ガスマン公爵が優雅に会釈する。
「さようなら、ウメガイ=リュウノス。友人になれなくて、本当に残念だ」
ふたつの青いフロックコートが背を向ける。
悠然と歩き去るガスマン親子の後ろ姿。
それを見届けたウメガイが、大きく肩で息をして、隣のボズに言った。
「……あれを、倒さなければならない」
ウメガイの黒い瞳には、決死の光が宿っていた。
「ボズ。……これからの戦いは、文字通りの命懸けだと思ってくれ」
「はい、ご主人様。……地獄の果てまで、お供します!」
しかし。
倒せるのか?
本当にあれを。
あの怪物を。
「倒す。必ずだ」
ウメガイは、ターミナル駅のさらに奥――。
巨大な鉄の獣たちが黒煙を上げる、操車場の方角へ鋭く視線を向ける。
「まずは、怪物の横っ腹に、風穴を開けてやる――」
ウメガイの黒い長衣とボズのサックコートが、プラットフォームの風になびいて、戦場への歩みを始めた。
次回投稿は2026年6月5日(金)です。




