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エミルウ ~屋根裏部屋の刺繍姫~  作者: 姫松チミノ
第2章 移民街(バッドランド)
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第36話 この世界が世界である限り

「……ガスマン公爵閣下が仕掛けたリュウノス株の『空売(からう)り』。私も少々便乗させてもらおうと思ってね。君、手伝ってくれるだろう?」


 ヒュッカテ男爵が愉快そうにワイングラスを揺らす。

 仲買人(なかがいにん)スピンクは、懐中時計の蓋をパチンと閉じ、薄い唇を歪めた。


 証券取引所裏のレストラン。

 白いテーブルクロスの上に銀器が冷たく光る。

 株主や仲買人たちの談笑が響く、上品な昼下がり。

 男爵の向かいに座るスピンクは、時計を見ながら、ナプキンの端に金無垢の繰り出し式鉛筆(プロペリングペンシル)で細かな数字を書き殴っていた。


「男爵様。閣下のご注文は、帝都の市場を揺るがす巨大な振り子です。小口の人間が迂闊に触れば、指が消し飛びますよ」


「ハハハッ! 君は慎重だな。私は少しの小遣い銭で遊ぶだけだ。閣下の邪魔はせんよ」


(……この愚物が)


 スピンクは内心で舌打ちした。


(ガスマン公爵閣下の知人というから時間を割いてやったが)


 目の前にいるのは、戦場にピクニック気分でやってきたド素人だ。


「ただ、その、なんだ。今朝の経済新聞に、こんな記事があってだな」


 男爵は畳んだ新聞をテーブルの真ん中に置き、記事を指で示す。


『リュウノス商会が空売り勢に反撃する日』。


「これは本当だろうか、スピンク君」


ヒュッカテ男爵が、上目遣いでスピンクの表情を窺う。


「埋め草の与太記事ですな。読む価値もない」


 伝聞と憶測で書かれた記事ばかりで有名な、俗流週刊株式紙ではないか。

 ネタ元と言えば、貴族家のメイドや御者が盗み聞きしたような話ばかりだ。

 『あなたにだけ教える、ここだけの話』。

 そんな記事が毎日のように掲載されている。


(ヒュッカテ男爵の頭では、高級経済紙の内容など理解できないのだろう)


「しかし、もしこの記事の通りになったとしたら……私の虎の子を君に任せて、大丈夫なのかね?」


 腰が引けた男爵が『空売り』を思いとどまってくれれば、スピンクは余計な『お守り(しごと)』をしなくて済む。

 しかし。

 自分が描いた『完璧な絵図』に、こんな頓馬(トンマ)がケチをつけている。

 それが、スピンクには我慢がならなかった。


「その『反撃』とは……『別の貿易港に荷揚げして、陸路で帝都に運ぶ』、という筋書きですね」


 新聞をどける。


「説明しましょう」


 彼は手付かずのメインディッシュの横にある銀のナイフ2本を手に取り。

 テーブルの白布の上に平行に並べた。


「男爵様。これが帝都へ続く唯一の鉄路です」


 スピンクの声は、もはや『接待』のそれではない。

 検屍官のように冷たかった。


「閣下の空売り決済日は、7日後」


 彼はパンを千切り、その欠片をナイフから遠くに置いた。


「これは帝都の港に向かっている、リュウノスの貨物船団、第2陣」


 フォークの先でパンの欠片を示す。


「陸から船団に指令を出して、他の貿易港に進路変更させるとします。これに3日はかかる」


 フォークで『貨物船団(パン)』をナイフのところへ動かす。


「税関を通過して荷揚げ作業を完了させるのに、最低でも4日」

「……いいですか。すでに合計7日だ。決済日だ」


(それも、『通過できれば』の話)

(公爵閣下が税関に睨みを利かせている限り)

(リュウノスの申請書類は、何日でも宙吊りにされる)


 スピンクは懐中時計を取り出し、テーブルにドン、と置いた。

 カチ。カチ。カチ。

 秒針が時を刻む音が、不気味に響く。


「最後に鉄道です」

「石炭の確保。機関車の割り当て」

時刻表(ダイヤ)に、リュウノスが横から割り込む隙間はない」


 早口でまくしたてるスピンク。


「税関」

「鉄道」

「これらの壁を突破して、茶葉がこの鉄路(ナイフ)の上を滑り、帝都に届くことがあったとしても――」


 スピンクは銀のフォークを、パンの欠片に突き立てた。


「……遅すぎる」

「リュウノス商会は解体され」

「積み荷の茶葉はただの『カビの生えたゴミ』に変わっています」


 懐中時計の蓋をパチ、パチ、パチ、パチ、と開閉する。


「物理法則を捻じ曲げない限り」

「彼らの茶葉は『死体が冷たくなった後』に届く」

「……リュウノスは、詰んでいるんです」


(そう。物理法則は、閣下の味方のはずだ――)

(この世界が世界である限り)

(神でも覆せない)

(はずだ)

(それなのに)

(この胸騒ぎはどこからくるのだろう――)


 男爵は、『銀器とパンで作られた処刑場』を見て、一瞬、気圧されたように固まった。

 だがすぐに、愉快そうに笑い声を上げた。


「ははっ! 実に分かりやすい。君の『運用シナリオ』は完璧というわけだな。安心したよ、スピンク君!」


 男爵は満足気に、血の滴るようなステーキを口に運んだ。

 スピンクは汚れたナプキンで指先を拭う。

 神経質そうに銀器を元の位置へ――寸分の狂いもなく――戻した。


「……ですが男爵様。現在、リュウノス株は底値です」


 ヒュッカテ男爵は、なんのことを言われているのかわからない、という顔をしている。

 スピンクはため息を押し殺して、説明した。


「買い手がいなければ、あなたの『売り』は成立しませんが?」


「そこを何とかするのが、君の仕事だろう!」


 スピンクの右眉がピクリと跳ねた。


(……私は暇ではないのだ!)

(公爵閣下の巨額の注文を秒単位で管理し、市場のパニックを操らねばならんというのに……!)

(この盆暗(ボンクラ)端金(はしたがね)のために……貴重な時間を!)


「……かしこまりました」


 スピンクは、機械のように歪な微笑みを顔に貼り付けた。


「公爵閣下にご迷惑がかからぬよう、細かく分散して『処理』しておきましょう」


「よし、話は決まりだ。さあ、食事を楽しもうじゃないか」


 男爵が呑気にスープを啜る音を聞きながら、スピンクは冷徹に思考を巡らせた。


(そう。リュウノスに逆転の目は、万に一つもない)

(距離、時間、そして賄賂の壁)

(すべてが彼らの死を望んでいる)

(……1週間後の決済日)

(あの東方の猿たちは、帝都の石畳の上で屍を晒すことになるだろう)


 スピンクは、冷え切ったコーヒーに口をつけ、勝利を確信した。


 しかし。

 その『万に一つ』を、本気で取りに行く人間がいることを。

 (スピンク)はまだ知らない。

次回投稿は2026年6月4日(木)です。

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― 新着の感想 ―
この絶望的な状況の中で……逆転はあるのかな? スピンクのキャラがいいですね〜♪
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