第35話 なんのこれしき。
薄暗い天幕の中。
ハルガは、エミルウの目の前に新聞を突きつけた。
「読んでごらん」
パイネの顔が青ざめる。
(ああ、ハルガ様! なんてことを! 屋敷のみんなも、移民街の人たちも、エミルウお嬢様には知られないように……と気を遣ってくれていたのに……!)
エミルウは紙面を読み始めた。
1行、2行。
指が止まる。
震える。
そして――
紙を、ぐしゃりと握り潰した。
「……こんな……こんなの、嘘です……!」
(オリンゼ……! ガスマン公爵……! どこまで私の人生を踏みにじれば気が済むの……!)
「知らされてなかったんだね」
「……はい」
皺の奥から、ハルガの小さく黒い瞳がエミルウを鋭く射抜いた。
「幸せなことだよ。まるで箱入りのお姫様だ」
エミルウは、ふと、周囲の人びとの顔を思い出す。
リュウノス邸。
屋台通り。
どこかいつもと違う……私を気遣うような、よそよそしいようなあの感じ。
誰もが少しだけ『距離』を置いていた。
(あれは……私を守るためだったのね)
「エミルウお嬢様、ごめんなさい……!」
たまらずパイネが泣き崩れる。
「私たち、こんなこと、お嬢様にお見せできなくて……私たちみんな、心の中がぐちゃぐちゃなんです……!」
胸の奥が、きしむ。
「エミルウお嬢様のお名前が……将来が……あんなやつらのために……くやしいよう……うわああああ……」
エミルウは、パイネの背中を優しく撫でながら、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……みなさん、優しいのですね」
守られていた。
でも、同時に――
奪われていた。
涙がひと筋、落ちる。
ハルガが、あっけに取られて目を見張る。
(これほどの辱めを受けておきながら、自分のことより、他人の優しさに涙を流すというのかい、この子は……!)
天幕のランプの炎が揺れる。
「……エミルウ」
ハルガが、試すように低い声を出した。
「帝国の連中に、お前の運命を勝手に書き換えられたまま、泣き寝入りするのかい」
エミルウは、棒を呑んだように固まった。
自分に問いかける。
(私のせいで、シシトラ様の名誉まで傷つけられた……このままでいいの?)
(いつも私を守ってくれた、大事な大事な人……)
(今度は、私が彼を守らないでどうするの……!)
しかし。
私に何ができるだろう。
針と糸だけが取り柄の、ちっぽけな私に。
エミルウは必死に考える。
――記事の最後に、『幽囚姫』のお披露目、とあった。
『そこ』を戦場とするのだ。
私の作品を。
私の名前を。
私の人生を取り返すための戦争。
エミルウは何かを決意した。
「ハルガ様。申し訳ありませんが、本日の基礎稽古はお休みにしてください」
「……ほう。何をする気だい」
「私の運命を、私の手で『縫い直し』にいきます」
ハルガは、目をパチパチとさせた。
最後の弟子が、最高の弟子であったことが、誇らしい。
パイネは顔を上げて、お仕着せの袖口で涙と洟水を拭う。
「好きにおし」
「ありがとうございます」
エミルウは拱手して、パイネの手を握り、走り出した。
針と糸で、この世界に反撃するために。
◇
リュウノス邸の最奥にある、防音扉に守られたビリヤードルーム。
深緑色の羅紗が張られた台を、リュウノス商会の最高幹部たちが取り囲む。
全員が深紅の朱子織長袍に身を包み、直立する。
眼の前の『混沌』を『整理』して、『現実』を書き替えるための儀式が始まろうとしていた。
「……敵の第1のカードは?」
ウメガイの低い声に促され、東方人の老爺・ダンミルが、緑の羅紗の上にタロットカードを滑らせた。
ダンミルは、自分の喉仏に、奇妙な形をした小さな器具を押し当てる。
……ヴオン……と、歯車の回る鳴音。
『……『吊るされた男』』
真鍮製の器具を震わせて、金属の軋みのような合成音声が、防音室に響きわたった。
『停滞、放置、そして朽ちゆく状況。……洋上で腐敗を待つ『一番茶』の暗示でございまする』
ボズの眉間に険しい皺が寄る。
『第2のカードは『運命の輪』。急激な下降。……リュウノス株の『暴落』』
手の中で球杆を弄んでいたリザイアの眼が、すう、と細くなる。
『そして第3のカード。『悪魔』。……束縛、恥辱、名誉の完全なる失墜。……『ゴシップ記事』を示しております』
シシトラのこめかみがヒク、ヒクリ、と動いた。
「……この盤面だけを見れば絶望的な状況だな。だが、我われリュウノスにも、これから引かされる手札があるはずだ」
そう言ったあと。
ウメガイがダンミルの身体を案じて声をかける。
「ダンミル。一息入れようか」
『なんのこれしき。ご主人様。続けさせてくだされ。私以外に『カードの暗示』を読み解ける者はおりませぬ』
病で咽喉部を失った老ダンミルは、震える声でウメガイに訴えた。
「……わかった。では、我われリュウノス商会の手札を確認しよう」
ウメガイの言葉を受けて、ダンミルが自陣のカードを開く。
『第1の反撃カードは『戦車』。……海が駄目なら『陸路』を拓け、との暗示』
ウメガイが考え込む。
「これは……帝都へ向かっているリュウノス商船団、第2陣のことだろうか」
「そんな。積み荷はすべて海の上ですよ! それをどうやって『陸路』などと」
ボズが叫ぶ。
「いや……カードがこう言っている。ならば、あらゆる可能性を探ろうではないか。鉄道、あるいは別のルート……」
『第2のカードは『月』。……偽り、幻想、騙し合いの暗示。市場を欺け、と』
それを聞いた瞬間、リザイアの翡翠色の瞳が、キラリと光った。
キューを握る手を前に突き出し、宣言する。
「その『月』のカードは、私のところへ来たがっている。ガスマンに極上の幻想を見せてやりますよ」
『最後のカード。『悪魔』を打ち破る、最大の切り札は――』
ダンミルがめくったのは、『世界』のカードだった。
そこにいる全員が、1人の少女を思い浮かべた。
ダンミルの機械音声が、微かに震える。
『……エミルウお嬢様のことかと』
「……あり得ない」
シシトラは首を振った。
「こんな『汚い戦争』に、これ以上彼女を巻き込むなど。絶対に――」
「シシトラ様!」
魔界に、少女の声が響き渡った。
シシトラが弾かれたように振り返る。
ビリヤードルームの扉が開け放たれていた。
「ご主人様。シシトラ様。皆様。不躾をお許しください……」
息を切らし、胸を押さえるエミルウがそこにいた。
(シシトラ様……赤い服もお似合いになるのね……素敵……じゃ、なくて!)
部屋に歩み入る。
1歩、2歩。
深紅の長袍で揃えた『龍の結社』の面々の中に、ただ1人。
青磁色に銀糸刺繍をあしらった雀裙の令嬢が、清楚な花のように立っていた。
「シシトラ様。私も一緒に戦わせてください」
眼鏡の奥で、エミルウの琥珀色の瞳が、決意に燃えている。
「だめだ、エミルウ。これ以上、君を傷つけるようなことはできない……これは俺たちの戦いなのだ」
「私の戦いでもあります」
エミルウの凛とした声に、男たちは背筋が伸びる思いがした。
「『世界』のカードが私を指しているのなら……。私は、私を救ってくれたシシトラ様と、皆さんの名誉を守るために戦います!」
エミルウは両手を差し出し、傷だらけの指を――黄金を紡ぐ指を、シシトラの目の前で広げて見せた。
「これは、私の名前で起きている『戦争』ですよね?」
広げた手を握り、力強く微笑むエミルウ。
「なら、私がいなければ終わりません」
その誇り高いまなざしに、シシトラは抗いがたい衝動に駆られた。
この小さな令嬢の前に、思わず片膝を床につきそうになる。
(わかった。エミルウ。俺に命じてくれ――)
シシトラは、幽囚姫に忠誠を誓う騎士になった気がした。
ビリヤードルームはいま、沸騰している。
帝国に反旗を翻すためのカードは、出揃った。
エミルウとシシトラは、いま、世界を書き替えようとしていた。
その光景を静かに見つめながら、ダンミルがウメガイの方を向いて、東方語で低く囁く。
『……ご主人様。あの娘は、守られているだけの、か弱いお嬢様などではありませぬな』
ヴゥン、と機械の喉仏が鳴る。
金属の音声が、歓喜で震えているように聞こえたのは、気のせいだろうか。
『……あれは、『東方の王』の隣に立つ、『龍の花嫁』になれる器ですぞ』
次回投稿は2026年6月3日(水)です。




