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エミルウ ~屋根裏部屋の刺繍姫~  作者: 姫松チミノ
第2章 移民街(バッドランド)
37/56

第34話 ……いいじゃない……その調子よ……

※排外主義、人種主義についての描写が含まれています。注意してご覧ください。

 ヒュッカテ男爵邸、オリンゼの部屋。

 オリンゼの目の前に、今日発行されたゴシップ紙があった。


 インクのどぎつい匂いが鼻をつく。

 醜聞のにおい。

 欲望のにおい。


 一面に踊る大きな斜体文字の見出しは、読者の下世話な興味を煽っていた。


【『刺繍の姫君』を貶める東方の陰謀!】


【社交界の美姫(びき)(オー)令嬢が証明する『真実』は『こう』だ】


 あざとい見出しに、オリンゼは期待に胸を躍らせる。

 記事本文の書き出しから、文字を1行、また1行と、指で追い、読んでいく。


【『帝国工芸博覧会』にも特別出展されたタペストリーの大作『水鏡を()幽囚姫(ゆうしゅうき)』】


【社交界で『刺繍姫』として評判を取る、H男爵家のO令嬢の作品である】


【読者の皆さん。帝国が誇るこの傑作について、最近、あらぬ噂が社交界を飛び交っていたのを、ご存じか】


【こともあろうに、『幽囚姫』を制作した真の作者が、O嬢のほかに存在するのではないか、という中傷である】


【O嬢はこの根拠なき誹謗中傷に傷つけられ、新作の制作も手につかないほどの心痛を味わっている】


(さすがはガスマン公爵様……素晴らしい仕事をしてくださるわ! ……いいじゃない……その調子よ……)


 オリンゼは、記事が自分を全面的に『悲劇のヒロイン』として扱ってくれていることに、歓喜した。


【『幽囚姫』が『無名の没落令嬢』の手になるものだ、などという流言を軽率にも信じてしまった者もいるようである】


【疑いようもない真の作者であるO嬢の名誉のために、当紙は、没落令嬢の正体とその陰謀について明らかにしたい】


【移民出身の成金を手玉に取り、自分を養育してくれたH男爵家の大恩に仇で返す。この『毒蜘蛛令嬢』の名は……】


 この文字を見たかったのだ。

 オリンゼの肩が、醜い笑いで揺れた。


【『毒蜘蛛令嬢』E=S。下手くそな刺繍の糸で移民の男を操り、移民の金で名誉を買おうとする、嘘つきで、恩知らずな、帝国の敵である】


 記事のそばには、諷刺画家が悪意を込めて描いた挿絵――

 『蜘蛛の姿をした醜い女が、口から吐いた糸で、フロックコートを着た『黒い猿』をがんじがらめにして操り人形のように動かしている』絵。

 それを見て、オリンゼは狂喜した。


「あ~はっはっはっは!」


 エミルウの名誉を社会的に抹殺する、完璧な作戦。

 笑いが止まらなかった。


「ホホホホ。これでエミルウは、自分の名前で刺繍を発表することなんて、未来永劫できっこないわね。おとなしく私専属の『代作屋』に戻ってくるのよ……! そして次回作を作りなさい……私を飾るために……!」


 自分の指からはなにひとつ作り出すこともできない。

 世間の厳しさなど何ひとつ知らないすべやかな手で。

 オリンゼは自分の両肩を抱きしめて、勝利を確信していた。


 その部屋の床には――

 かつてあの針子が残していった、できそこないの模造品の無残な断片や、使いかけの糸の屑。

 そして、オリンゼが何度も手にとっては放り出した、手つかずの刺繍枠が散らばっていた。


 オリンゼはドレスのフリルの裾を翻して、部屋の中でくるくると踊り続ける。


「エミルウ! もう一度、屋根裏部屋で飼ってあげるわ……! 今度は一生……!」


 ◇


 移民街の住人たちにとっても、ゴシップ新聞は身近な娯楽だ。

 だが、自分たちがよく知る、あの心優しい住人が『醜聞』の当事者として書き立てられたショックは、街中を激しく揺るがせた。


「こんなことがあるもんかい!」


 パイネたちの顔なじみの屋台のおばちゃんが、ゴシップ新聞を丸めて、物売り台を激しく叩く。


 屋台通りの住人たちは、商売を放り出して、新聞を覗き込みながら言い合いをしていた。


「これ、本当かいな」


「馬鹿を言え、あのお嬢様がそんな人間なわけはないだろう」


「この挿絵を見ろよ。シシトラさんを『猿』扱いしているぞ! 許せねえ!」


 喧騒の中で、一人の若者が呟いた。


「……なぁ。この記事を、もしエミルウさんが読んだりしたら……」


 その声に、住人たちは一斉にハッとなり、押し黙った。

 想像するだけで胸が張り裂けそうだった。


 屋台のおばちゃんが、弾かれたように立ち上がる。


「みんな! 街中にあるこのインチキ新聞を、全部集めて、燃やしちまおうよ!」


「おう!」


 毎日、自分たちに花のような笑顔を向けてくれる、あの無垢で光のようなお嬢様。

 彼女の視界に、こんな悪意と汚辱の塊を入れさせてはいけない。


 ◇


 リュウノス邸では、シシトラとリザイアが、執務室でそのゴシップ紙を目にしていた。

 ビジネスパーソンである彼らは、あらゆる活字をチェックしている。

 社交(ゴシップ)新聞も例外ではない。


 シシトラは怒りと自己嫌悪で煮えくり返り、ただ震えていた。


 リザイアが新聞をぐしゃり、と握りしめる。


「ここまでやりますか。ガスマン公爵……」


 シシトラの呻き声は、地獄の底から漏れてくるようだった。


「俺のせいで、エミルウが……」


「あなたのせいではありませんよ」


「俺は、間違っていた……! アロン=ガスマンなどというチンピラ貴族を叩きのめしただけで、エミルウを救えた気になっていた……」


 喉から悔悟の念がせり上がってくる。


「リュウノスを破滅の危機に陥れ、エミルウのたった一つの誇りすら守ってやれない……!」


 簡単に弱音を吐くような男ではない。

 そんなシシトラが、見苦しいほどに繰り言が止まらなくなっていた。


「俺は、俺はなんて愚かな……!」


 リザイアはしばらく静かな目で見下ろしていた。

 そして。

 キン、と刃音が鳴るような眼光で、シシトラの黒い瞳を真っ直ぐ撃ち抜いた。


「……落ち込むのはそこまでです、シシトラ。ここから先の『泣き言』は、私が許しません」


 リザイアを見上げるシシトラ。


「シシトラ。あの日、エミルウ=スキャルファを助けたことを、後悔しているのですか?」


「馬鹿な。後悔などありえない」


 シシトラの黒い瞳に光が戻る。


「俺は、たとえ100万回生まれ変わっても、同じことをする」


 リザイアが微笑む。


「後悔しているとしたら――ガスマン公爵の『力』と『存念』を見誤っていたことだ。そうだ。それだけだ」


「シシトラ。あなたはやはり最高です」


 リザイアは握り潰した新聞をデスクに広げ直し、記事の『最後の一文』を指差した。


「この、いまいましいゴシップ記事――この部分を、よくご覧なさい」


 シシトラは、気力を振り絞って、自分とエミルウの名誉を蹂躙する活字の海をもう一度見た。


【『水鏡を繍う幽囚姫』は、博覧会に御来臨した皇太后陛下の並々ならぬご感銘を賜った】


【この傑作は皇室がお買い上げになり、皇太后陛下の『慈善のサロン』を飾ることになる】


【帝国の至宝となった『幽囚姫』は、11月第1月曜日に開催される、『慈善大舞踏会』でも披露される予定である】


「……慈善大舞踏会?」


 シシトラの黒い瞳の中を、稲妻が走った。


「……ガスマンの『空売り』の決済日であり。紅茶市場のファースト・オークションの日でもある。……すべてが重なる、11月第1月曜日――」


「あいつらは、リュウノス商会の『死刑執行日』のつもりでしょう。しかし、磨いているギロチンの刃は、あいつらの頭の上で揺れている」


 リザイアの翡翠色の瞳が、禍々しく光った。


「シシトラ。相手の手札は出そろいました。今度は私たちの番です」


 シシトラは深く、長く息を吸い込んだ。

 肺の奥まで入り込んでいた絶望をすべて吐き出し、立ち上がる。

 その顔にはもう、先ほどまでの後悔の影は微塵もなかった。


「リザイア。俺たちの手札を確認しよう。反撃開始だ」

次回投稿は2026年6月2日(火)です。

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