第03話 まだ食べていない……
ヒュッカテ男爵は新聞を広げた。
数秒の沈黙。
次の瞬間、紙面がテーブルに叩きつけられた。
「くそっ! やられた! 詐欺師どもめ!」
誰も顔を上げない。
「南西鉄道が破綻しおった。私が投資した金50枚は煙になった!」
目を血走らせて怒鳴り散らす男爵。
「どいつもこいつも! 愚か者ばかりだ!」
喉が嗄れるまで叫び、そして男爵は肩で息をしながら、紅茶のカップに手を伸ばした。
一口飲み、顔をしかめた。
「この紅茶は冷えている!」
メイドが青い顔で一歩進み出た。
「申し訳ございません、旦那様」
男爵はカップを皿に叩きつけた。
「この家ではまともな仕事ができる人間はいないのか!」
給仕をするパイネの手が震えて、銀盆の上で小さく音を立てる。
ヒュッカテ男爵家では、男爵の機嫌がつねに屋敷の空気を支配していた。
その嵐が吹き荒れる食卓の、最も遠い末席。
エミルウはただ静かに俯いている。
目の前の皿。
バターを塗ることも許されない、硬く冷え切った黒パンの切れ端を見つめていた。
ずかずかと、不機嫌を足音で誇示しながら、男爵がわざわざエミルウの席に来る。
「貴族の体面とはなんと窮屈なものよ! 世間体さえなければ、おまえなどとっくに路地に放り出してやれるのに!」
忌々しげにエミルウを一瞥する。
「この、無駄飯食らいの居候が!」
(無駄飯食らい――私が作るものは、全部『無駄』なの?)
エミルウは、細い肩を震わせながら、頭を下げた。
「……旦那様のお慈悲に、いつも感謝しております……」
「ふん! 口で言うほどに感謝などしていないだろう」
エミルウの顔を覗き込む。
「おまえときたら、死んだ妹にますます似てきおった。なんて憎々しい目つきをしている……!」
(お母さまの悪口は、やめて――)
言葉にしたい。
それができれば、どんなにか。
「世の中は、人生は厳しい!」
「……はい、旦那様」
「紅茶の茶葉も、トーストに塗るバターも、『ただ』で手に入る物などないのだ! それを、なんだ。こ、こ、こんなにバターを、大量に使いおって! 誰の金でこんなまねを」
紅茶。
そんなもの、私の前にはない。
バター。
そんなもの、私の皿にはない。
エミルウの滲む視界の隅に、オリンゼの姿が映る。
何事もないかのように、白パンにバターを塗り、優雅に紅茶を飲んでいる。
エミルウは恐怖に身がすくみ、目の前の黒パンの欠片に手をつけることすらできないというのに。
(私はオリンゼの代わりに怒鳴られているのに――彼女はどうして)
自分の言葉に自分で激昂していく男爵。
食堂を歩き回り。
新聞でメイドの頬を叩き。
床の汚れを怒鳴りつけ。
神に向かって文句を言う。
「執事! フットマンを一人、クビにしろ!」
「旦那様、それは」
「そうでもしなければ、こいつらにはわからんのだ!」
男爵が吐き捨てたその一言で、一人の使用人の人生が壊れた。
男爵の背中が消えて、重い扉が閉まる。
ようやく屋敷の空気が動き出す。
オリンゼは冷めた紅茶を優雅に一口飲む。
ため息をついて立ち上がった。
(エミルウがいてくれて、本当によかったわ)
なにがあっても、惨めな思いをするのは自分ではない、という、残酷な安堵の色が浮かんでいた。
この朝も、どの朝も、同じことの繰り返しだった。
今朝は、ひとつだけ違った。
エミルウの行き先は屋根裏部屋ではない。
オリンゼの従者として、外に出かけるのだ。
「ああ、朝から本当に不愉快だこと。……エミルウ」
オリンゼは、みすぼらしい従妹を見下ろし、酷薄な笑みを浮かべた。
「さあ、ファンシー・フェアへ出かけるわよ」
(まだ食べていない……)
エミルウは慌てて黒パンのかけらを口に押し込む。
オリンゼが声を上げて笑い出した。
「アハハハハ! なんて食い意地が汚いのかしら。居候は、本当に浅ましいことね!」
一瞬。
オリンゼの目が細くなり、声が落ちる。
「……そんなもの残して、さっさと支度しなさいよ」
エミルウは悲しげな瞳で立ち上がった。
「私が『可憐な町娘』として輝くために、あなたにはとびきりお似合いの服を用意してあげたわ」
オリンゼの合図で、メイドが服を持ってくる。
……それを見て、エミルウは息を呑んだ。
ファンシーフェア。
慈善を売り買いする市場。
そこでは何にどれほどの値がつけられ。
何が見向きもされないのか。
エミルウは得体の知れない恐ろしげな予感に、目を伏せた。




