第03話 まだ食べていない……
ずかずかと、不機嫌を足音で誇示しながら、男爵がわざわざエミルウの席に来る。
「貴族の体面とはなんと窮屈なものよ! 世間体さえなければ、おまえなどとっくに路地に放り出してやれるのに!」
忌々しげにエミルウを一瞥する。
「この、無駄飯食らいの居候が!」
(無駄飯食らい――私が作るものは、全部『無駄』なの?)
エミルウは細い肩を震わせながら、頭を下げた。
「……旦那様のお慈悲に、いつも感謝しております……」
「ふん! 口で言うほどに感謝などしていないだろう」
エミルウの顔を覗き込む。
「おまえときたら、死んだ妹にますます似てきおった。なんて憎々しい目つきをしている……!」
(お母さまの悪口は、やめて――)
言葉にしたい。
それができれば、どんなにか。
「世の中は、人生は厳しい!」
「……はい、旦那様」
「紅茶の茶葉も、トーストに塗るバターも、『ただ』で手に入る物などないのだ! それを、なんだ。こ、こ、こんなにバターを、大量に使いおって! 誰の金でこんなまねを」
紅茶。
そんなもの、私の前にはない。
バター。
そんなもの、私の皿にはない。
エミルウの滲む視界の隅に、オリンゼの姿が映る。
何事もないかのように、白パンにバターを塗り、優雅に紅茶を飲んでいる。
エミルウは恐怖に身がすくみ、目の前の黒パンの欠片に手をつけることすらできない。
(私はオリンゼの代わりに怒鳴られているのに――彼女はどうして)
自分の言葉に自分で激昂していく男爵。
食堂を歩き回り。
新聞でメイドの頬を叩き。
床の汚れを怒鳴りつけ。
神に向かって文句を言う。
「執事! フットマンを一人、クビにしろ!」
「旦那様、それは」
「そうでもしなければ、こいつらにはわからんのだ!」
男爵が吐き捨てたその一言で、一人の使用人の人生が壊れた。
男爵の背中が消えて、重い扉が閉まる。
ようやく屋敷の空気が動き出す。
オリンゼは冷めた紅茶を優雅に一口飲む。
ため息をついて立ち上がった。
(エミルウがいてくれて、本当によかったわ)
なにがあっても、惨めな思いをするのは自分ではない、という、残酷な安堵の色が浮かんでいた。
この朝も、どの朝も、同じことの繰り返しだった。
今朝は、ひとつだけ違った。
エミルウは、オリンゼの従者として、数年ぶりに『外』に出かけるのだ。
「ああ、朝から本当に不愉快だこと。……エミルウ」
オリンゼは、みすぼらしい従妹を見下ろし、酷薄な笑みを浮かべた。
「さあ、ファンシー・フェアへ出かけるわよ」
(まだ食べていない……)
エミルウは慌てて黒パンのかけらを口に押し込む。
オリンゼが声を上げて笑い出した。
「アハハハハ! なんて食い意地が汚いのかしら。居候は本当に浅ましいことね!」
一瞬。
オリンゼの目が細くなる。
鋭い声がエミルウの首筋に落ちる。
「……そんなもの残して、さっさと支度しなさいよ」
エミルウは悲しげな瞳で立ち上がった。
◇
朝だというのに薄暗い屋根裏部屋。
出かけるための身支度、と言っても、エミルウは今着ている一着しか服を持っていなかった。
灰色のドレスを脱ぐ。
くたびれたシミーズ一枚の姿になったエミルウは、ドレスに顔を近づける。
裾、袖口、襟裏、脇。
擦り切れた場所すべてに、極細の補修刺繍が無数に施されていた。
肘のところに綻びを見つけると、エミルウは指貫をはめ、針を取り出す。
エミルウは、母の形見のドレスを修復していた。
何度も何度も、何度も何度も縫い合わせた跡。
布は限界だった。
かつては目の覚めるような青いドレスだったが、今はすっかり色褪せている。
上質だったはずなのに、光が透けるほど薄くなった布地。
パフスリーブはしぼみ、スカートはふくらまない。
普通ならとうに捨てるほどに、くたびれ果てた服。
それでもエミルウは縫う。
壊れていく布を、必死でこの世界に縫い留めるように。
母の記憶を布の上に捕まえ続けておくために。
彼女の神業のような技術だけが、ドレスを延命させ続けていた。
エミルウはシミーズ姿のまま、小さく針を動かす。
細い肩が上下する。
裸足。
薄い胸。
母のドレスの傷跡が縫い合わされていく。
まだ生き延びられる。
今日も生きよう。
ガチャリ!
ノックもなく、声もなく、屋根裏部屋のドアが乱暴に開けられる。
エミルウはゆっくりと顔を上げた。
オリンゼお気に入りのメイドが、立っていた。
「オリンゼお嬢様の言いつけで持ってきたわ。今日はこれをつけて出かけなさい、って」
黄麻製の布袋から汚れたエプロンを摘まみ上げて、エミルウの頭の上に放り投げる。
エプロンから強烈なカビの臭い。
(……どこでこんなものを見つけてくるのかしら)
エミルウは、のそり、と、立ち上がった。
「さすがオリンゼお嬢様、いいセンスしてるわぁ!その薄汚いドレスにピッタリじゃない?」
ヘラヘラと笑いながら、メイドがエミルウのシミーズの端をつまむ。
さっきエプロンを摘まんだ自分の指を、シミーズで拭う。
「さっさと服を着て、降りてきなさいよ。オリンゼお嬢様をこれ以上お待たせしたら、酷い目に遭わせるからね」
背中を向けるメイド。
「待って」
エミルウの声。
メイドは振り返ろうとして――途中で動きを止めた。
目の前数センチに、鈍く光る針の先。
エミルウの傷だらけの指。
「襟元が、取れかけているわ――動かないで」
メイドに確認も同意もとらずに、エミルウはメイド服の襟にいきなり針を突き立てた。
顔のすぐそばを針が高速で踊っている。
メイドは呼吸を止めて、恐怖を噛み殺した。
身動きできない。
思わず目を閉じる。
針と糸の音。
音。
エミルウの息遣い。
音。
シャッ! シャッ!
「……できたわ」
エミルウの声。
瞼を開いたとたんに、メイドの目から涙があふれだした。
(さ……刺される、のか、と、思っ……)
綺麗に縫い合わされた襟元を、エミルウは食い入るように見つめる。
「……うん!」
満足げに微笑むエミルウ。
メイドは、震えながらエミルウの顔を見た。
目線が合う。
エミルウはとたんに、興味をなくしたような表情になった。
「……すぐに下に降りるわ」
◇
帝都の中心。
王立公園の中央広場。
ファンシー・フェア。
慈善の市。
それは『貧民への慈善活動』という美名を隠れ蓑にした、特権階級の最も華やかな『遊び場』だった。
エミルウの滲んだ視界の中では――。
令嬢たちのドレスの原色と紳士たちのフロックコートの黒が、色彩の奔流となって迫ってくる。
鼓膜を叩くオーケストラの喧騒。
香水と葉巻のにおい。
そこは、エミルウの鋭敏な五感にとって、暴力じみた圧力に満ちていた。
怯えるように身をすくめるエミルウに、オリンゼが冷たく言い放つ。
「さあ、着いたわよ。エミルウ、パイネ。木箱をあそこへ運んで」
重い木箱を抱えて、エミルウはふらついた。
「おっと」
一人の紳士が、取り落としそうになった木箱を支えてくれた。
「大丈夫ですか?」
若い男の声。
「あ、ありがとう、ございます……」
エミルウの視界では、相手の紳士はぼやけた黒いシルエットにしか見えなかった。
――黒い?
そう。
男性は、帝国人には見かけることのない、黒い髪と黒い瞳の持ち主だった。
漆黒の正礼装に身を包んでいる。
黒、黒、黒。
世界の知らない外からやってきたかのような黒さだった。
そして、ふんわりと漂う『白檀』の香り。
(外国の紳士様なのかしら?)
男性はすでにその場を離れていた。
(ファンシー・フェア――慈善を売り買いする市場、か)
(この市場では、何にどれほどの値がつけられて)
(何が見向きもされないのだろうな)
異国の若い紳士――シシトラ=リュウノス。
彼が一歩を進めると、それだけで周囲が動く。
誰も彼を知らないのに、誰もが彼に道を開いた。
ファンシー・フェア会場の空気が――変わった。




