第02話 私の世界へ。ようこそ
「エミルウお嬢様……お助けください」
見慣れないメイドが、両手にドレスを抱えたまま、入り口で震えていた。
エミルウは目を細める。
「……だれ?」
「パイネです。先月からお世話になっている、メイドの……」
「パイネ。こんな夜中に、どうしたの?」
「これ、オリンゼお嬢様の新作なんです。ブラシをかけようとしたら、こんな裂け傷が……っ」
差し出された絹のドレス。
その惨状を一目見ただけで、エミルウの背筋に冷たいものが走った。
上質な布地を、鋭い傷がむごたらしく横切っている。
「先輩たちのところへ報告に行ったら、……笑っていたんです。私のこと。『あんたがやったんでしょ。確実にクビね。もう路頭に迷うしかないわ』って……!」
パイネの告白は、嗚咽に遮られる。
エミルウは、傷だらけの指でそっとドレスの裂け目に触れた。
指先に、パイネの絶望が伝わってくる。
「……パイネ。どうしてここへ?」
「先輩たちが……『屋根裏の居候なら、なんとかしてくれるかもよ』って……」
パイネは唇を噛む。
その先に続く嘲笑を、エミルウは容易に想像できた。
『あの女は針仕事しか能がないから、屋根裏部屋で飼われている』
エミルウは、見る。
ドレスのむごたらしい裂け目。
(ああ…なんて綺麗なの………パイネ、ごめんなさい……私、こういう取り返しのつかない『破綻』を見ると……ゾクゾクとしてしまうの……)
「ごめんなさい。やっぱり無理ですよね。こんな傷、どう繕ったって……」
無理に笑顔を作って、踵を返すパイネ。
「待って」
凛とした声が、屋根裏部屋に響く。
パイネが振り向くと、エミルウはすでに真鍮の指貫を指にはめていた。
「見張っていて。誰も、この部屋に近づかせないで」
「え……?」
「三分。三分で、終わらせるわ」
エミルウはドレスを奪うように引き寄せると、裂け傷に鼻先が触れるほど顔を近づけた。
(私の針を待っているのね……今、迎えに行くわ!)
迷わず一刺し。
銀の針が、蝋燭の光を跳ね返す。
(このドレスは。私に縫い直されるために、破かれる――きっと、そういう運命だったのね)
エミルウは息を止めた。
針先を狂わせるものは、呼吸すら邪魔になる。
(さあ……私の世界へ。ようこそ……!)
暗い屋根裏部屋。
か細い灯りの中、エミルウの指先が加速する。
もはや指の動きを目で追うことはできない。
部屋の外を見張るように言われたのに、パイネはエミルウの動きから目を離すことができなかった。
時間が巻き戻っていくかのように、ドレスが形を変えていく。
(これは『直す』んじゃない)
そんなものでは、追いつかない。
(最初から、こうだったことにする)
針を持つ指先が、ほんの一瞬だけ、白く滲んだ。
パイネは思わず瞬きをした。
光
(……いま……?)
次の瞬間には、もう何もない。
ただ、エミルウの指が、狂ったような速さで布の上を走っているだけだった。
エミルウは、大きくため息をついて、顔を上げて言った。
「終わったわ」
ドレスに近づき、しげしげと見つめるパイネ。
「……すごい……」
(さっきの、なんだったの……?)
だが、問いはすぐに消える。
目の前の光景の方が、よほど現実離れしていたからだ。
無惨だった裂け傷が、跡形もなく消え去っていた。
完全に布の目と同化している。
パイネの運命は、エミルウの手で縫い変えられていた。
「オリンゼやお屋敷の人間に見つかる前に、早く戻していらっしゃい」
「エミルウ、お嬢様……っ」
振り返ったエミルウは。
ボサボサの髪の奥で、困ったような微笑を浮かべていた。
誰からも蔑まれている屋根裏の令嬢。
どんな貴族よりも気高く美しい『天使』に見える。
私を救ってくれた天使。
だけど。
この天使を救ってくれるものは、きっと、どこにもいない。
真夜中。
二人の視線が交差する。
沈黙が、ひび割れる。
パイネは、エミルウへの感謝と悲嘆の熱い涙が流れるのを、止めることができなかった。
「ありがとうございます……! このご恩は、一生忘れません!」
完璧に修復されたドレスを抱えて、屋根裏部屋を飛び出したパイネ。
小さな胸には、抱えきれないほどの想いが。
今まで知らなかった、熱い痛みの塊があった。
(神様、もしいるのなら、――あのお方をここから連れ去って!)
傷つき、疲れ果てたエミルウは。
今夜、上手に眠れるだろうか。
明日の朝。
エミルウを、オリンゼの父親――ヒュッカテ男爵の、嵐のような暴力が待ち受けている。




